常夏諸島、響く怒号
2004年10月某日──。
大阪からおよそ6,600km離れた異国の地、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島ホノルルに、俺は降り立った。
数日前に結婚式を挙げ、新婚旅行で訪れたのだ。
段取りは海外旅行の経験がない俺に対して、イギリスやイタリアに旅行したことがある嫁さんに任せっきりにしていた。なので、俺はただただお気楽ツアー気分である。
「ちょっと奮発しちゃった!」
全てを任せっきりにしていたのだから、そう言われても反論のしようが無い。
まあ良い。
今回の旅行では「イライラせず、嫁さんに合わせる」というのが自己テーマであったのだ。
若い頃の俺──とはいえ三十路に突入している──は現在よりもイラチ度350%増(当社比)で、それに対し嫁さんはマイペースを通り越して「待ち合わせの時間を守った回数が、全体の約3%ほど」という時間感覚に差がありすぎる、とんでもなく最悪な相性の2人である。
よく結婚したもんだと、20年以上経っていまだに思う次第。
ただ、今回は新婚旅行である。
この旅行を嫁さんには存分に気分良く楽しんでもらいたいという気持ちから、そんな自己テーマを設けたのである。
空港前のターミナルには何台かのアメリカ車が停まっていた。その中には黒塗りのリムジンもあり、初めてそれを見た俺は「おー、金持ちの車やー」と庶民丸出しの感想を呟いていた。
「ここがハワイとはいえアメリカかー。お、ヤシの木!」
などとお上りさん全開でキョロキョロしてると、嫁さんが言った。
「あ、あれがお迎えの車!」
指差す先を見ると、先ほどの黒塗りリムジン──。
ドアの前にはスーツ姿で長身の黒人運転手が立っている。若い頃のデンゼル・ワシントンに似ていた。
ってかさ……どんだけ奮発したの……。
俺はかなり不安になっていた。
運転手が後部座席のドアを開けてくれたので、促されるまま乗車する。
なにこれ……
どこの富豪が乗るリムジン……?
革張りシートにシャンデリア、天井に無数のフルート型シャンパングラスが逆さまに吊り下げられていた──。
再び思う……どんだけ奮発したの……。
常夏の島でサブイボが立っていた。
「あのさ……リムジンって贅沢すぎん……?」
「大丈夫! オプションだけど高くなかったから!」
「あ、そうなん……? まあ……ええねんけど……」
いや、ええことはない。
そう思っていたが、嫁さんの楽しそうな顔を見ると何も言えなかった。
しばらくするとホテルに到着。
運転手が開けてくれたドアからさっさと降りて、ホテルへ向かう嫁さん。
「え? こういう時ってチップを渡すもんやないの?」
そんなことを考えてる間にも距離が離れていく嫁さん。
サングラスの奥の瞳は俺を捉え続ける運転手。
ガサゴソと取り出した財布から1番手前の紙幣を1枚、慌てて抜き出し運転手に手渡した。
「センキュウ」
「Thank you」ではない。「センキュウ」である。
運転手は無愛想に言った。
「Thank you」
俺が慌てて渡したのは1ドル札だったのかもしれない。
俺は深々と運転手にお辞儀をし、嫁さんの後を追った。
その最中、ホテルの入り口を見て思った。
「これって、あの有名なホテルちゃうん……お高いんちゃうん……」
嫁さんに追いついた俺は言った。
「運転手さんにチップ渡さなあかんかったんちゃうん?」
「あー、そうやった! 渡してくれた?」
「渡したわ! 俺は海外初めてなんやから頼むで……」
「ごめんごめん!」
そんな会話をしつつ、チェックインを済ませて部屋へ。
荷物を置いてベランダへ出てみた。
そこに広がるのは絶景──。
雄大なダイヤモンドヘッド、ワイキキビーチに寄り添うように美しい海、青い空に照りつける太陽。
Mountain、Ocean、Sun──。
MOSバーガーか!
「ワイキキビーチといえばコレ!」としか言いようがない景色を見ながら、そんなことを考えていた。
写真では何度も見てきたが、本物はやはり……。
っていうか、やっぱこういうホテルって海側の方が宿泊料高いんちゃうの?
三度思う……どんだけ奮発したの……。
いくらかかってんの? しかし、それを知った瞬間に文句を言ってしまいそうだ……。
「自己テーマから……逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」
碇シンジになりきって乗り切った。エヴァ、ほとんど知らんけど。
結果から書く。
ロコモコやバドワイザーを片手に食べたロブスター、雨上がりに見た空へと垂直に伸びる虹、嫁さんと2人で見た海に沈む夕焼け、ベッドから抜け出し1人で見に行った海から昇る朝焼け。色々なものが楽しかった。
クルーズ船で相席になった老夫婦に促され、生演奏で無理矢理踊らされたチークダンス。
日焼けしすぎて因幡の白兎よろしく、全身真っ赤になって寝返りもうてず、水をはった浴槽でホルマリン漬けのように眠ったのも、今となっては良い思い出である。
ただ一点を除けば……。
時間は遡る。
ホテルにチェックインして部屋に荷物を置いたところで、早速嫁さんは買い物に行きたいと言い出した。嫁さんは入念にガイドブック等で自分が行きたい場所をピックアップ済み。主にファッション系である。
正直、俺は全く嫁さんの買い物には興味がないのだが、こんな時ぐらい嫁さんに付き合うべきだろうと付いて回った。入る店、入る店、それはパステルという文字がピッタリな色調で、青空と太陽とも相まって俺の目はチカチカしていた。
しかし俺は脳内で自己テーマを反芻し、俺に「似合う?」などと意見を求めてくる訳でもない嫁さんにただただ付き添った。
最初の店に入ってから、7店舗目を出る頃には4時間が経過していた──。
「行きたかった店、全部行けた! ありがとう!」
嫁さんがそう言った瞬間、
「長かった我慢という名の戦いに、終止符が打たれたのだった……」
そんなナレーションが脳内に流れた。
そして俺は数メートル先に見える雑貨屋を指差し、嫁さんに尋ねる。
「俺も身内に土産をある程度買っておきたいから、あの店に入っていい?」
「いいよ!」
いくつかの袋を手に、嫁さんは機嫌良く答えた。
店内であれこれ見て回り、「親にはコレとコレ、弟にはコレかな? 甥っ子には……姪っ子には……」と、自分の買い物なら大概時間をかけずに選ぶのだが、人様へのお土産となればそれなりに迷うものである。
その時、店の外で待っていた嫁さんが言った。
「ねえ、まだ時間かかるの?」
俺は時間を確認した。入店から経った時間は8分である。
10分も経っていないのである。
脳内で静かに、プツンと何かが切れる音がした──。
ツカツカと嫁さんに歩み寄り、2人の
距離が1mほどのところで立ち止まった。
「今……なんつった……?」
自分でも自分の感情が分からぬほど、静かに嫁さんに尋ねた。
嫁さんは少し動揺しつつ答える。
「え? まだ時間かかるの……?」
「じゃあかあっしわぁーっ!」
じゃかあしいのは俺である。
50数年の人生で一番デカイ声を張り上げたと、今をもってしても断言できるほどである。
俺は一度大きく息を吸った。ゴジラが放射能を吐く前触れと同じである。
息を吸い終わって一拍置き、俺は口を開いた。
「お前が店を何軒も回る間ずっと我慢してたんやぞ! 何時間待ったと思うとんねん! 4時間やぞ! 4時間! そんで俺がちょっと土産を選ぶのに10分も待ってへんのに、何やそれは! ふざけんのも大概にせえよ! アホンダラッ! クソがっ!」
直後、俺はめまいがした。
当然である。さっきと同じ声量で、コレを一気に捲し立てたのだから──。
そして、空っぽになった肺が空気を欲し、ハアッハアッと息が上がった。
嫁さんは何かを言おうとするが言葉にならず
「あ……や……あの……」
などと発するのがやっとである。
少し間を置いて、息が整った俺は嫁さんに向かって静かに言った。
「別行動や──」
嫁さんに背を向けた俺は歩き出した。早くこの場を離れたかった。周囲の方々に注目されまくっていたからだ……。
街を一人自由に巡る。
さっきとは違う意味で大きく息を吸う。異国の空気をたっぷりと吸い込む。
アメリカ車の排気ガスの臭いがした。
少し喉が痛い。それはそうか、いきなり爆発的な声量で怒鳴ったのである。喉に負担がかかっても当然なのだ。
「あー、あー」
生中を8杯飲んだ翌日ぐらい声が掠れている。
1時間ほど経っただろうか──。
さすがに冷静になった俺は「あそこまで怒鳴ることはなかったかな……」そんなことを思った。喉の痛みと同程度には心も痛かった。
少しチリチリする──程度だが。
何気に振り返ると、嫁さんが立っていた。少し距離を置いてずっと付いてきていたらしい。
グラマラスな水着姿の金髪女性が表紙の雑誌を、まじまじと見ていたこともバレていたのだろうか……。
「なんや、ずっとおったんかい」
「うん……あの……さっきはごめん……」
「まあ、もう少し考えて喋ってくれ。なんていうか……俺もデカイ声を出しすぎた、すまん」
「うん、ごめん」
今回ばかりは嫁さんも反省しているのか、さすがに項垂れていた。
まあええか。そう思いながら2人で街を巡った。
その後は前述通り、楽しい旅行となった。
時は数年流れる──。
当時勤めていた職場は就業時間はずっと、職長の好みでMBSラジオが流れていた。
朝8時になると──現在は終了してしまったが──「ありがとう浜村淳です」という関西では大人気の長寿番組が流れていた。
その番組の中で「ありがとうファミリー劇場」というラジオドラマのコーナーがあった。
ちょくちょくテーマに沿った体験談をリスナーから募集して、それをラジオドラマにするということもあった、人気コーナーである。
ある日「旅行先でのトラブル」みたいなテーマで、体験談を募集していた。
「ハワイでの話、送ってみたろかな……」
無論、嫁さんに許可は得ていない。昼休憩中にポチポチとメールを作成、昼休憩が終わる直前にMBSラジオへ送信し終わった。
それから2週間ほど経っただろうか?
そんなメールを送ったことを忘れていた俺に、見覚えのない固定電話の番号からiPhoneに着信が入る。
「また何かの勧誘か?」と疑心暗鬼ながらも出る。
「もしもし、私、MBSラジオで、ありがとう浜村淳ですのディレクターをしております◯◯と申します」
????
MBSラジオはいつも職場で聞いてるけども……。
ん? もしかして──!
「先日送っていただいたメールなんですけども、是非ラジオドラマにさせていただきたいと思いまして!」
マジか! ってか、マジか?
本気と書いてマジか?
「そこでですね、少しラジオドラマとして脚色させていただいてもよろしいですか?」
「あ、まあ、ラジオドラマとしてそのままでは使えませんもんね、大丈夫ですよ」
嫁さんに許可をもらう前に、勝手に話を進めた。俺、悪人である。
「ありがとうございます!現在の予定では◯月◯日の放送予定になっておりますが、変更になる場合は追ってご連絡させていただきます」
「承知いたしました、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。失礼いたします」
そうして電話を切った。
何をどうよろしくされるのか分からんが、とにかく、よろしくとハワイの話を送り出した。
娘を嫁に出す時もこんな気持ちなのだろうか?
いや、絶対に違うな……。
家に帰った俺は、事の顛末を嫁さんに話した。
「どうせ私を悪者に仕立てた感じで送ったんやろ!」
そう決めつけられ叱られた。
仕方がないので、MBSラジオに送ったメールを読ませた。
「……これは、ちゃんと実話やな」
押し切った! 寄り切った! 俺の勝ちである!
時が経ち◯月◯日の前日になっても連絡が無かったので
「あー、いよいよ明日か……」とワクワクしていた。
「こんな気持ちいつ以来かしらん?」
とワクワクしていた。
気持ちは恋する乙女であった。
もちろんおっさんなのだが。
ついに当日の8時を迎えた。
ラジオからテーマソングが流れた。
ありがと〜♪ ありがと〜♪
らららんらんららんら〜ん♪
毎朝聞き慣れたこの曲も、いつもとは違って聞こえた。恋する乙女(おっさん)はいつもこんなにハッピーなのだろうか?
仕事の手も軽やかである。
いつもが「あ〜らよっこいしょ、ほれよっこいしょ」なら、その日は「るんるんるん♪ おほほ、捕まえてごらんなさ〜い♪」ってなもんである。
ひたすらに気持ち悪いおっさんなのだ。
そして、とうとうその時間がやってきた。
「ありがとうファミリー劇場です」アシスタントの女性がコーナータイトルを読み上げた。
ニコニコではない。
ニヤニヤである。
ペンネームを読み上げられて興奮していた俺は、ラジオドラマとして「ハワイでの云々かんぬん……」と話にタイトルを付けられていたが聞き逃していた。
痛恨の極みである。
浜村淳さんが俺、アシスタントの女性が嫁さんを演じる。
大筋は送ったメールに準拠している、が。
話が進むに連れ、嫁さんが事実より悪い女になっていく。
俺が嫁さんの買い物に付き合った時間が8時間になっていた。倍である。
最後の仲直りのシーンで、俺役の浜村さんが「俺も怒鳴りすぎた、ごめんな」と謝ると、嫁さん役の女性アシスタントは「悪かったって認めるのね? じゃあ、あそこで売ってるアクセサリーを買ってくれたら許してあげる」などと宣うのである。
あー、これは嫁さん怒るな……。
仕事が終わり帰宅する。
恐る恐る嫁さんに尋ねた。
「今日、ラジオ聞いた?」
「いや、聞いてないけど……あ、あれって今日だっけ?」
「うん、まあ、聞いてないならええか」
「すっかり忘れてたわ。でも、スマホにradiko入れてなかった? どんなんやったか聞かせてよ」
こんな状況を世間では「藪蛇」と言うのだ。
radikoを起動しアレコレと操作する。
ありがと〜♪ ありがと〜♪
らららんらんららんら〜ん♪
「いや、オープニング曲とかいらんから、ラジオドラマのところだけ聞かせてよ」
嫁さんに促され、ラジオドラマの部分まで早送りした。
黙って聞く嫁さん。
沈黙が逆に怖い──。
ラジオドラマが終わった。
「私、こんな悪い女ちゃう! 浜村淳め!」
「いや、浜村さんが脚本書いた訳やないから……」
「でも、浜村淳がラジオで流しよった!」
「そこはほら、ラジオとかテレビって少し脚色しておもしろくせんと……」
「私はおもしろくない!」
浜村淳は冤罪である。
黒幕は脚色した脚本家と、脚色を許可した俺である。
iPhoneから女性アシスタントの声が流れる。
「今回のお話を送ってくださった方に、謝礼として1万円をお送りいたします」
「え? 1万円もらえんの?」
「せやねん、だからそれで美味いもんでも食べに行こ? な?」
「うん……」
嫁さんは渋々了承した。
浜村淳への冤罪は免罪された──。
後日MBSラジオから郵便為替が送られてきた。
それを手に郵便局へ向かい、受付の年配女性に「これ、お願いします」と手渡した。
「はい、お預かりしま……え? MBSラジオ?」
「あ、はい」
「どうしたんですか、これ?」
「浜村淳のラジオに送ったメールがラジオドラマになって、その謝礼なんです」
「浜村淳って……ありがとう?」
「そうです」
「あら、ちょっと! ハガキ職人が来たわよ!」
受付の年配女性は後ろのおじさん職員に向かってそう言った。
おじさん職員は笑いながら言う。
「兄ちゃん凄いな! よくラジオに投稿してるんかいな?」
俺は「この郵便局、何でこんなに馴れ馴れしいねん」などと思いつつも答える。
「ありがとうに送ったのは初めてですね」
「じゃあ、他の番組には送ったことあるかいな?」
「松井愛の番組で2回読まれました」
「おー!立派にハガキ職人やな!」
いや、違うと思うぞ……。
何やねん、立派にハガキ職人って!
紆余曲折あったものの、郵便局で1万円を受け取り帰宅した。
馴れ馴れしい郵便局に疲れたものの、財布の中を見るとニヤニヤしてしまう、文字通り現金なものである。
夕方になり、仕事から帰宅した嫁さんに1万円札を見せる。
「MBSから来たぞ!」
「じゃあ、今度の土曜日にあの店に行こう!」
「あの店」とは、近所にある鉄板焼き屋である。良い立地ではないにも関わらず、美味い料理を出すことから繁盛している店なのだ。
気付けば土曜日の夕方。
楽しみがあると、時が経つのはあっという間である。
鉄板焼き屋に行き、ビールを飲みながら美味い料理に舌鼓を打つ。途中で日本酒を飲んだりしつつ、満足した嫁さんは言う。
「こんな贅沢ができるなら、たまにはネタにされてもええかな」
浜村淳の冤罪、1万円で免罪、ビールと鉄板焼きで無罪──。
結果オーライ……ということにしておこう……。
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正直、おっさんが舞い上がります。
