いじめは、なぜ集団の中で起きるのか――「見て見ぬふり」をしないために
はじめに――平成27年5月・いじめについての全校講話
平成27(2015)年5月。
校長として初めて赴任した学校で、最初の年に行った全校集会での講話です。
新年度が始まって40日。
ゴールデンウィークが明け、新しい学級での4月当初の緊張感が少しずつ薄れてくるこの時期は、友人関係が固まり始める一方で、からかいや仲間外れなど、それまで見えにくかった人間関係の問題が表面化し始める時期でもあります。
実際、このときも、ある学級で一人の生徒が一部のグループから嫌がらせを受けたり、仲間外れにされたりしているという訴えがあり、教職員が対応にあたっていました。
校長になって初めての学校。着任して、まだ40日ほどです。
生徒たちも、先生たちも、
「今度の校長は、どんな人なのだろう」
「何を大切にする校長なのだろう」
そんな思いで、私の言葉や行動を見ていたのだと思います。
私にも緊張がありました。
しかし同時に、こういうときこそ、校長として何を大切にするのか、どのような学校にしたいのかを、自分の言葉と行動で示すときだとも考えていました。
着任した始業式や入学式では、「自分も人も大切にし、誰もが居心地よく、生き生きと学び、笑顔あふれる学校」を、これからみんなでつくっていきたい学校の姿として生徒たちに伝えていました。
この日の講話は、その言葉を単なるスローガンで終わらせず、いま自分たちの身の回りで起きていることに照らして、もう一度問い直す機会でもありました。
だからこそ、このとき起きていたいじめの問題を曖昧にせず、全校生徒の前で真正面から取り上げることにしました。
もちろん、特定の生徒や出来事について話すことはできません。
けれども、全校生徒一人ひとりに問いかけながら、その中でも、いま実際に起きているいじめに関わっている生徒たちに、何としても届いてほしいという強い思いがありました。
自分たちの身の回りで、いま何が起きているのか。
なぜ、人は集団の中で誰かを排除したり、いじめたりしてしまうことがあるのか。
そして、そのとき、自分はどうするのか。
この講話では、いじめを個人と個人との問題だけではなく、「集団の力」という視点から、生徒たちと考えようとしました。
いじめを生み出す集団の力に気づいたとき、自分はその流れに従うのか。
それとも、立ち止まり、「それは違う」と言えるのか。
校長一年目の5月。
生徒たちに問いかけながら、同時に、校長としての自分自身の姿勢も問われていた――今振り返ると、そんな講話だったように思います。
平成27年度 5月 全校集会 校長講話
おはようございます。
新年度が始まって、今日でちょうど40日が経ちました。
「人も自分も大切にし、誰もが居心地よく、生き生きと学び、笑顔あふれる」
そんな学級や学年になっていますか。
今日は、ここまでの学校生活を振り返りながら、自分自身のこと、そして自分の周りで起きていることを、一人ひとりに見つめてもらいたいと思って、お話をします。
もしかしたら、その中には、あまり歓迎できないこともあるかもしれません。
「あっ、しまった」
そんな失敗や過ちが思い浮かぶ人もいるかもしれません。
もしそうなら、それは自分を振り返り、成長するチャンスです。
今日は、そんなことも考えながら、話を聞いてください。
1 私たちは、誰もが「集団」の中で生きている
まず、私たちは誰もが、何らかの「集団」に属して生活しています。
人間は、一人だけで生きているのではありません。
「社会」という集団をつくり、その社会を発展させることで、自分たちの生活を豊かにしてきました。
「人間は社会的な動物である」と言われるのも、そのためです。
では、皆さんの身近なところには、どんな集団があるでしょうか。
まず、家族がありますね。
そして、仲のよい友だちのグループ、クラス、部活動の仲間、学年、学校。
さらに広げていけば、日本の社会、そして世界へとつながっていきます。
どのような集団であっても、その集団がうまくまとまり、互いに支え合っているとき、そこにいる一人ひとりも安心して生活することができます。
しかし、集団のまとまりが崩れ、互いの関係が不安定になると、そこにいる一人ひとりも安心して生活することが難しくなります。
だから集団には、そのまとまりや結束を保とうとする力が働くことがあります。
では、集団が結束を強めるために、どのようなことが起こるのでしょうか。
昔から、権力者や支配者が人々をまとめるために使ってきた方法の一つがあります。
どんな方法だと思いますか。
それは、集団の外に「敵」をつくることです。
外に自分たちを脅かす強い敵がいると思えば、人々は「みんなで力を合わせて、この集団を守らなければならない」と考え、結束しようとします。
戦争などにも、そのような例がありました。
先日の平和学習で学んだ太平洋戦争についても、思い出してみてください。
歴史を振り返ると、外に「敵」をつくり、人々の目をそちらに向けることで、集団の結束を強めようとした例もあります。
では、外に敵をつくることができなかったら、どうするのでしょうか。
今度は、集団の内側に「敵」をつくることがあります。
集団の中の誰かを、
「あの人は、自分たちとは違う」
「あの人は、仲間ではない」
と見なし、その人を集団の外へはじき出す。
そうすることで、残った人たちが「自分たちは仲間だ」と感じ、結束を強めることがあります。
では、ここで考えてみてください。
学校生活の中でも、これと似たことが起きることはないでしょうか。
2 いじめは、なぜ集団の中で起きるのか
さて、ここで君たちみんなに考えてもらいたいことがあります。
学校生活の中で起こる「いじめ」も、ひょっとすると、今話したような集団の力と関係しているのではないか、ということです。
もちろん、いじめが起きる理由は、それだけではありません。
自分を「えらく」見せたい。
自分には力があるところを周りに見せたい。
仲間の前で、いい格好をしたい。
そのために、自分より弱い立場の人に力をふるう。
そういうこともあるでしょう。
でも、果たして、それだけでしょうか。
いじめの中には、一つの集団やグループが誰か一人を仲間からはじき出すことで、残った人たちの結びつきを強めようとするものがあります。
そして、その背景には、いじめる側にも、
「自分は仲間から外されたくない」
「自分がいじめられる側にはなりたくない」
という気持ちが隠れていることがあります。
ここで、よく考えてみてください。
いじめは、対等な者同士が正々堂々と競い合う「ゲーム」ではありません。
多くの場合、いじめる側といじめられる側には力の差があり、いじめられる側は、最初から不利な立場に置かれています。
だからこそ、集団の中で少数の人や、周囲から「弱い」と見られている人が、いじめの対象にされることがあります。
たとえば、
「あの子、ちょっと変わっているよね」
そんな一言から、誰かを「自分たちとは違う」と見なし、仲間からはじき出してしまうこともあります。
しかし、いじめの対象になるのは、いわゆる「弱い人」だけではありません。
自分の考えをしっかり持っている人。
周りに簡単には同調しない人。
一人でも行動できる人。
そういう意味では、むしろ「強さ」を持った人が、集団から浮いた存在と見なされ、攻撃の対象になることもあります。
そして、もう一つ考えてほしいことがあります。
集団の中の人間関係が弱く、不安定で、お互いを十分に信頼できていないときほど、誰か一人をはじき出すことで、残った人たちがまとまろうとすることがあります。
誰か一人の悪口を言うことで、ほかの人たちが仲間になる。
誰か一人をからかうことで、みんなが笑う。
誰か一人を仲間外れにすることで、「自分たちは仲間だ」と確かめ合う。
もし、そんなことでしかつながることのできない集団があるとしたら、それは本当に「強い集団」でしょうか。
私は、そうは思いません。
むしろ、それはとても不安定で、弱い集団なのではないでしょうか。
なぜなら、誰か一人をはじき出すことでしか結びつきを保てない集団では、その人がいなくなったあと、また別の誰かが標的になる可能性があるからです。
今日まで一緒に誰かをからかっていた人が、明日は自分がからかわれる側になるかもしれない。
今日まで仲間だった人が、今度は仲間から外されるかもしれない。
そうして、次の「敵」を探すことが繰り返されていきます。
このように、集団が自分たちの中の誰か一人に問題や責任を押しつけ、その人を攻撃したり排除したりすることを、「スケープゴート」という言葉で説明することがあります。
もともとは「生け贄の山羊」という意味から生まれた言葉です。
少し怖い言葉ですね。
でも、ここで大切なのは言葉を覚えることではありません。
自分たちが仲間でいるために、誰か一人をはじき出してはいないか。
そのことを、君たち一人ひとりに考えてほしいのです。
3 自分の周りで起きていることを、よく見てほしい
では、君たちの周りに、今話したような「いじめ」につながることが起きていないでしょうか。
一人ひとり、自分の目でよく見てほしいと思います。
そして、もう一つ考えてほしいことがあります。
いじめの難しいところは、いじめに加わっている人自身が、
「自分はいじめをしている」
「自分は人を傷つけている」
とはっきり自覚していないことがある、ということです。
「ちょっとからかっただけ」
「ふざけていただけ」
「みんなもやっている」
「たいしたことではない」
そんな気持ちで、いじめにつながる行動に加わってしまうことがあります。
でも、その心のどこかに、
「自分は仲間から外されたくない」
「自分がやられる側にはなりたくない」
「みんなと違うことをして、自分だけ浮きたくない」
そんな気持ちが隠れていることはないでしょうか。
もし、周りの人たちが誰か一人をからかっているとき、
「自分だけやめようと言ったら、今度は自分が何か言われるかもしれない」
そう思って、一緒に笑ってしまうこともあるかもしれません。
あるいは、自分では何もしなくても、黙って見ていることもあるかもしれません。
だからこそ、自分の心の中を見つめてほしいのです。
自分は本当に、おもしろいから笑っているのか。
それとも、自分が仲間から外されないために、周りに合わせているのか。
いじめに加わっている人は、自分では「いつでもやめられる」と思っているかもしれません。
けれども、「自分が次の標的にはなりたくない」「仲間から外されたくない」という気持ちで周りに合わせ続けていると、なかなかそこから抜け出せなくなることがあります。
そして、一人ひとりがそうやって周りに合わせているうちに、集団内ではいじめが続き、止まるどころか、さらにエスカレートしてしまうことがあります。
だから、まず気づいてほしい。
自分はいま、集団の中で何をしているのか。
自分の行動によって、傷ついている人はいないか。
そして、
自分の周りで起きていることを、「たいしたことではない」と見過ごしてはいないか。
一人ひとりに、自分自身と、自分の周りをもう一度よく見つめてほしいと思います。
4 では、どうしたらよいのでしょうか
では、具体的にどうしたらよいのでしょうか。
集団がある以上、「いじめ」が起きるのも仕方のないことなのでしょうか。
君たちは、どう思いますか。
私たちはみんな、何らかの集団に属して生きています。
だからこそ、君も私も、誰もが集団の持つ力に影響される可能性があります。
周りのみんなが笑っているから、自分も笑う。
みんなが誰かを無視しているから、自分も話しかけない。
みんなが「あの子は変だ」と言っているから、自分もそう思ってしまう。
そういうことは、誰にでも起こり得ます。
だからまず、自分も集団の力に流されることがあると、気づくことが大切です。
そして同時に、集団に属しながらも、周りにただ合わせるのではなく、
「自分はどう思うのか」
「これは本当に正しいことなのか」
と、自分で考え、自分で判断する力を身につけていくことも必要です。
私は、それも「自立する」ということの一つだと思います。
では、実際に身の回りで「いじめ」を見たとき、あるいは「これはおかしい」「ひどい」と感じることが起きたとき、どうしたらよいのでしょうか。
できるなら、
「それは違う」
「やめよう」
と、「ノー」を示してほしいと思います。
けれども、一人で声を上げることが怖いこともあるでしょう。
自分が次の標的になるかもしれないと思えば、言えないこともあるかもしれません。
そんなときは、一人でいじめを止めようとしなくてもいい。
友だちに話す。
先生に伝える。
信頼できる大人に相談する。
それもまた、いじめに対して「ノー」を示す大切な行動です。
大切なのは、集団の悪い力や流れに、そのまま従わないことです。
そして、自分たちのグループを、クラスを、部活動を、学年を、誰かをはじき出すことで成り立つ集団ではなく、誰もが安心していられる集団へと変えていくことです。
それは、君自身を、そして君たちの仲間を、より「強く」することにつながると私は思います。
本当に強い集団とは、誰か一人を犠牲にすることでまとまる集団ではありません。
違う意見を言える。
「それはおかしい」と言える。
困っている人がいたら、声をかけることができる。
そして、一人では難しいときには、誰かに助けを求めることができる。
そんな集団ではないでしょうか。
一人でも多くの人に、自分たちのグループを、クラスを、部活動を、学年を、よりよい、安心できる集団にしていく人になってほしいと思います。
その第一歩は、そこで起きていることを、自分の目でしっかり見ることです。
見て見ぬふりをしないこと。
そして、
「これは、いじめではないか」
と、立ち止まって考える勇気を持つことです。
自分自身の弱さや、自分たちの集団の弱さに気づくことは、恥ずかしいことではありません。
その弱さを認めることから、初めて変えていくことができます。
私は、それもまた、本当の「強さ」なのだと思います。
5 気づいた今から、できること
今日は、少し長い話になりました。
でも、今日の話を聞きながら、
「あっ、しまった」
と思った人がいるかもしれません。
もしそう思ったのなら、その気づきを大切にしてください。
自分がしてしまったことから目をそらすのではなく、
「もう二度としない」
と決めること。
そして、これから自分はどうするのか、どうしたいのかを考えてほしいと思います。
気づいた今から、行動を変えることはできます。
また、今日の話を聞いて、
「あれは、もしかしたらいじめだったのではないか」
「自分の周りでも、似たようなことが起きている」
と気づいた人もいるかもしれません。
そのときも、見て見ぬふりをしないでください。
自分に何ができるのか、考えてみてほしいと思います。
自分で「やめよう」と言うこともできる。
友だちと一緒に声を上げることもできる。
そして、一人では難しければ、先生や信頼できる大人に伝えることもできます。
大切なのは、気づいたことを、そのままにしないことです。
「自分も人も大切にし、誰もが居心地よく、生き生きと学び、笑顔あふれる学校」
そんな学校を、全校生徒一人ひとりの勇気と力でつくっていきましょう。
そして、皆さん一人ひとりが安心して学校生活を送ることができるように、私も、先生たちも、自分たちに何ができるのかを考え、行動していきます。
心に気にかかることがあれば、相談してくださいね。
以上で、終わります。
あとがき
この講話から、10年以上が経ちました。
当時の原稿を読み返しながら、今、改めて考えることがあります。
この講話で私は、生徒たちに「見て見ぬふりをしないこと」「これはいじめだ、と認める勇気を持つこと」を求めました。
そのことの大切さは、今も変わらないと思っています。
しかし、その後、さまざまないじめの問題に向き合ってきた今、同時に強く思うことがあります。
子どもたちの勇気だけに、いじめを止める責任を負わせてはいけない。
いじめが集団の中で続き、エスカレートしていくと、「おかしい」と思っている子どもがいても、声を上げることが難しくなります。
止めれば、今度は自分が標的になるかもしれない。
先生に話したことが知られれば、自分も仲間から外されるかもしれない。
そうした不安が集団を覆い始めると、内部からいじめを止めることは、ますます難しくなっていきます。
傍観している子どもたちも、その集団の外にいるわけではありません。
望むと望まざるとにかかわらず、そこで起きているいじめの影響を受け、その集団の力の中にいるという意味では、当事者の一人なのだと思います。
だからこそ、そこには教師という、子どもたちとは異なる立場からの力が必要になります。
そして、教師自身もまた、集団の力から自由ではありません。
場合によっては、教師さえもその集団の空気に取り込まれ、「このくらいはよくあること」「本人たちもふざけているだけ」と、問題を小さく見てしまうことがあります。
だからこそ、とりわけ管理職や学年主任など、集団を一歩離れたところから見る立場にある者は、
「自分たちも、見えていないのではないか」
「集団の空気に取り込まれてはいないか」
と、自らを問い続ける必要があります。
子どもたちに「見て見ぬふりをするな」と求めながら、教師の方が見たくない事実から目をそらしてはいないか。
子どもたちに「勇気を出して止めよう」と求めることで、本来、教師が負うべき責任を子どもたちに負わせてはいないか。
そこを取り違えてしまえば、いじめの解決を、かえって遠ざけてしまうことにもなります。
だから、やはり大切なのは初期対応なのだと思います。
小さなからかい。
何気ない一言。
仲間外れ。
一人だけ笑っていない場面。
「これくらい」と見過ごさず、小さな段階で気づき、事実を丁寧に確認し、必要な対応を早期にすること。
重大化させないことです。
ただし、それは単に問題を早く収めるということではありません。
起きたことを、人間関係や集団のあり方を学び直す機会として捉える。
いじめた側も、いじめられた側も、周囲にいた子どもたちも、自分たちの集団で何が起きていたのかを考える。
そして教師もまた、自分たちの見方や関わり方を振り返る。
そうやって、個も集団も、そこから学び、成長していく。
そのことに焦点を当て、ぶれずに向き合い続けることが大切なのだと、今は考えています。
平成27年5月、校長になって40日ほどの私は、生徒たちに、
「見て見ぬふりをしないこと」
と語りました。
10年以上が経った今、その言葉は、子どもたちだけに向ける言葉ではないと思っています。
むしろ、まず私たち教師自身が、自分に向けて問い続けなければならない言葉なのかもしれません。
