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トマトは、いかにして世界を征服したのか。アンデスの野草が、飢えと征服と缶詰を経て、現代の食卓に至るまでの500年

FOODSCAPE Magazine 連載「食が変えた世界史」第1回
(この記事は約5分で読めます)

あなたが今日、口にするかもしれない料理を、少し思い浮かべてほしい。
パスタのトマトソース。ピザのケチャップ。ハンバーガーに添えられたケチャップ。カレーの隠し味。スープの深み。

これらすべてに、一つの植物が共通している。トマトである。

トマトは、いまや世界で最も消費される野菜の一つだ。イタリア料理の魂であり、ファストフードの血液であり、家庭の台所の常連である。だが、500年前、トマトはアンデスの乾いた高原斜面に生えるだけの、誰にも食べられていない野草だった。
一本の植物が、征服と飢えと工業化を経て、人類の食卓を塗り替えるまでの旅。本稿は、その500年を辿る。

一、アンデスからメキシコへ ── 「生まれた場所」と「育てられた場所」の断絶

トマトの植物学的な起源は、南米ペルー・エクアドルにまたがるアンデス山脈の太平洋側斜面である(注1)。日差しが強く、極めて乾燥した高冷地。そこで野生のトマトは、誰にも栽培されることなく、自生していた。
ここに、歴史の奇妙な逆説がある。
トマトを生んだアンデスの先住民は、トマトを食べていなかった。
インカ帝国をはじめとするアンデスの人々は、トマトを栽培植物として認識しなかった。野生のトマトは、鳥や動物、そして人の移動によって、北へ北へと運ばれていった。
トマトが初めて「栽培化」されたのは、アンデスから遠く離れたメキシコ——アステカ帝国の地だった(注1)。
アステカの人々は、この果実をナワトル語で「トマトル(膨らんだ果実)」と呼んだ。トウガラシとともにすり潰してソース——「サルサ」として、日常的に食卓に載せた。トマトの料理史は、ここから始まる。
「食材」はしばしば、その産地では食べられず、移動した先で初めて価値を見出される。本連載が地方都市の「隠れた美食」で繰り返し見てきた「地元には気づかれない宝」の構造が、植物の世界史レベルで起きていた。

ペルーの市場に並ぶ様々なトマトをはじめとした野菜

二、スペインの征服 ── 「毒リンゴ」と呼ばれた果実

1521年、スペインの征服者エルナン・コルテスが、アステカ帝国の首都テノチティトランを陥落させた(注2)。
略奪された金銀財宝とともに、スペインへと持ち帰られたものがある。トウモロコシ、ジャガイモ、カカオ。そして、トマトの種だった。
1544年、イタリアの植物学者が、スペインへ渡ったトマトを初めて文書に記録した。その名は「ポモ・ドーロ(黄金のリンゴ)」。当時のトマトは、現代のような赤ではなく、黄みがかった小さな果実だった。
だが、ヨーロッパはトマトを歓迎しなかった。「毒リンゴ」と恐れたのである。
トマトの葉や茎は、当時ヨーロッパで猛毒として知られたベラドンナやマンドレイクと同じナス科植物に似ていた。その見た目の類似から、学者も医者も、トマトを有毒植物と断定した。
かくして、アステカ人が毎日食べていたその果実は、ヨーロッパの庭園で「観賞用の珍しい植物」として、200年近くもの間、食べられることなく眺められ続けた。
権威ある知識が、時として、食の可能性を閉ざす。ヨーロッパの学者たちの「毒だ」という断言は、ひとつの食材の歴史を200年遅らせた。

有毒植物と言われ主に観賞用とされていたトマト。

三、飢えがタブーを破った日 ── ナポリの貧しい人々

トマトが「観賞用」から「食材」へと変わった舞台は、南イタリア——ナポリだった。
その理由は、崇高な美食の発見ではなかった。飢えである。
16世紀から17世紀にかけて、南イタリアのナポリ王国とシチリアはスペインの支配下にあった(注3)。スペインの船が物資とともにトマトの種を直接運び込んだ。だが、ナポリの料理人も学者も、しばらくはトマトを食べようとしなかった。
転機は、飢えだった。
17世紀から18世紀の南イタリアは、急激な人口増加と悪政により、都市の貧困層「ラッツァローニ」が慢性的な飢えに苦しんでいた。
道端に毒かもしれない赤い果実が成っている。食べるものがない。その極限の状況で、ナポリの貧しい人々は、ためらいを捨てた。口に入れてみた。死ななかった。無害どころか、お腹が満ちた。
食の歴史における多くの革命が、そうであるように——タブーを最初に破るのは、背に腹は代えられない人々である。権威や知識ではなく、飢えが、食の進化を動かす。
もう一つの要因があった。気候の完璧な合致である。乾燥した高冷地に自生していたトマトにとって、南イタリアの強い日差しと乾燥した夏は、栽培に最高の環境だった。アンデスの生命力が、地中海で目覚めた。

四、旨味という革命 ── パスタとトマトソースが出会った夜

飢えがタブーを破り、南イタリアの太陽がトマトを育てた。そして、18世紀末、歴史上最も重要な「出会い」が起きた。
ナポリの料理人が、乾燥パスタにトマトソースをかけた。
この組み合わせが、なぜ革命だったのか。
トマトには、グルタミン酸が豊富に含まれている(注4)。グルタミン酸とは、旨味の主要成分である。日本で「旨味(UMAMI)」が科学的に発見されるのは20世紀だが、その感覚は人類が太古から本能として知っていた。
それまでのパスタは、塩とチーズ、あるいは手づかみでそのまま食べるものだった。栄養はあるが、味気ない。そこにトマトソースが加わった瞬間、パスタは別の食べ物になった。
「旨味が、素材を料理に変える」
この原理を、ナポリの貧民街で、匿名の料理人たちが、理論ではなく本能で発見した。やがて、このレシピはナポリ全体に広まり、南イタリアのアイデンティティになった。
そして、ここに、「食が生まれる場所」についての、重要な示唆がある。世界を変えた料理の多くは、貧しい人々の台所から生まれている。宮廷ではなく、路地裏から。

五、缶詰という発明 ── チーリオが変えた食の地政学

トマトが旨いことはわかった。しかし、ひとつの致命的な問題があった。トマトは、傷みやすい。
夏にたわわに実るトマトは、夏にしか食べられない。冬に旬の旨味を届けることは、できない。南イタリアの味を、遠い北の国に届けることも、できない。
この壁を壊したのが、缶詰だった。

1856年、ピエモンテ出身の青年フランチェスコ・チーリオが、南イタリアの完熟トマトを新鮮なまま缶詰にする技術を確立した(注5)。
トマトを、季節から解放する。地域から解放する。腐敗から解放する。
チーリオの缶詰は、「時間を止める技術」だった。夏の南イタリアの太陽の恵みが、真冬のロンドンでも、真夏のニューヨークでも、開けてすぐに使えるようになった。

缶詰こそが、トマトを「ナポリの食材」から「世界の食材」へと変えた、最大の転換点である。

本連載の「隠れた美食のまち」シリーズで繰り返し見てきた「地域内の流通の壁」——この問題を、チーリオはグローバル規模で解決したのだ。道具(缶詰)が、食の地政学を塗り替えた。

六、移民とピザ ── アメリカがトマトを世界標準にした

缶詰が普及した19世紀末から20世紀初頭、数百万人のイタリア人がアメリカへ渡った。
彼らは荷物の中に、チーリオの缶詰と、パスタと、ピザのレシピを詰めていた。故郷の味を、新大陸で再現しようとした。
1905年、ニューヨークにアメリカ初のピザ店「ロンバルディ」が開業した(注6)。イタリア移民の食文化が、アメリカの食卓に根を下ろした瞬間だった。
そして、第二次世界大戦後、アメリカに駐留したヨーロッパの兵士たちが、帰国後にピザを広めた。朝鮮戦争、ベトナム戦争——アメリカ軍が世界に広がるたびに、ピザとトマトソースの文化が広がった。
アメリカという拡声器が、トマトの文化を地球規模に増幅した。

イタリアで一番最初に生産されたトマトの缶詰

七、ケチャップという完成形 ── グローバル・ファストフードの血液

イタリアの缶詰と並行して、アメリカではもう一つの革命が起きていた。ケチャップの工業化である(注7)。
1869年創業のハインツ社は、トマトを濃縮・加工して「ケチャップ」として大量生産した。甘み、酸み、旨味が凝縮された、万能ソース。
20世紀、マクドナルドが世界展開を始めた。チーズバーガーにケチャップが添えられた。フライドポテトにケチャップが添えられた。
トマトは、マクドナルドのハンバーガーに乗った瞬間、完全に世界を制覇した。
アンデスの乾いた斜面で誰にも食べられていた野生の植物が、アステカ人のサルサになり、スペイン人の「毒リンゴ」になり、ナポリの貧民の食糧になり、イタリアのアイデンティティになり、アメリカのピザになり、全世界のファストフードの「血液」になるまで——500年かかった。
500年は、長いようで、人類の歴史の中では、瞬きに等しい。

その歴史をたどることもできるハインツのケチャップを使ったレシピ本

八、トマトが教えてくれること

トマトの旅から、何を読み取るか。
第一に、食材の価値は、産地では認識されない、ということである。トマトを生んだアンデスはトマトを食べなかった。燕三条の道具が世界の厨房で使われながら、燕三条の食は語られなかった。地元では「当たり前」のものが、移動した先で「宝」になる。

第二に、食の革命は、宮廷ではなく、飢えた民衆の台所から生まれる、ということである。ナポリのラッツァローニが「毒かもしれない」と怯えながら口にしたその一口が、世界の食文化を変えた。権威ある知識人は、200年、トマトを食べなかった。

第三に、食材は、道具と物流によって世界標準になる、ということである。チーリオの缶詰がなければ、トマトは今も南イタリアの地方食にとどまっていた。道具(缶詰)が、食の民主化を実現した。

そして第四に——食が変わるとき、世界が変わる。ナポリの路地でパスタにトマトソースがかかった夜、食の歴史は静かに、しかし取り返しのつかない形で、変わった。

トマトのない世界を、もはや、誰も想像できない。それほど深く、この植物は、人類の食卓に根を張った。
次回は、唐辛子。コロンブスが持ち帰ったその「悪魔の果実」は、いかにして、世界の辛さを作り変えたのか。

出典・参考

本稿は、植物学・食文化史・経済史の諸文献と各種資料に基づく。考察・解釈は筆者(美食都市研究会)による。

(注1) トマトの起源と栽培化:トマト(Solanum lycopersicum)の野生種はアンデス(ペルー・エクアドル)原産。栽培化はメキシコ中部で行われたとされる。アステカ文明がナワトル語で「tomatl」と呼び栽培・食用化した。出典:The Oxford Companion to Food(Alan Davidson)、Charles M. Rick のトマト遺伝学研究。
(注2) スペインのアステカ征服とトマトの伝播:1521年コルテスによるテノチティトラン征服後、トマトはスペインへ伝わった。1544年、植物学者Pietro Andrea Mattioli(マッティオリ)が南ヨーロッパでのトマトを「ポモ・ドーロ(黄金のリンゴ)」と記述した最初の文献記録。
(注3) 南イタリアとスペインの支配:ナポリ王国・シチリアは16世紀にスペイン・アラゴン王国の支配下に入る。トマトの種はスペインからナポリへ直接伝わったとされる。出典:各種食文化史・イタリア史。
(注4) トマトと旨味(グルタミン酸):トマトは旨味成分グルタミン酸を豊富に含む(生トマト100gあたり約140-250mg)。旨味(UMAMI)の科学的発見は1908年、池田菊苗(東京帝国大学)による。出典:Journal of Biological Chemistry、うまみ情報センター。
(注5) チーリオとトマト缶詰:フランチェスコ・チーリオ(Francesco Cirio、1836-1900)。ピエモンテ出身で、1856年に野菜・果物の缶詰技術を確立。後にナポリ周辺でトマトの缶詰生産を大規模化。現在もCirioブランドとして存続。出典:Cirio公式史、各種イタリア食品産業史。
(注6) アメリカのピザ史とイタリア移民:Lombardis(ロンバルディ)は1905年ニューヨーク・マンハッタンに開業したアメリカ初のピザ店とされる。19世紀末〜20世紀初頭に約400万人のイタリア人が米国に移民。出典:各種アメリカ食文化史。
(注7) ハインツとケチャップの工業化:ハインツ(H.J. Heinz Company)は1869年創業。1876年にトマトケチャップを商品化、大量生産・販売を確立。マクドナルドの世界展開(1953年フランチャイズ化)と合わせ、トマトのグローバル化を完成させた。出典:各種アメリカ食品産業史、K.F. Kiple編 Cambridge World History of Food。

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(文:美食都市研究会/FOODSCAPE Magazine 編集部)
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