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#262_「畏敬の念」を科学する

久しぶりに開催した「温故知新」学習会。
地元で、わたしが中心になって実施している授業づくりを主軸とした学習会だ。

数ある内容項目の中でも、「畏敬の念」は嫌煙されがちな内容項目の1つ。

感動の押しつけではないか?
みんなが「感動」する教材なんてあるのか?

冒頭から辛辣な言葉が飛び交う。

ぼんやりしていて、何を学ぶかが掴みにくい。
そんなイメージがあるようだ。

前半は「畏敬の念を通して何を学ぶのか」
わたしの中での落としどころは「すごいなあ、を分析する」
(以前は「科学する」と言っていたが、科学的とはニュアンスが異なるので最近はこう呼んでいる。)

人間だから、感動する理由は人によって異なる。
その理由も千差万別。
しかし、その「感動」の理由を言語化し、互いの見方や考え方を交流することで、お互いの見方や価値観の違いに気づき、自分にない見方や価値観を獲得することができる。
結果として、ものやこと、人の見方がより豊かになり、多様な価値観の理解を深める一助になる。

畏敬の念は、自分は到底及ばないもの、畏れるという意味での畏怖と敬うという意味での尊敬、尊重という両面が含まれている。
恐れ畏まって近づけないものの存在。
自分を超越した存在に気づくと、人は自ずと謙虚になり、他者と繋がったり他者から学んだりしようとする思いを高めることができる。

自分よりも大きなものに触れることで、自己意識が小さくなり自分の存在の小ささを認識できるので、人と繋がりたい、人の役に立ちたいという思いが高まるようだ。

※ 畏敬の念は集団凝集性を助長する、畏敬の念を抱いた経験がある人は人生の満足度やウェルビーイングが高くなるという報告もある。

つまり、畏敬の念の学習を通して、
偉大なものの存在を認識し
偉大だと感じる理由を言語化し
自分の小ささを認識することで

自分には想像もつかない世界があること
自分だけでは到底見えない世界があることが知的に理解されて
「すごいなあ」「かなわないなあ」という情が湧き起こり
自分をもっと磨きたい、高めたい、このように生きたいという思いや願いが湧き出てくる。

畏敬の念の学習で学ぶのは
① 自分には到底届かないような存在とその理由、意味や価値
② 自分が他者と繋がり生きている存在であることの認識

の2つであると考えている。

よって、①については具体的事象をもとに理解することが、②については自分の生き方との接続が重要になってくる。

後半は教材を使って考えた。
有名教材の「青の洞門」。なかなか癖のある教材だ。

この教材はもともと、「恩讐の彼方に」(菊池寛)という小説だ。
何人も人を殺めた主人公が、その罪を悔い改めるべく人を救うための洞門を掘り進める話である。

わたしが読んで最初に思い浮かべたテーマは
「人は人を殺めた罪を生きながら償うことができるのか」
主人公の了海は、私利私欲のために多くの人を殺めている。
改心して出家したのち、毎年滑落者が多くて有名だった耶馬溪の一部に「青の洞門」とよばれるトンネルを掘り始めるが、果たしてこの行動は贖罪になるのか、という問いが生まれてくる。

物語は長く、複雑。
「何を問うか?」という点でまずは意見が分かれた。

結論として
畏敬の念として取り扱うならば、「了海の生き方」「実之助の生き方」に焦点を当て、美しい生き方とはどのような生き方か、彼らの生き方は美しい生き方と言えるのかを問うて深めたい、という意見でまとまったように思う。

了海は美しい生き方をしたといえるか。
美しい生き方とはどのような生き方か。
了海の生き方は、果たして利他的なのか、利己的なのか。
子どもと共に吟味したい問いがいくつか出てきた。

終末では、美しい生き方の条件を抽象化した上で、
「君たちはどう生きるか」と子どもたちと自分自身に問いたい。

問いはシンプルに。
その問い1つでじっくり考える。
教材が長くて複雑だからこそ、そんな展開で授業をしたいと思う。

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