急行「アルプス」の帰り道で、何も決めない時間に揺られていた
ホームに入ってきた列車の色を、いまでも先に思い出します。
濃い緑とオレンジ。
音よりも先に、その色が近づいてきた気がしました。
甲府駅のホームで、母や親せきたちは少しだけ足を速めていました。
ドアが開くと、迷いなく中へ入っていく。
その背中を追いかけるようにして、私も乗り込みました。
この記事は、小学1年生のとき、
初めて特急に乗った日の帰りに、
急行列車に揺られていたときの記憶です。
はっきりしているのは出来事ではなく、
そのとき流れていた時間のほうかもしれません。
🚉大人たちの声が先に進んでいく
「懐かしいわねえ」
急行「アルプス」が到着したとき、母や親せきはそう言っていました。
まだ私はその列車を知らないのに、
その言葉だけが先に車内に入っていくような感じでした。
ボックスシートに4人で向かい合わせに座ると、
大人たちの話が始まります。
昔は特急が少なかったこと。
急行でハイキングに出かけていたこと。
夜行に乗りたかったけれど叶わなかったこと。
どれも、当時の私には追いつけない話で、ただ音として聞いていました。
けれど、不思議と退屈ではなくて、
窓の外に流れていく景色と、同じ速度で頭の中を通り過ぎていきました。
列車は、甲府の街から、少しずつ山の方へ入っていきます。
🚉箱の上で開いた、甘い時間
祖母が差し出してきたのは、桔梗信玄餅でした。
「この上で開ければいいのよ」
そう言って、16個入りの箱を膝に置いてくれます。
テーブルの代わりに、その箱の上で風呂敷のようなビニールを広げて、蜜をかける。
うまくいかなかった記憶があります。
蜜が偏って、きな粉と一緒に箱の外へこぼれてしまう。
どうしたらいいか分からずに見ていると、
祖母は「もう一回結べばいいのよ」と言って、
食べ終わったあと、そのまま包み直していました。
きれいに食べることよりも、
そこで食べていることのほうが大事だったのかもしれません。
甘さと一緒に、少しだけ手がべたつく感触が残っています。
🚉暗くなってから、見えるもの
食べ終わるころには、外は暗くなっていました。
トンネルに入るときの音で、外を見ていたことに気づきます。
抜けると、ぽつぽつと明かりが見える。
しばらくすると、それが増えていく。
途中の駅を通過するとき、
ホームの光が一瞬だけ近づいて、すぐに遠ざかる。
行きにも通ったはずの場所なのに、
まったく違うものに見えました。
大人たちはいつの間にか静かになっていて、
うつむいたまま眠っていました。
車内の音も少しだけ低くなったように感じます。
やることは決まっていませんでした。
ただ、外を見ているだけの時間でした。
🚉少しだけ現実に戻る手前
長いトンネルを抜けたあたりから、明かりが増えていきます。
相模湖を過ぎたころ、なんとなく、八王子に近づいていると分かりました。
誰かに教えられたわけではないのに、そう感じた記憶があります。
車内では、立ち上がる人が増えていきます。
荷物を棚から下ろす音。話し声。
少しだけ、空気が動き出す。
その音で、母たちも目を覚ましていました。
停まる前と停まったあとだけが、少しだけ賑やかで、それ以外はまた静かに戻る。
その繰り返しが、どこか不思議でした。
行きに乗った特急「あずさ」と、
帰りの急行「アルプス」。
どちらも、普段の普通列車とは違う時間の流れ方をしていたように思います。
<行きに特急あずさに乗ったときの記事はこちら▼>
はじめての特急「あずさ」で、何もしていなかった時間のこと|げじげじくん|旅好きのアラフィフ
🚉思い出せない、その先
八王子を出てからのことは、よく覚えていません。
どうやって家に帰ったのかも、どの駅で降りたのかも、曖昧なままです。
ただ、進行方向に向いた座席に座って、
何も決められていない時間の中にいた、という感覚だけが残っています。
その時間は、どこにも向かっていないようで、
でも確実にどこかへ進んでいました。
いま思い出すのは、その途中のままの景色です。
(おわり)
いいなと思ったら応援しよう!
記事への応援としてチップをいただけたら励みになります。
あわせて、気になる路線や行き先があれば、コメントで教えてもらえると嬉しいです。