墓所の主に従わない自由——ナウシカ、実存主義、そして統一教会問題(4)
「苦しみには意味がある」という言葉は、人を支えることがある。
だが、その言葉が「だから耐えろ」「だから疑うな」「だから捧げろ」に変わった瞬間、救いは支配になる。
前回の記事『《苦しみには意味がある》という言葉の危うさ——カミュから読む統一教会問題』に寄せられたコメントは、この問題を『風の谷のナウシカ』終盤の「墓所の主」と重ねるものだった。
滅びを予告し、未来を管理しようとする存在に対して、ナウシカは従わない。意味が保証されなくても、完全な答えがなくても、それでも生を選び取る。
この記事では、ナウシカ、カミュの実存主義、そして《おやぢ》のメルマガを手がかりに、統一教会問題を「信仰の善悪」ではなく、「人はなぜ大きな物語に人生を預けてしまうのか」という視点から読み直す。
信じることと、判断を明け渡すことは違う。
その境界線について考えてみたい。
『《苦しみには意味がある》という言葉の危うさ——カミュから読む統一教会問題』にコメントをいただきました。
実存主義の肝ですね。「風の谷のナウシカ」なら最終回の、人類の滅亡は避けられないと断言する墓所の主に対して、「私たちは繰り返し繰り返し、血を吐きながらその朝を越えて飛ぶ鳥だ」と宣言するナウシカのようなものですかね。
このコメントに、私はこう返信しました。
まさに実存主義の核心だと思います。
意味が保証されるから生きるのではなく、保証のないまま、それでも自分で引き受けて立つ。その姿勢を、ナウシカのあの場面に重ねていただいたのはとても腑に落ちました。
滅びの予告に従うのではなく、不条理の中でなお生を選び取る。その強さは、私が書きたかったことにも深く通じています。
印象的なたとえをありがとうございました。
この返信で書いたことを、もう少し掘り下げてみたいと思います。
「意味があるから生きる」の危うさ
人は苦しみに耐えるとき、しばしば意味を必要とします。
「この苦しみには意味がある」
「この犠牲は未来につながっている」
「いま耐えていることは、いつか報われる」
「自分の人生は、大きな物語の一部なのだ」
こうした言葉は、人を支えることがあります。
何もかもが無駄だったと思えば、人は立っていられない。だから、意味を求めること自体は自然です。問題は、意味を求める心が、誰かに利用されるときです。
統一教会問題を考えるとき、ここは避けて通れません。
統一教会は、信者に巨大な意味の体系を与えました。
神の摂理、復帰、蕩減、祝福、血統、理想家庭。個人の苦しみ、貧しさ、孤独、家族関係、結婚、献金までが、大きな物語の中に位置づけられていく。
「あなたの苦労には意味がある」
「あなたの献金は世界のためになる」
「あなたの家庭は神の摂理に関わっている」
「あなたの苦しみは蕩減である」
こう言われたとき、人は苦しみに耐えられるようになります。
しかし同時に、逃げられなくもなる。
ここに、宗教的物語の怖さがあります。
ナウシカが拒んだもの
『風の谷のナウシカ』の終盤で、墓所の主は、人類の未来について一つの答えを提示します。
汚れた世界。
滅びに向かう人類。
それを管理し、設計し、未来へつなごうとする巨大な計画。墓所の主は、単なる悪ではありません。むしろ合理的です。世界が壊れている以上、人類をそのまま放置していては滅びる。だから、あらかじめ用意された計画に従うべきだ。そう語る。
けれど、ナウシカはそれを拒む。
なぜか。
その計画が、命を管理するものだからです。
苦しみも、愚かさも、失敗も、血を吐くような朝も含めて、人は自分で生きる。その不完全な生を、誰かの設計図に預けない。
ここに、実存主義的な強さがあります。
意味が保証されるから生きるのではない。
正しい未来が用意されているから生きるのでもない。
答えがあるから進むのでもない。
意味があるかどうか分からない。
未来が救われるかどうかも分からない。
それでも、自分の足で立つ。
これが、カミュ的な不条理への反抗にも通じる態度です。
《おやぢ》が見抜いた「原理」の倒錯
ここで思い出すのが、『非原理教会:不良食口 おやぢの独白』です。
《おやぢ》は、統一教会を外から雑に罵倒した人ではありません。
内部の言葉を知っていた人です。原理、食口、非原理、蕩減、祝福、摂理。そうした言葉が、信者の心にどう入り込むのかを知っていた。
だからこそ、批判が鋭い。
メルマガ『非原理教会:不良食口 おやぢの独白』第一部Vol.001「創刊号」(1999年9月15日配信)で、《おやぢ》はこう書いています。
原理にも非原理にも聖人にも泥棒の上にも同じ太陽が昇るのです。
原理講義や礼拝の説教は出来るが能書きばかりで使いモノにならない教会員より原理講論は読んだことはないが、田舎で為に生きているバア様の方が人格のレベルは高いのだ。
そのバア様に、彼らは教会に繋がってないという理由だけで非原理というレッテルを貼ってしまうのである。
為に生きる原理があるとするならば、為に生きている者が原理であって、為に生きることを唱えている段階は、未だ非原理であり無原理なのです。
つまり「論語読みの論語知らず」ならぬ「原理読みの原理知らず」なのです。
これは、かなり本質的な批判です。
《おやぢ》は、「原理」という言葉そのものを否定しているわけではありません。むしろ、原理を語るなら実践しろ、と言っている。
為に生きると言うなら、本当に為に生きろ。
看板や教義や所属で人を見下すな。そう突きつけている。
つまり、《おやぢ》が批判しているのは、信仰そのものではありません。
信仰を語りながら、信仰の言葉を人間の支配に使うことです。
ここが重要です。
「自分を救うのは自分である」
《おやぢ》は、別の箇所でさらに踏み込んでいます。
『非原理教会:不良食口 おやぢの独白』第二部Vol.014「人間信仰と依存」(2001年9月27日配信)では、こう語られています。
自分を救うのは自分である、故に自分の心の在り方に目を向けなければならないのであって、外的な統一のメシヤ様に対して絶対信仰することが、救いではない、依存したり、おすがりすることで救われるのではないということです。
これは、今回のコメントで示されたナウシカの姿勢と深く重なります。
墓所の主に従えば、未来は管理されるかもしれない。
メシヤにすがれば、意味は保証されるかもしれない。
教団に所属すれば、自分の苦しみに名前が与えられるかもしれない。
けれど、それは本当に救いなのか。
自分で判断する力を手放し、誰かの物語に人生を預けることは、たしかに一時的な安心をくれます。しかし、その安心は自由と引き換えです。
統一教会問題の深さは、ここにあります。
信者は、単に騙されたロボットではありません。考え、迷い、苦しみ、疑問を持ちながら、それでも教団の中にいた人たちです。
問題は「自由意志が完全に消えた」ことではありません。教義、集団、罪悪感、恐怖、サンクコストによって、自由意志が働く範囲を狭められたことです。
ここを見誤ると、統一教会問題は浅くなります。
「信者は洗脳されていただけだ」と言えば簡単です。
「自分で選んだのだから自己責任だ」と言っても簡単です。
しかし、どちらも雑です。
現実には、信者は自分で選んでいるように見えながら、その選択肢そのものを教団によって狭められていた。苦しみを感じていたのに、その苦しみを「蕩減」や「使命」として意味づけられていた。疑問を持っていたのに、その疑問を「信仰の弱さ」として処理させられていた。
この構造が問題なのです。
苦しみに意味を与える装置
統一教会には、信者に人生の意味を与える宇宙論がありました。
神とサタン。
創造と堕落。
復帰と蕩減。
祝福と血統転換。
真の父母と理想家庭。
これは信者にとって、単なる教義ではありません。自分の人生を説明してくれる地図でした。
なぜ自分は苦しいのか。
なぜ家族が反対するのか。
なぜ金を捧げる必要があるのか。
なぜ結婚を教団に委ねるのか。
なぜ自分の人生が世界史と関係するのか。
その問いに、統一教会の宇宙論は答えを与えた。
けれど、その宇宙論は同時に装置になりました。
祝福は、性と結婚を教団に接続する装置になった。
蕩減は、苦痛を受け入れさせる装置になった。
献金は、先祖と摂理を人質にする装置になった。
責任分担は、失敗を信者へ戻す装置になった。
この切り分けは非常に重要です。
美しい言葉が、どこで人を縛る仕組みに変わったのか。
救いの物語が、どこで服従と献金の論理になったのか。
そこを見なければ、統一教会問題は理解できません。
「苦しみには意味がある」という言葉も同じです。
その言葉が、人を支えることはあります。
しかし、その言葉が「だから黙って耐えろ」に変わった瞬間、それは救いではなく支配になります。
墓所の主は、いつも外にいるとは限らない
ナウシカが拒んだ墓所の主は、物語の中では巨大な存在として描かれます。
しかし、私たちの現実における「墓所の主」は、必ずしも分かりやすい悪役の顔をしていません。
それは、宗教かもしれない。
政治思想かもしれない。
家族かもしれない。
会社かもしれない。
共同体かもしれない。
SNSの正義かもしれない。
あるいは、自分の中にある「誰かに答えを決めてほしい」という欲望かもしれない。
人は、自分で立つことに疲れると、答えをくれる存在を求めます。
「あなたの苦しみには意味があります」
「あなたは選ばれています」
「あなたの犠牲は未来のためです」
「あなたが耐えれば家族が救われます」
「あなたが従えば世界は良くなります」
こう言われたとき、人は安心します。
けれど、その安心の代償として、自分の判断を渡してしまうことがある。
ここが怖い。
信仰を失ったあとに残るもの
統一教会から離れることの難しさは、単に団体を辞めることではありません。
それまで自分を支えていた意味の体系を失うことです。
自分の献金は何だったのか。
自分の青春は何だったのか。
自分の結婚は何だったのか。
親の信仰は何だったのか。
自分の苦しみは、本当に意味があったのか。
この問いに、すぐ答えは出ません。
むしろ、答えが出ない時間を引き受けることが必要になります。
ここで、また誰かが「あなたの苦しみにはこういう意味があります」と言ってくれるかもしれない。反教団の物語でも、被害者の物語でも、社会正義の物語でも、人は再び意味を与えられることがあります。
もちろん、それが支えになることもある。
しかし、注意しなければなりません。
別の物語に乗り換えただけなら、自由は戻っていないからです。
必要なのは、物語を持たないことではありません。
物語に自分を明け渡さないことです。
それでも朝を越える
ナウシカの言葉が強いのは、そこに保証がないからです。
勝てるから進むのではない。
救われるから生きるのではない。
正しい未来が用意されているから選ぶのではない。
滅びがあるかもしれない。
失敗するかもしれない。
意味などないかもしれない。
それでも、生きる。
この態度は、甘い希望ではありません。むしろ、希望を過剰に盛らない強さです。
統一教会問題を考えるとき、私はここが大事だと思っています。
信仰を持つな、という話ではありません。
宗教をすべて否定しろ、という話でもありません。
苦しみに意味を見出すな、という話でもありません。
ただし、最後の判断を渡してはいけない。
教祖にも。
教団にも。
親にも。
共同体にも。
政治にも。
社会正義にも。
過去の自分にも。
「意味があるかどうか分からない。それでも、自分は自分の足で立つ」
これが、苦しみを美化しないための最低条件です。
そして、統一教会のような巨大な物語に人生を差し出さないための、いちばん地味で、いちばん強い抵抗だと思います。
