太陽に焼かれて殺されたダニの香りの芳香剤を売れ 第57話 魂・猛苦・別入り50000円
手のひらではなく、手の甲同士が触れているというだけのことなのに、ずっと前から繋いでいたような心地に変わっていた。
少し前の俺だったら、この距離に言葉を詰め込まなければ不安になっていたかもしれない。けど今は違った。風がある。香りがある。気配がある。それで充分だった。
「……ん」
浅荷が小さく、何かを飲み込むように息を吸った。
ため息というには軽すぎて、深呼吸というには浅すぎる音。
「どうした?」
「……いや、別に」
それだけ言って、浅荷は少しだけ体をこちらに傾けた。
俺の腕にそっと重なるように、彼女の肩が触れた。
すぐに全体重を預けるようなことはしない。
でも完全に身を引くわけでもない。
曖昧な距離を残しつつ、でもその曖昧さを壊さないように自分の形を俺に沿わせている。
「前にさ、夜中にいきなり“全部どうでもよくなった”って言ったこと、覚えてる?」
「……はい」
「あれ、本当はどうでもよくなったわけじゃなかったんだよね」
浅荷の声が遠くなる。けどそれは物理的な距離ではない。彼女が記憶のどこか、奥の方を探っている時の声だった。
「全部って、重すぎるから一旦捨てようと思っただけで」
「うん」
「でも結局、また拾いに戻った。全部。ちゃんと覚えてるんだよ。嫌なことも、うれしかったことも、あんたが言ったちょっとしたことも。……捨てられないの、ほんとは」
「うん。わかる」
「わかるって、言った」
「うん」
「そうか」
浅荷はまた黙った。でも今度の黙り方には不安も確認もなかった。
ただ静けさを受け入れているような真面目さがあった。
肩が触れている。そのことだけが、俺たちを“話す”という行為から解放してくれていた。
「俺も……」
俺は少しだけ浅荷の方に目をやった。髪の一部が頬にかかっている。それを指でよけたい衝動があった。でもそれはやめた。衝動ではなく、意志で動きたいと思った。
「何?」
「“どうでもいい”って言ってしまう瞬間って、自分の中の容量オーバーなんだと思う」
「容量?」
「気持ちも考えも感情もぜんぶぐちゃぐちゃになって、容量を超えたとき、人間って“どうでもいい”って言葉で逃がすんだろうなって」
「あんたも……?」
「うん。俺も。何度もある。そう言っておいて、あとでひとつずつ拾い直して、心の中に整列させて、まだ捨てきれない自分に腹を立てるのかもしれない。でも、それでよかったのかもって最近思う」
浅荷は何も言わなかった。だが、ふっと俺の肩にあった彼女の重みが少し増した。たぶんほんの数グラムの変化だ。けど俺の心の中では、その重みが何十キロにも感じられるほど、安心と納得があった。
「そうやって拾い直したものが、今ここにあるのかも試練」
「あんたが『かも知れん』ていうときの発音が『試練』に聞こえる」
俺は浅荷と文字でやり取りする時とかに携帯ではなくなんらかキーボード媒体で話すことが多かった。
携帯をむしろよく使わないのでわからんが、俺はキーボードだと誤変換を良くしてしまうと思っている。~~かも知れん、というのを試練と書いてしまうことはよくあり、1度誤解かなにかの説明をしたことがあった……気がする。
「意図的にそう発音したよ」
浅荷はゆっくりと頷いた。その動きが俺の肩に伝わって、まるでふたりでひとつのリズムを共有しているような気分になった。
「ねえ」
浅荷が、今度はまっすぐに俺を見た。近い距離で見るその目には、もはや冗談や軽口は含まれていなかった。
「ん?」
「なんか、すごくやわらかいね。今日のあんた」
「やわらかい?」
「うん。いつもより、なんか……あたしにちゃんと触れてる気がする」
「言葉で?」
「ううん。態度で」
「……それならよかった」
「でも、いつもそれじゃ疲れない?」
「疲れるときもある。けど、今日は疲れてない」
「……あたしがやわらかくできてるんだとしたら、嬉しいかも」
そう言って、浅荷はそっと俺の二の腕に額を当てた。まるで、そこが一番自分の気持ちに近い場所だとでも言うように。ふわりとした重さが今度は俺の胸の内を温かく満たした。
「今日は……もう、何も考えたくないね」
「うん。考えない日にしよう」
ふたりで湖の方を向いた。おそらくモールにいたらもっと巨大であろう波の音が、少しずつ満ちてくる。
時間の流れ方が変わった気がした。時計が動くリズムではなく、潮の満ち引きや、心の呼吸が刻むリズムへと変わっていく。
騒がしくない幸福だった。
やさしい孤立の中にある、ひとつの共有だった。
言葉にせず、でも確かにふたりの間に横たわる、あたたかい静かさの輪郭だった。
「そういえば、あんたが誤変換しまくるのって世界であたしたちしか知らない秘密……別に秘密でもないのか。いつの間にかそういうよくわからない共通項目が増えてる」
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