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平和を願う心に。 京都府 舞鶴 10月7日 現地で感じた80年前の史実

また、旅行に行きました。その時にこれは珍しいと緊張して撮った写真が上です。何かわかりますか? ヒントは色。
今回の旅は、まず日本海側の京都に入り、

初日 快晴
のんびり平和な1日

そして、二日目

二日目朝 
お昼前には中国人観光客で満杯に

午後、舞鶴港の海上自衛隊の軍艦を遊覧船で見て周りました。理系の性(さが)。イージス艦、いずも型護衛艦、機雷除去艦、補給艦等。乗務員が手を振ってくれる。

威圧感がスゴい 戦争は怖い

夕方、西舞鶴駅で引揚列車見送りの松に遭遇しました。

夕方 静かな西舞鶴駅 右端に松
昭和20年 引揚列車見送りの松 

第二次世界大戦直後の日本

ポツダム宣言に基づき、海外の生き延びた日本人軍人や軍属、一般居留者(移民)は、日本に返還されました。660万人。その復員や引き揚げるために使われた船を、引揚船と呼びます。連合国軍占領下、船舶不足の中、これらの船は、生き残った旧日本海軍の艦艇、商船(貨物船)、連合国から貸与された船舶など様々な種類の船が利用され、全国の港に到着し、終戦後の混乱の中で、500万以上の人々の帰還を担いました。(帰還を拒否する人もいました)。しかし、抑留されて、いつまでも引揚船に乗れず、亡くなった方が数万人もいました。

主な引揚港

引揚者が上陸した主な帰還港 
函館港(311,452人)
舞鶴港(664,531人)
浦賀港(約50万人)
名古屋港(259,589人) 
博多港 (139万人)
鹿児島港、 宇品港(広島)、小樽港、大竹港、先崎港、文理港、下関港、門司港

多くの港で、引揚者を温かく迎える人々が集まり、労いの言葉をかけました。舞鶴港では、市民が食べ物を提供したり、沿道で迎える姿が見られましたが。。。

舞鶴の港 リアス式海岸
引揚記念館と公園

舞鶴引揚記念館

主にソ連からの引揚者を受け入れていた舞鶴港。他の港が引揚港としての役割を終えていく中、なかなか帰還しない、ソ連からの引揚者を、最後まで受け入れていた唯一の港が舞鶴です。のべ66万4531人、遺骨1万6000余骨。

1945年8月6日と、8日に原爆が投下された直後の9日朝、突然、ソ連は日本の、満洲国(中国の北部)に侵攻開始(ソビエト参戦)しました。15日には、日本敗戦、玉音放送。

ソ連軍により約60万人の日本人(軍人のみならず、満洲国などには多くの一般居留民がいた)が、極寒の地に強制連行されました。(女性や子供の多くは散り散りに、館内のボランティアガイドさんのお話)
8月28日には、さらに北海道 択捉島などにソ連軍は上陸占領。ここでも、日本人はシベリア送りに。沖縄は返還されたが、ここは今でもロシア領です。

悲惨なシベリア抑留生活、いつまでも引き揚げ船を待ち続ける家族の悲痛さ。抑留者は戦後10年以上にわたり、ソ連の捕虜として劣悪な環境下で、戦争補償の強制労働をさせられていました(ドイツも同じ)。それが現物や、再現模型、写真、映像などで展示されていています。

毎日 黒パンと塩汁の食事 カロリー不足

世界記憶遺産 白樺日誌は、心に刺さった。あの劣悪な何も無い状況で、記録(和歌)を残す精緻な仕事を秘密裏に。歴史の証拠は、ユネスコ世界遺産登録10周年でした。舞鶴市の中学校教師は、択捉島に出征し、終戦後、侵攻したソ連軍にシベリアに抑留され、2年間強制労働をしながら、白樺の皮を剥ぎ、煤のインクで書きました。

白樺日誌 没収されずよくぞ持ち帰った

5万5千人が、帰還出来ず、強制労働中にシベリアで亡くなりました。人間のする事か。いいえ、人間だからする。

初めて召集令状、通称、赤紙を見ました。上記の答えです。当時は,、赤紙をもらうと、おめでとうと伝える。天皇陛下に立派に尽くす機会が与えられたから。天皇陛下万歳。
死者犠牲者310万人の内訳は
 軍人・軍属: 230万人
 民間人: 80万人以上
主な民間人の被害
 東京大空襲: 10万人
 沖縄戦: 9万4千人
 広島原爆投下: 14万人
 長崎原爆投下: 7万3884人
 海外30万人以上も
なお、占領された日本が独立を回復したのは、1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効した日で、日米安保条約も締結、米軍駐留(占領基地)が今日まで。

岸壁の母

端野いせさんは、満洲へ出征した息子、新二氏の無事の帰還を信じて、数日かけて東京から舞鶴の港へ何年も、何度も足を運んだ一人です。 昭和29年(1954年)に発表された歌謡曲「岸壁の母」は、いせさんがモデルといわれ、戦争が終わっても帰らぬ息子の生存と復員を信じて、舞鶴港の岸壁で待ち続けた母の心情を歌った歌詞は、人々の心を打ちました。息子さんは帰りませんでした。その岸壁、桟橋が記念館の裏手にあります。記念館で歌を聞くことも出来ます。再ヒットさせた歌謡浪曲師の二葉百合子さんは、いせさんの最期を看取りました。
この悲しい歌の話は、小学校の頃に祖母から聞き知っていました。その舞台が舞鶴とは知りませんでした。

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
届かぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

作詞: 藤田まさと 作曲: 平川浪竜 歌: 菊池章子


2025年10月7日午後の出来事

舞鶴の赤レンガ倉庫へ、午後2時から舞鶴港 自衛艦 観光クルーズに参加。ほぼ満員。好天で暑かった。

自衛艦隊 日本も いずも型空母を持つようになった

暑かったので、赤レンガでお茶をして休憩、まだ時間があったので、少し遠いが、舞鶴引揚記念館へ、次いでに行ってみることにしました。入館すると、
10月7日は舞鶴引き揚げの日。

記念館入口

特別なイベントは、なかったと思います。午前中にあったか? ガラガラ、ボランティアガイドの方がお一人。(12日に市民会館にて、平和記念式典開催)
そのあと、ホテルに早めにチェックインし、なんとなく周辺を散策すると、引揚列車見送りの松に遭遇。

市の引き揚げの日のロゴ

80年前、昭和20年(1945年)10月7日に、引揚船第一号である「雲仙丸」が舞鶴港に入港しました。2100人の引揚げ者と、戦争がやっと終わり、待ちわびた家族たちと、歓迎する舞鶴市民ら。検疫消毒後、西舞鶴駅から、引き揚げ列車に乗り、それを市民はあたたかく見送りました。あの松も。多い日には、4隻も入港したと言う。まさかそれが、13年間も続くとは。

引揚げ者の長い長い列

平和ボケの私には、響きました。偶然は必然か。10月7日。確率0.27%。80年前の、その港とその駅の両方の現場に。
神様仏様のお導きか。80年来の犠牲者、抑留者の霊魂か。
市井の私が出来る事は、過去の過ちを、人々の苦しみを忘れない事。人間は利己的です。過去を美化したり、隠したり、ねじ曲げたり、忘れたりもします。過ちを繰り返してはいけない。悲劇を忘れてはならない。他の人に迷惑を掛けてはいけない。

史実、現場の人々の心を垣間見て、過去を伝えるnoteをしてみました。海外に住んでいた帰国者は、日本では住む所もなく、ヒキアゲシャと呼ばれ、偏見や差別もされたそうです。


旅から帰って3週間、この偶然を振り返り書く気になったきっかけは、Takaaki Uenoさんのニューヨークの国連本部日本語ツアーのnoteでした。ありがとうございます。
https://note.com/lotus_mtgg/n/n6fa443c38a30

10月8日 西舞鶴駅の心が晴れる朝焼け 80年前もきっと

お読み頂き誠にありがとうございます。日本での終戦後の史実を他人事ではなく、少しでも自分事にして頂けますと幸いです。昭和100年10月8日の夜明けは、大変綺麗な朝焼けでした。これは、犠牲者、抑留者の魂の朝。そっと手を合わせ、平和を願いました。

今回の旅の煩悩グルメ紹介はいつかまた、たぶん。
第一弾は、こちら↓


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