#266_ローテーション道徳の可能性を探る
ご縁があり、ローテーション道徳の書籍を執筆しています。
現在校正中、ようやくあとがきまで辿り着きました。
牛歩の歩みで進んでいます。
初めてローテーション道徳という言葉を耳にしたのは、わたしが小学校に勤務していた2010年代でした。
そのときの衝撃は今でもよく覚えています。
年間35時間ある道徳の授業づくりを教師が分担することで、子どもの学びの連続性が途切れてしまうのではないか。
子どもの変化を、継続してみることができなくなるのではないか。
そんな不安がよぎり、なかなか実践に踏み出すことができませんでした。
しかし、異動先の学校でローテーション道徳をせざるを得ない状況になりました。
選択肢はありません。
不安を抱えたまま始めた実践の中でわたしが辿り着いた答えは「ローテーション道徳を“しくみ”ではなく生徒も教師も成長する“ステージと”して捉える」という考え方でした。
機械的な運用ではなく先生方の強みを生かせる時間に。
やらされる授業ではなくとっておきの授業をする本気の道徳の時間に。
生徒も先生も、迷いながら考え続け、自分の答えを生み出していく時間に。
そうした工夫と意識の転換を重ねた結果、実践を始めて1年後には9割の生徒が「道徳楽しみ!」と言ってくれるようになりました。
「考察する若者たち」(三宅香帆、PHP出版、2025年)で、三宅氏は令和の時代を「最適解(明確な答え)を求める時代」だと表現しています。
努力しても報われるとは限らず、生まれた環境や運に左右されると感じやすい社会の中で、人は自分の感情や感覚よりも「正しそうな答え」に自分を合わせようとする。
AIやアルゴリズムが発達し、その傾向はいっそう強まっているといいます。
確かに、検索すれば答えらしきものは見つかりますし、AIを使えば試行錯誤しなくても「正しそうな答え」にたどり着くことができます。
しかし、だからこそ道徳の時間は自分自身の「納得解」をみつけてほしい。
まずは先生方が迷いながら「納得解」となる授業を見つけてほしいと願っています。
ローテーション道徳は、「迷い」を教室に取り戻すきっかけでもあります。
授業を分担することで生まれる余白は、先生自身が迷い、考え、試行錯誤する余裕を生み出します。そのような先生の姿をみた生徒は「考えることそのもの」に価値を見いだすでしょう。
うまくいかないと感じる授業があっても大丈夫。
大切なのは、その悩みを一人で抱えずにチームで引き受けていくことです。
そして、先生方がチームで学び続ける姿を生徒に見せることです。
本書が、ローテーション道徳を教師の効率化のためのしくみではなく、自分たちの学校らしい道徳をつくる、生徒も教師も考え続けるためのステージとして捉え直すきっかけになれば、これ以上の喜びはありません。
忙しい日々の中で奮闘している先生方にとって、
「完璧じゃなくてもチームで臨めば大丈夫。」
「もっと生徒が深く考え、共に成長できる授業をつくりたい。」
そう思えるきっかけとなる一冊になっていれば幸いです。
