(18禁)太陽に焼かれて殺されたダニの香りの芳香剤を売れ 第67話 透過層
肩の上に落ちた髪が、俺の胸に沿ってかすかに揺れた。草が少し軋む音の中、浅荷は指先で俺の肘をつまみ、そのまま自分の側へと誘うように引いた。動きに導かれるようにして俺はわずかに身体の向きを変えた。重なったまま姿勢を崩さないように。
皮膚と皮膚の間にある熱とゆっくりとした揺れがすべてを伝えていた。でもそのとき不意に違和感が走った。
浅荷の息が急に遠くなった気がした。目の前にいたはずの彼女の表情が、一瞬、何か別のものに差し替わったような。
空気が薄くなるような気配。
ふたりの間に挟まる静寂が突然ひやりとする。でもそれを感じたのは俺だけだった。
俺は目を閉じていたが、まぶたの裏に形容できない光が滲んだ。さっきのモールで暗闇の奥に差し込んだ青い鈍い光に似ていた。
背後でさっと何かが揺れた音がした。
まるで風でも虫でもない透明な何かが芝生の上を這うようにして輪郭を変えた気がした。
その瞬間、視界の端にありえない影が立っていた。
木の陰の奥、月もない夜の闇のはずなのに、夜よりもさらに暗いものがあった。陰というより存在しないはずの何かが立っている。
さっきの二人だったかもしれない。でも青白い炎も、少女の耳もなかった。ただの「感じ」だった。
こちらを見ていると分かった。感覚がぴたりとそちらに引き寄せられた。
俺は動かなかった。浅荷の腕が俺の背に回ったまま。指先は肌を探っていたが、それが一瞬ぴたりと止まった。
言葉にならない声が、頭の内に響いた。「そうか」と。あのドアの向こうで聞いたものと似ているが、より柔らかく、近かった。鼓膜ではなく骨を鳴らすような音だった。
俺は浅荷の肩に顔を埋め、声に応えようとは思わなかった。「はい」とも「いいえ」とも言わなかったが存在は俺から何かを受け取ったようだった。
その気配はゆっくりと芝の上を滑り、ふたりの輪郭に触れるか触れないかの距離まで近づいていた。寒くはなかった。でも熱が変わった。浅荷の肌の体温の感じ方が、微かに変化した。
「ねえ……なんか、変だね」
浅荷が囁いた。彼女の指が俺の背に触れたまま、触れ方が少し探るようになっていた。
「……なにか感じる?」
と訊こうとしたが声が出なかった。こういうときに感じるもくそもないというのもあるが……喉の奥に貼りついた言葉の膜が震えるだけで、外に出なかった。
代わりに俺は浅荷の腰をそっと抱き寄せた。俺のではない誰かの体の温度で何かを確かめたかった。
「なにか……変な夢を見てるみたい」
浅荷の声は震えていたわけではなかった。でも言い回しに彼女自身も何かに気づいているのだとわかった。
俺が見ているこの何かはもしかしたら浅荷の内面にある何かで、いま唐突に共有され始めているのかもしれないと思った。勝手に意図的にリンクされている。
「なんか、すごい昔からこうしてる気がする」
「……雰囲気を高めることを言おうとしている?」
「ち……違う」
声にはかすかな温度差があった。否定も肯定もせず、ただ言葉を受け止めたというだけの響きだった。それ以外に何ができるだろうか。
だがその響きのなかに、何か別の記憶が混ざっていた気がした。
喉が震えていた。浅荷の目は閉じていた。だが、そのまぶたの奥に何かが映っているのがわかった。
それは彼女の記憶かもしれなかった。あるいはそこにいた何かが、俺に見せているのかもしれなかった。浅荷の幼い姿、あるいは手を握っていた誰かの姿か、でも映像ではなかった。気配と温度と色だけが流れ込んでくる感覚だった。
浅荷の息がゆっくりと、だが深くなった。肩がわずかに震えた。
「……泣いてるの?」
「違うよ」
けど、頬がほんの少しだけ濡れているように見えた。涙なのか汗なのかはわからなかった。
「このままでいい?」
「うん」
ふたりの身体が再び重なり合い、ゆっくりと深く沈んでいった。闇の中で誰かがそれを見ていた。いや、見守っていた。ふたりが、何かの記憶を引き受けるためにここにいることを最初から知っていたように。
浅荷の指が俺の髪をすくい、そっと耳の後ろへとかきあげた。
「ねえ……髪、長いよ。やっぱり」
「そうだね」
「……わたし、負けたかも」
その言葉がどんな意味を持っていたのか聞き返すことはできなかった。浅荷の腕が再び俺の背へ回される。もう何も遮るものはなかった。世界が静かに、ふたりの呼吸の中に沈み込んでいた。
浅荷の胸が俺の胸に重なっていた。あまりに近くて、意識が集中しすぎると今にも破れそうになる何かが俺の中にあった。だから俺はあえて意識しなかった。意識しないようにして、息するだけに集中した。
でも、逆にそれが浅荷の呼吸の変化を敏感に感じさせた。浅くなって、深くなって、また止まりそうになって……静かに安定した。ひとつの波が寄せては返すように、確かに心と身体がなにかを超えていってるのがわかる。
「……ん」
小さく喉から洩れた声が浅荷のものだとわかるのに、少し時間がかかった。彼女は目を閉じていた。どこか懸命に、自分自身の内側を泳いでいるようだった。
俺は彼女の髪を撫でるかどうか迷った。まるで、そこにだけ別の記憶が宿っているような気がしたから。
彼女の脚がわずかに震えた。それが寒さではないことはわかっていた。息が再び深くなっていく。背中に回された手のひらが、俺の皮膚をじっと掴んでくる。
「そうだね」
短くて、それ以上は何も言えなかった。でもそれで十分だったと思う。
ふたりの身体がもう一度寄り添い直す。ズレていた重心が合わさって、ゆっくりと馴染んでいく。重ねるというより、包み込むような。もしくは包まれるような密度だった。
浅荷の胸の奥から、ふいに小さな笑いのような息が漏れた。すぐにまた静かになる。でもその呼吸の変化だけで、彼女の今がわかる気がした。
そのときまた、あの音が聞こえた。
いや、音ではなかった。耳で聞くのではなく、皮膚の奥のほう、神経がふるえるような感覚。モールの奥で聞いた、暗闇に迷い込んだときの接続音に似ていた。電流の走るような、だが痛みのない切り替わりの感覚のように思える。
視界の端でまた何かが立ち上がる気がした。
浅荷の手が俺の腰のあたりに回される。まるで今この瞬間にだけ戻るように、ふたりの呼吸がまたひとつになった。
「ねえ……もし、誰かが見てたら、どうする?」
浅荷の問いかけは、まるで試すようなものではなかった。ただ不安なのではなく、確かめるようだった。
「……その人も多分、俺たちがここにいる意味を知ってると思う」
そう答えると、浅荷はまた小さく笑った。今度の笑いには、怖さも不安も、影もなかった。やっとたどりついたような小さな笑いだった。
そのままもっと深く身体を重ねた。
芝の上に伏せた浅荷の背中を、俺はそっと撫でた。掌に伝わる熱と、そこにいるという確かさだけが、現実だった。
今ふたりの間にあるのは、肌と肌の接触、熱、それから呼吸。浅荷の肩甲骨のあたりに指を這わせながら、ふと思った。触れているはずのこの身体の奥に、言葉にならないいくつもの時間が折り畳まれているのではないか。彼女の中の、まだ開かれていない記憶に、少しずつ俺の手が近づいている気がした。
「……さっきまで、夢みたいだった」
「さっき“まで”?じゃあ、今は……」
「うーん……」
浅荷は少しだけ身を起こした。重なっていた胸が離れ、代わりに額が俺の肩に軽く触れた。唇の端が、そこにある体温を探るようにそっと触れた。
「……起きてる。ちゃんと起きてる。だってさ、触ってるのも、触られてるのも、どっちもぜんぶ現実だって感じてるから」
その言葉の後、浅荷は再び静かに俺に身体を預けた。あいまいだった境界が、今度はお互いにとって確かな輪郭になっていた。
浅荷の目が開いた。何かを感じたようだった。彼女の身体が、ふいに硬くなる。
「……いま、なにか……?」
俺もすぐに頷けなかった。でも視界の片隅にあった暗がりの輪郭は、明らかに変わっていた。
そこに立っていた。またあのときと同じように。海辺のモールの闇の出口の先にいたときと同じように、闇の中に輪郭を持たない何かが、ひとつ、ふたりの近くに存在していた。
だが恐怖ではなかった。その存在は、ただ“ここにいればいい”と肯定していた。
浅荷が目を閉じた。何も言わなかった。でも指がゆっくりと俺の手に触れてきた。その指先の動きが、何よりも確かに語っていた。
俺は何も言わずに、浅荷の肩を抱いた。その瞬間、あの気配がすっと遠ざかるのがわかった。
浅荷が小さく息をした。身体がゆるむ。その姿はまるで、長い夢の中から帰ってきたようだった。
そしてまた、俺の胸に頬をあずけた。
ふたりの身体は静かに重なったまま、芝の音に包まれていた。
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