1971年新旧激動の文化史〜ON、馬場猪木、アイドル、仮面ライダー他
先日、1971年の9月のアニメ&特撮番組の激動ぶりについて書かせていただきましたが。
実はこの1971年という年は、スポーツや音楽、カルチャー全体を通しても、巨大な英雄たちの世代と、新しい世代が交錯するという、極めて重大な年であったように思うのです。
当時小学校5年生であった私は、それらをリアルタイムで体感したので、今回はそれを、いささかの実体験を交えて、書かせていただこうと思います。
〇プロ野球~長嶋茂雄が最後に輝いた年
先日、プロ野球の偉大な星である、長嶋茂雄さんが亡くなられました。
その長嶋さんが、最後に打撃タイトルを獲得し(首位打者)、最後にMVPを獲得した年。つまり「最後に輝いた年」が、この1971年でした。

この前の3年間、打撃タイトル争いでは、王貞治が首位打者とホームラン王を獲得し、長嶋さんは打点王にまわるという結果が続いていました。
打撃三冠といっても、やはり打率とホームランの方が重視されますから、僕ら当時の子供からしたら「大人は長嶋長嶋と騒ぐけど、王の方が実力的には上じゃないの?」という、素朴な疑問があったわけですよ。
しかしこの年の長嶋さんは、後半戦不振に陥った王に打率で差をつけ、5年ぶりに首位打者を獲得。巨人軍7連覇を見事に牽引したのです。
長嶋茂雄 打率.320 ホームラン34本 打点86点
王貞治 打率.276 ホームラン39本 打点101点
首位打者の獲得は6度目で、これは当時の新記録、5回目のMVP獲得も、最多タイ記録でしたから、ミスタージャイアンツにふさわしい活躍でした。

長嶋さんはこのシーズン中に、史上5人目となる通算2000本安打も記録しています。まさにこの年は長嶋イヤーで、写真を見ても、当時35歳の円熟したスーパースターのオーラが、溢れ出ていますね。
同時にこの71年は、ONが打撃タイトルを独占した、最後の年にもなりました。翌年から長嶋さんは成績を落として、タイトル争いに加われなくなり
ました。つまり、「本当の意味でのON砲全盛時代」も、この年が最後だったのです。

幸運なことに、私はこの年の3月に、オープン戦ながら後楽園球場で巨人戦を生観戦し、王・長嶋のアベック・ホームランを目撃しています。
(大学生の兄を訪ねての、東京旅行での観戦でした)。
オープン戦でしたが、春休み中であり、場内はびっしり満員でした。
後楽園球場は狭い球場だったのですが、その分観客のスシ詰め感があって、後の東京ドームにはない、独特の高揚感がありました。
そんな中で、観客の期待に応えてホームランを打つ王、長嶋さんを見て、「さすが千両役者だなあ」と思いました。当時の巨人軍の絶対的な王者感も凄まじく、まるで夢の世界を目撃してるみたいでしたね。
(長嶋監督解任、王貞治引退の1980年にも私は、後楽園球場で観戦していますが、その時には、夢のような感覚は消えていました・・・)
〇プロレス~馬場、猪木が最後に共闘した年
そしてこの年は、日本プロレスでジャイアント馬場とアントニオ猪木がタッグを組んで共闘した、最後の年でもありました。12月に猪木は、日本プロレスを除名され、それ以降二人は別々の道を行くことになったからです。


この年3月に猪木がUN王者になったことで、インター王者の馬場を推す派閥との対立が激化。5月のワールドリーグ決勝戦後に、猪木が馬場に挑戦する事態となりました。
その後二人は、日本プロレスフロントの改革という部分で共闘したものの、
「猪木が馬場をも追い落として日本プロレスを乗っ取ろうとしている」という事実が発覚し、12月13日に猪木は除名となってしまいます。
私はこの年、日本プロレスの興行も生観戦しています。それも猪木の乗っ取り事件が進行していた、12月2日の浜松市体育館で、でした。
(馬場が上田馬之助から、猪木の乗っ取り計画を聞かされたのが12月1日。12月3日に選手会が招集されたそうですから、渦中も渦中でした)
そんなこととは露知らず、初めて生で見るプロレス、生で見る馬場・猪木に大興奮・・・と言いたいところですが、そうでもなかったのです。
セミファイナルで行われたアントニオ猪木対マイク・パドーシスとの試合。
45分3本勝負と発表されながら、何故か猪木は、コブラツイストでギブアップを奪うと、そのまま控室に帰ってしまったのです。
どうやら30分1本勝負が、手違いで3本勝負と発表されたようですが、そんな「手違い」が起こること事態に、何か嫌な予感はしましたね。
メインエベントはジャイアント馬場&坂口征二&グレート小鹿対ドリー・ファンク・ジュニア&リップ・タイラー&ディック・スタインボーンで、ドリーが馬場にバックドロップを決めて、「さすがNWA世界王者だなあ」と、感心したことは覚えています。
何はともあれ場内は5000人以上の観客で超満員で、この日本プロレスが、猪木の除名→新日本プロレスの旗揚げ、馬場の独立→全日本プロレスの旗揚げ(翌年)によって、わずか1年4か月後に崩壊してしまうとは、夢にも思いませんでしたね。
〇大相撲~大横綱・大鵬の最後の優勝と引退

大相撲でも、この年の1月場所で、大横綱の大鵬が、最後の優勝(32回目)を果たしていました。
「巨人・大鵬・玉子焼き」と言われた時代も、前年は玉の海と北の富士が優勝3回、玉の海が2回、大鵬は1回という結果で、若い力の台頭で終わりを迎えようとしていました。
しかしこの場所、大鵬は本割、優勝決定戦と玉の海に連勝して優勝を果たしたのです。老いた英雄の逆転優勝劇。これには私も感動したものです。
しかし大鵬は5月場所で貴ノ花に敗れて引退。さらに、次代を担うはずの玉の海が10月に病死してしまいます。
翌年以降、大相撲は輪島や貴ノ花ら人気若手力士の時代となり、大きく様変わりしていきましたね。
〇映画~大映の倒産
一方、不振が続いていた日本映画界では、ついに大手の大映が倒産するという事態を迎えました。
大映には『ガメラ』シリーズがありましたから、これは我々子供たちにも、ショッキングな出来事でしたね。映画会社が潰れるという、身も蓋もない形で、ガメラが終わってしまうとは、哀切の極みでした。

倒産直前、私は大映の映画館で『ガメラ対深海怪獣ジグラ』を観賞しました。以前のガメラ映画に比べて、明らかにお金がかかってなかったし、幼稚園児が主役のストーリーも雑でした。おまけにもう併映作を作る余裕もなかったのか、同時上映は1958年の『赤胴鈴之助』のリバイバルでした。
やたら淋しく、もの哀しい思いがしましたね。
大映の倒産によりその映画館は、東宝映画を上映するようになり、私はそこで『ゴジラ対へドラ』を観賞しました。
ガメラの映画館でゴジラを見るのは、不思議な心境でした。しかも『ゴジラ対へドラ』という映画自体が、サイケで、シュールで、奇天烈な作品だったので、「ゴジラ映画らしくないゴジラ映画を、ガメラの映画館で見る」ということで、訳の分からないトリップ感に襲われました。

それにしても、へドラのこんな写真が、少年マンガ雑誌の表紙を飾っていたのですから、ずいぶんとカオスな時代だったと、思いますね。
漫画といえば、前回とも重なるのですが、1971年は『巨人の星』『タイガーマスク』『柔道一直線』と、一世を風靡したスポ根物が、続々と連載終了を迎えた年でもありました。
特に『巨人の星』の飛雄馬が左門と京子の結婚式を窓からのぞいて、寂しく去るラストは、あまりにも切なく、アニメ版の方では救われましたね。

〇歌謡曲~女性アイドル・ポップスの誕生
ということで、大きな時代の終わりとしての1971年に注目してきましたが、ここからは「新しい文化の台頭」という側面を見ていきます。
最も特筆したいのは、この年が「女性アイドル・ポップス」誕生の年だったということですね。
前年70年の女性ヒット歌手の代表といえば、藤圭子でした。その他のヒットを見ても由紀さおり、いしだあゆみ、辺見マリ、青江三奈、ちあきなおみなど、アダルトな女性歌手で占められていましたね。
この年の冒頭からの、女性歌手の30万枚以上を売り上げた曲を、挙げていくと。

渚ゆう子の「京都慕情」、西田佐知子の「女の意地」、加藤登紀子の
「知床旅情」、朝丘雪路の「雨がやんだら」、いしだあゆみの「砂漠のような東京で」と、完全にアダルト女性歌謡の流れが、継続していたことがわかります。

この傾向が最初に揺らいだのが、4月25日に発売された、小柳ルミ子の「わたしの城下町」でした。アイドル的とまでは言えないものの、城下町を訪ねる女性を描いた作品は、大人の歌とは違う清純路線のものでしたし、当時19歳の小柳ルミ子のフレッシュさも鮮烈でした。

そして小柳に続き、6月1日、ついに元祖女性アイドル・南沙織の『17才』が発売されます。

「♬誰もいない海 二人の愛を確かめたくて」「好きなんだもの 私は今生きている」。それまでのアダルト女性歌謡とは別物の、同世代的な歌詞に、同時代感あふれる曲調。何より、ミニスカートのよく似合う、南沙織の繊細な少女性、アイドル性が、際立っていました。
この一撃が、これ以降の歌謡界の潮流を、大きく変えてしまいます。
この後、アダルト系ヒットの欧陽韮韮「雨の御堂筋」をはさみ、10月には
女性アイドルの決定打となる天地真理がデビューします。

翌72年に天地真理はオリコン・シングルチャート3曲連続1位の快挙を成し遂げ、麻丘めぐみ、アグネス・チャンら後続アイドルも続々とデビュー。
郷ひろみ、野口五郎、西城秀樹ら男性アイドルも台頭し、歌謡界の潮流は若者向けのアイドル・ポップスへと、完全にシフトしていきます。
その契機となったのは、疑いなくこの年の南沙織のデビューにあったのです。
〇文化全般~若者文化の定着
そしてこの1971年は、後の若者文化の起点になるような、数々のモノが誕生した年でもありました。


銀座にマクドナルド1号店が開店したのが7月。カップヌードルの発売が9月でした。
マックとカップヌードルは、60年代と70年代の若者文化をバックリと分かつものでしたね。あの学生運動の時代、大学生たちはカップヌードルを食べていなかった・・・と考えると、ここからが現代だという感じが確実にありますね。

そしてこの時代特有の雰囲気でいえば、「non・no」の創刊で、「an・an」と並んでの女性雑誌のブーム、ホットパンツのブーム、そして仇花的だったとはいえ、女子プロボウリングの大ブームと、女性の文化が一気に活気づいた年であったことも、忘れられません。

〇そして、仮面ライダーともう一人の「飛翔仮面」
さてこの年登場したニュー・ウェーブといえば、前回も取り上げた『仮面ライダー』を忘れるわけにはいきません。

石森章太郎の漫画版は、テレビ放送開始と同時期に、「週刊ぼくらマガジン」にて連載開始します。しかしわずか8回を連載したところで、雑誌が廃刊となってしまい、『タイガーマスク』と共に、「週刊少年マガジン」に移籍となります。
何という不遇・・・という感じもあったのですが、これには「マガジン」の方の事情もからんでいたようで(青年誌化したことで、部数が急落していた)、「ぼくらマガジン」だけの問題ではなかったようです。
実際、『あしたのジョー』『天才バカボン』に、『仮面ライダー』
『タイガーマスク』が加わったマガジンは、少年漫画誌らしい雰囲気を
取り戻した感じで、僕ら少年ファンは歓迎しましたね。

漫画版、実写版にはタッチの違いはありましたが、共通していたのはやはり、バッタを改造したライダーのジャンプ力、飛翔の魅力でしたね(原題は『仮面ライダー ホッパーキング』でしたから)。
ウルトラマンのような光線技ではない、その昔の月光仮面の拳銃でもない、自分の肉体を駆使して、大きくジャンプしてのライダーキックの魅力。
新時代のスピード感を持ったヒーローだったことは、間違いないです。


しかしこの年には、偶然か必然か、もう一人の「仮面の飛翔する男」がデビューしていたことも、是非記憶にとどめておきたいのです。
『仮面ライダー』連載中の少年マガジンの表紙を、堂々飾ったこともある、プロレスのミル・マスカラスです。

マスカラスは「毎試合覆面を変える、千の顔を持つ男」として話題を集め、この年の2月に待望の初来日をしました。
その来日第1戦、後楽園ホールでの星野勘太郎戦を、私はテレビ観戦しましたが、これは私の観戦キャリアの中でも一、二を争うくらいの、衝撃的な一戦でしたね。
試合の最後にマスカラスが星野に決めたダイビング・ボディ・アタック。
あんな技は、それまで一度として見たことはありませんでしたから。
コーナー最上段から、寝ている相手に決めるニードロップや、ボディプレスなら、それまでのプロレスにもありました。だけどコーナーから、リング中央で立っている相手にダイビングするなんて、当時の常識からは考えられもしなかったのです。
しかもこの時のマスカラスの飛行体型の美しさ、ジャンプの飛距離といったら、筆舌に尽くしがたいものがありましたから。
(下の写真は、その時の衝撃を、見事に表現した写真だと思います)

星野勘太郎が、飛んでくるマスカラスを、茫然と見上げてるじゃないですか。こんな視線は、それまでのプロレスでは全くなかったんですよ。
で、下の方の観客はマスカラスを追えてなくて、上の方に行くほど観客は口アングリ。
まさに、それまでリング上の平面で展開されていたプロレスが、突然「立体」化・3D化した、コペルニクス的瞬間だったのです。
マスカラスはその後、全日本プロレスで「スカイ・ハイ」ブームを巻き起こすのですが、この初来日の時が一番の衝撃でしたね(当時29歳で、ジャンプ力も一番あった頃でしょうし)。
終幕が近づいていた日本プロレスで、しかし新しい時代の扉も、開かれていたのです・・・
・・・というように、新旧が入り乱れて、激動した年が1971年でした。
このような時代状況の中で、前回紹介した、飛雄馬やジョーやタイガーマスク、ウルトラマンや仮面ライダーの戦いがテレビで描かれていたことを、
改めて強調しておきたいと思います。





〇おまけ・AIフェイク画像による1971年
さてラストにおまけとして、この1971年を題材にした、AIフェイク画像をつけておきましょう(チャットGPTで作りました)。
一つ目は、1971年を飾った新旧ヒーローを並べた、架空のテレビ雑誌の表紙です。
まあそれぞれ、他人の空似として見てもらいたいですがw
この年ならではの雰囲気が、少しは出ているんじゃないですかね。

そしてこちらは、私が後楽園球場に巨人戦を観戦に行った時を再現した、
AIフェイク画像です。
隣にいるのが兄だと面白くないので、姉に変えてしまいましたがw
姉のモデルにしたのは、見てわかる人もいると思いますが、『帰ってきたウルトラマン』で、坂田アキを演じた某女優さんですね。
(兄とは同年齢だったので、脳内変換してしまいましたw)
実際も、晴れ渡る晴天の、満員のデーゲームでしたが、こうして見ると、
日本の、幸せな時間という感じがしますね・・・

