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はじめての特急「あずさ」で、何もしていなかった時間のこと

まだ空が明るくなりきらない時間の、新宿駅のホーム。
足元に冷えた空気がたまっていて、白い息が少しだけ見えました。
遠くから近づいてくる音に引き寄せられるように、
線路のほうへ身体が動きます。
そのとき、手首をきゅっと引かれて、少し後ろに戻されました。

クリーム色に赤い帯の特急列車が、ゆっくりと目の前に止まりました。

この記事では、子どもの頃に初めて特急列車に乗ったとき、移動の途中でふと生まれた、何も決められていない時間について書いています。


🚉眠れなかった夜の音


小学校に入ったばかりの頃、母に連れられて甲府へ行くことになりました。
理由は思い出せません。
ただ、「特急に乗る」という言葉だけが残っています。

布団に入っても、目を閉じるたびに、
図鑑で見た列車の形が浮かんできました。
暗い部屋の中で、時計の針の音だけがやけに近くて、
それを数えているうちに、また目が冴えていきました。


🚉進行方向を向く座席の中で


ドアが開くと、母より先に足が出ていました。
車内に入ると、見上げる高さに番号が並んでいて、母がそれを指で追っていきます。

窓側に座らされると、目の前には前の座席の背中がありました。
それがひとつの壁のようで、外の景色よりも先に、その空間に収まった感じが残っています。

自分のまわりだけ、少し切り取られたような場所でした。


🚉手のひらと同じ温度


列車が動き出してから、母が差し出したのは、おにぎりと、ポリ容器のお茶でした。
持つと、じんわりと温かさが伝わってきます。

どう飲めばいいのか分からずにいると、
母がふたを開けて、そこにお茶を注ぎました。
それを見て、同じように真似をします。

口に入った温かさが、さっきまで手の中にあったものと、同じだと気づきました。

アルミホイルの音と、車輪の音が混ざりながら、朝ごはんが進んでいきました。


🚉壁が動き、開けた空間に


途中の駅で、祖母と親せきが乗ってきました。
母に声をかけられて一度立つと、座席がゆっくり回り始めます。

さっきまで前にあった壁がなくなって、向かいに人の顔が並びました。
急に空間が広がって、車両の先のほうまで見えるようになります。

大人たちの会話が始まりましたが、言葉はあまり頭に残りませんでした。
窓の外に身体を向けて、流れていくものを見ていました。


🚉冷たいものと、戻る温度


「ホームの売店で買ったんだけど、食べる?」

親せきから渡された冷凍みかんは、指先にひんやりと残りました。
口に入れると、今度はその冷たさが中を通っていきます。

少しして、またお茶に手が伸びました。
温かいものと冷たいものが、行き来するような感覚だけが残っています。


🚉トンネルと景色が流れる中で


八王子を過ぎたあたりで、急に窓の外が暗くなりました。
トンネルに入ると、自分の姿がガラスに映ります。

抜けると、また流れ始める景色。
木や建物や、駅のホームが、一定の速さで通り過ぎていきます。

そのまま見ているうちに、いつの間にか身体を預けていたようでした。

揺れで目が覚めて、
「もうすぐ着くね」という声だけが聞こえてきます。

残っていたお茶を飲むと、少しだけ冷たくなっていました。


🚉降りたあとに残ったもの


甲府に着いてからのことは、あまりはっきりしていません。

ただ、私は母とは分かれて、親せきのおじさんに連れられて、
中央本線の線路のそばで、列車を眺めていた時間だけが、少し残っています。

特急も、普通列車も、同じように通り過ぎていきました。
何をするでもなく、ただ見ていた時間です。


🚉名前のなかった時間


あとから振り返ると、あのとき、何も決められていない時間があったのだと思います。

誰かに話しかけられるわけでもなく、
何かをしなければいけないわけでもなく、
ただ、流れていくものを見ているだけの時間。

それが、列車の中と、線路のそばの両方にありました。

そのあと、また戻ることになりますが、
その間にあった時間のことを、いま思い出そうとすると、少しだけ間があきます。

(つづく)

<帰りの記事はこちら▼>
急行「アルプス」の帰り道で、何も決めない時間に揺られていた|げじげじくん|旅好きのアラフィフ


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