太陽に焼かれて殺されたダニの香りの芳香剤を売れ 第59話 やりきれない午後の庭で
https://www.youtube.com/watch?v=gV-F23mqKhU
「……“全部やめていい気がする”ってさ」
浅荷が不意に口を開いた。すぐ隣で肩と肩が接している。眠気にまかせて話しかけているのか、まだなにか考えが残っているのか、判断がつかない。
「うん」
「でもそれって、やめる前提があるから言えるって感じある」
「やめる前提?」
「そう。“続けようとした”って気配がなければ、やめるって言えなくない?」
「ああ……」
俺は少しだけ目を開けた。浅荷の額はまだ俺の肩にあった。さっきよりは重さが抜けている。でも単に眠気が進んだというだけではなく、どこか、“座っている場所が正しくなった”ような空気の軽さでもあった。
「……なあ、あっち行かない?」
「ん?」
「木のとこ、あの根元」
浅荷が顎だけで指し示した先には、大きな木が一本、風の通り道に根を張っていた。斜めに枝を伸ばしているから日陰にもなっている。あたりには落ち葉と芝生。地面は乾いていて、砂利ではない。
けど、そこが芝生であるというただそれだけの事実が俺の身体にごく微細な緊張を生む。思考の底でさっきまでなかった感覚がじわりと浮かび上がってくる。
芝生。つまり土。土足の地面。
一瞬、腰が浮きかけたけど、止まった。
「どうした?」と浅荷が聞く前に、俺は「うん」と言って立ち上がった。手の平が少し汗ばんでいた。だが、それを見せないようにズボンの横で拭う。
浅荷は何も言わなかった。ただ先に歩き出した。砂の上を音を立てずに。
俺はそのすぐあとを二歩くらい遅れてついていった。
芝の上に着いたとき浅荷はしゃがんで、腰を下ろす前に自分の上着をぐしゃっと広げて敷いた。
「どうぞ」
まるで何でもないように言ったその言葉に、俺の内側が少しざわめいた。だがそういう素振りを見せるのは野暮な気がした。だから俺はただ小さく「ありがと」と言って、その上着の端の端にそっと腰を下ろした。
「……ほんとはこういうの、俺がやるべきなんだよな」
「ん?」
「ベンチとかに女の人座らせるときに、ハンカチ敷くってやつ。昔のドラマとかにあるだろ」
「うわ出た。男のロマン様式文化」
浅荷が少し笑った。その笑いは鼻から抜けるような音だった。くすっと笑って、すぐに「別に嫌じゃないけど……」と言い添えた。
「でも今回は逆なんだな。俺が浅荷の上着の上に……っていうか、俺の汗で浅荷の上着が汚れてるかも」
「だったら……」
浅荷は俺のほうをちらりと見て、言いかけてやめた。その代わりに、「ま、いいじゃん。逆の方がレアだし。世界に一人しかいないし」とぼそりと言った。
「誰が?」
「あたしの上着の上に座った男」
「……なんか称号っぽいな」
「“上着座らせ男”とか?」
「……」
俺が吹き出すと、浅荷も笑った。
そしてそのまま、ふたりとも静かになった。ふざけた言葉のあとにはなぜかやたら静けさが訪れる。だけどそれはシーンとしたものではなく、うっすらした膜が降りてきたような、音を和らげる布のような感覚だった。
芝生は乾いていた。陽が陰っていたからぬるい程度の温度しかない。でも浅荷の上着は微かに暖かかった。浅荷がさっきまで着ていた、彼女の体温がうっすら染みていた。
「ねえ」
浅荷が突然、横になった。俺の隣で仰向けではなく、身体を横に折って寝返りを打つように。
「なに?」
「んー……」
浅荷は言葉を濁した。俺の足に自分の背中をぴたりとつけた。ほんのわずか、服越しに感じる背中の感触。やわらかいとかそういうことじゃない。ただ、「人がいる」という感覚があった。
「今日、別にずっとここにいたって、誰にも文句言われない日な気がしてる」
「……たしかに」
「でも、もし文句言ってくる奴がいたら上着座らせ男が守ってくれるでしょ」
「やめて……」
浅荷は声を出して笑わなかった。でも俺の足にあたる背中が、ふわっと揺れた。
振動のように、体温のように、笑っていた。
俺はそのまま背中のラインに自分の手のひらをそっと添えた。直接ではない。シャツの布越しに、背骨をなぞるわけでもなく、ただ平たく触れているだけ。けれどそれだけで、何かに触れている気がした。
浅荷は何も言わなかった。俺も言わなかった。
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