見えないものを表すということ—美術展レポ「雰囲気のかたち」@うらわ美術館
実は最近、一冊の本を読みまして。

刊行されたばかりの『開かれた時空 遠近法からアートへ』(水声社、2022年)という本なんですけど、著者はうらわ美術館の元学芸員の方なんですよ。
肝心の内容は、著者が学芸員時代に手がけた展覧会のテキストを一冊にまとめたもので、テーマとしては遠近法および空間・時間についてと、本のアートについての2本柱です。正直なところ、がっつり難しいです(笑)。
画廊勤務を経て、斎藤記念川口現代美術館(閉館)、うらわ美術館の2館で学芸員を務めた著者。現代美術を主戦場とする学芸員は、こんな小難しいことを考えているのかぁ、と他人事のように感心してしまいます。

本論の部分はさておき、本の終盤には著者が勤めた2つの美術館について、詳細な思い出話が綴られていて、同業者としてとても興味深く読みました。
ローザ工芸というマネキン製作の会社が主体となって設立した川口現代美術館という私立の美術館から、埼玉県で二つ目の公立美術館として開館を予定していたうらわ美術館へ。私立から公立へと移り、公務員の基本理念である「全体の奉仕者」という考え方と、美術が時に特定少数の人にだけ訴えるものである、という事実の齟齬にとまどう著者。
他にも、事務方と学芸員の間の業務をめぐっての対立関係、地元の作家達からの展示会場としての期待と独自の企画を行うべきという学芸員の考えのずれ、後発の地方公立美術館として特色のある収集方針が必要であり本のアートというテーマを設けたこと、ホテルなどが入るビルの一角にあるビルイン美術館ならではの悩みなど、思わず「わかるわかる!」と言いたくなる内容が詰まっていました。
読後「そういえば久しぶりにうらわ美術館に行ってみようかな」という気持ちになったわけです。

雰囲気のかたち—見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの
うらわ美術館
2022.11.15-2023.1.15

さて、「雰囲気のかたち—見えないもの、形のないもの、そしてここにあるもの」展は、展覧会テーマがふわっとしているので、行ってみるまでは今一つどんな内容なのかイメージできませんでした。
本展では、はっきりと見えないもの、刻々と変わる不定形なものなどを表現した作品を、国内の近現代の絵画や彫刻、ドローイング、映像、写真などで紹介します。
でも、たまにはこういった展覧会の見方もいいものです。
私は目的を定めず本屋をぶらぶら冷やかすのが好きなのですが、そうすると思わぬ本との出会いがあるものです。そういう偶然性を利用しないと、自分の興味の範囲内でしか本が選べず、なかなか殻が破れないんですよね。
この展覧会もこれと同じだな、と思いました。予備知識なしのニュートラルな気持ちのまま行ったことで、知らなかった作家との出会いそのものを新鮮に感じることができました。
目にみえないものに挑んだ作家たち
会場に入るときに、スタッフの方から「展示室では一番気に入った作品一点だけ写真撮影が可能です」と言われました。面白いですね。
ただ「撮影可能」と言われるより「一点だけ撮影可能」と言われた方が、鑑賞者は「どれが一番心に響くだろう」とじっくり吟味しながら見るようになるのではないでしょうか。
私が撮ったのはこちら(↓)。若林奮《立体ノート—気体・固体・液体・現在》シリーズです。



この作品のことは後で触れるとして、会場で感じたことを展示の流れに沿って振り返っていきましょう。
展示の最初は、近代日本画の横山大観、菱田春草から始まります。ふむふむ、「朦朧体」とか言われながら空気を日本画でとらえようとした人たちね。「見えないもの表現するとはこういう意味か」と、分かったような気になって進むと次は映像展示。
中谷芙二子の《霧の彫刻》です。あーこれ実際に見たいなと思ってたやつだ。
高圧力で水を噴出して人工の霧を発生させて、様々な場所を幻想的な空間に変えてしまう作家です。
長野県立美術館にも設置(というのかな?)されてるんですよね。一回行ってみたいなぁ。あ、でも《霧の彫刻》は冬季は休止するそうなので(凍結するから?)、今はやめておこう。
近代日本画から環境インスタレーションという流れ。
そうなると、次は何が来るんだ?と期待が高まります。
そこからは、浦和画家であり日本のパステル画の開拓者武内鶴之助や、晩年に浦和にアトリエを構えた瑛九などのうらわ美術館コレクションをうまく混ぜつつ、大正から昭和初期にかけて記録ではなく表現としての写真を模索した作家たち、自然界の霊魂のようなものをさらりと描く日本画家小川芋銭、日常風景を描きながら夢の世界のような非現実感を表す洋画家牛島憲之など、目に見えないものを表現しようとした作家たちの作品が、時代も、表現ジャンルもあちこちに飛びながら登場します。
目に見えるものがこの世界だ、というこちらの常識を揺さぶってきます。この知的なゆらぎを味わうことは、美術鑑賞の喜びだと言えます。
そして、展示終盤は3名の現代作家の作品群が続きます。ここが最もボリューム(点数)があり、言わばこのクライマックスにつなげるために、ここまでの展示構成があったとも受け取れました。3名とは河口龍夫、若林奮、福田尚代です。
河口龍夫(1940-)
「見えないものと見えるもの」というこの展覧会の根幹のテーマを、自身の創作テーマとして向き合っているのが河口龍夫です。
会場で特に印象深かったのが、鉛に包まれた竹のオブジェと、カドミウムイエロー一色で着色された竹のオブジェ。
鉛に包まれた竹のオブジェは《漂流した竹のなかの闇 2012》《竹のなかの闇 2015》というタイトルで、素材として表記されているのが「闇、竹、鉛」です。
河口はとらえることのできない闇を「うつわ」を用意することで知覚しようとしてきました。
闇に私が関心を持ったのは、芸術が見えるものだけではなく、見えないものと見えるものとの関係によって成立しているのではなかろうかとこれまで考えてきたからある。単純にいってしまえば、「闇の世界と光の世界」ではなく「闇と光の世界」、つまり「見えないものと見えるもの」ととらえてみてはどうかということである。我々は光りのなかで自由に物事を見ている。そのことを別のいい方をすれば、光のなかで見ることができるものしか見ていないとも言える。
ここではその「うつわ」が竹であり、鉛でコーティングするのもその闇の境界をより明確にするためかもしれません。そして使われる竹は、3.11の震災後に作者のアトリエ近くの九十九里浜に大量に流れ着いた漂流物のひとつだそうです(作者はチェルノブイリ原発事故を受けて、放射能を遮断する鉛によって生命の源である種子をコーティングするという表現を始めました)。
カドミウムイエローの目にまぶしい竹《種子になったかぐや姫》は、鉛の竹とはネガ/ポジの関係にあります。こちらの竹は真っ二つに割れている状態です。
日本最古の物語と言われる「竹取物語」の冒頭で、翁は光り輝く竹を切ってかぐや姫を発見します。このことから、闇を包んでいると思っていた竹は、実は光を包んでいたのかもしれない、という解釈の反転が起こるのです。
若林奮(1936-2003)
展覧会のメインビジュアルに選ばれたのが、若林奮(いさむ)の《雰囲気》(WAKABAYASHI STUDIO所蔵)です。

若林の作品は、正直初見ではほとんど意味不明です。あまりに意味不明すぎて面白くなって「展覧会のこの一枚」に若林作品を選びました(すぐ理解できるものより理解できないものの方が面白いから)。

いや本当に難解で、まだ私は全然理解できてはいないのですが、それでもゆっくり解きほぐしていくと、なるほど若林の作品が今回の展覧会の中心に据えられた理由もおぼろげながら見えてきます。

作者は自身と向かい合った対象(モチーフ)をどのように知覚するか、という言わば「自分と世界の向き合い方」というところに常に関心を抱いて創作を続けてきたように思います。
若林が思索の中で創り上げた《振動尺》という概念があるのですが、これは尺と言っても概念としての物差しであって、自分と対象の物理的な距離を測るものではありません。はい、私も自分で書いていてよく分からないので、作者の言葉を引用しておきます。
例えば、向うの塀の前にある一本の樹がある。眺められる樹の私の方に向けた面はたしかに固定したものではなく、自分に向かって前進したり、逆に後退したりして見えるのである。自分と樹の間の充満した空間は、この時になって、はっきりと私と樹の両方を含んだもの、しかも両方をへだてる距離を持つ空間としての存在に気付くのである。私が触覚として把握出来るのはこの空間である様に思われる。空間の向うにあるのは見る対象である物なのである。両面に、というより、自分と向う側の面に見える樹のこちらに向けた表面を含んだ、この所有の関係にある空間
原典は若林奮『境川の氾監』陶雅堂ギャラリー、1982年

若林の《雰囲気》では、人物と犬との間に広がる空間を箱状のもので表現しています。作者はそこに「充満した空間」を触覚できるほどにはっきりと感じ、箱という目に見え、さらに触れられるものとして表しているのでしょう。
視覚と触覚が密接につながっているからこそ、人間の目線をこえる頭上、つまり箱の天の部分は壁がなく開放されているのかもしれません。
作者の深い思索の過程そのものと言える若林作品は、読解が容易ではなく、何人もの批評家や学芸員が挑むように論述しています。面白そうなのでこの後、何冊か読んでみようと思いました。
会場の最後の区画で展示されていたのが福田尚代。この作家も興味深い作品が多くありましたが、長くなったので割愛します。
まとめ:思考のきっかけとなる美術展は面白い、でもひとつだけ苦言を…
正直に言えば、河口龍夫や若林奮の現代美術を鑑賞しながら、その場でいまここに書いたようなことがスラスラと私の頭に浮かんだわけではありません。
会場では「何だこれ?」「どーゆーこっちゃ?」とはてなマークをたくさん浮かべながら、キャプション解説を手がかりにあれこれ考えて終わります。そして帰ってから、どうにも気になるところを調べて、自分なりに理解しようと努めて、ようやく今文章化しているわけです。
つまり現代美術とは、思考の触媒なのです。
触媒=特定の化学反応の反応速度を速める物質。変化を引き起こすきっかけとなるもの。
作品と向き合うことで固定観念を揺さぶられ、そのモヤモヤを簡単に解決しようとせず、ゆっくりと自分の中で思考を深める。そんな一連の過程を楽しめる人にはオススメの展覧会です。
逆に、これを聞いて「なんかめんどくさいこと言ってるな…」と思う人は、おそらく楽しめない展覧会です。あしからず。
最後に一つだけ。
満足いくまで鑑賞したので、最後に図録を買って帰ろうかなと思って出口に行ったら「図録はもう少ししたら完成予定、現在予約受付中」的な案内があり、正直がっかりしました(完成予定日とか書いてありましたが失念)。
いや、図録は開幕までにちゃんと完成させましょうよ、プロなんだから。
作品が会場設営とともに完成するような現代アートを展示する場合、それを掲載するために後で報告書的につくる図録もありますが、今回はそういうものではないでしょう。
というか、うらわ美術館に限らず時々あるんですよね、開幕時に図録の完成が間に合っていないことが。
これ、単純に学芸員が内容(おもに原稿)にこだわるあまり締め切りを過ぎてしまい、完成が遅れてしまうというのが大半の理由です。でもそれは言い訳ですよね。期日内にできることをきっちり仕上げる、というのは当たり前の話ですから、それができないのはどうなのよと思います。
展覧会自体が面白かっただけに、図録が無いのはとても残念でした。
■「オトナの美術研究会」やってます。
「美術が好き、その一歩先へ」をコンセプトに、美術好きな仲間がゆるくあつまるコミュニティを作りました。私自身、これを始めてから張り合いが出て展覧会に足を運ぶペースが上がりました(笑)。興味がある方はこちら(↓)をご覧ください。
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