眠りの森の植木屋さん 第五話「薔薇男/高宮 花」
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第五話「薔薇男」
私が大学生になり家を出るのと入れ違いに、両親が離婚をした。
父にはその何年も前から女の人が居たようで、普通、娘ならばそんな父親を嫌悪し、母親に同情するのかもしれない。けれど、私の記憶の中の母は、父に対して愛情どころか興味すら一切無い様子で、この二人がどうして結婚したのだろうかとずっと不思議で仕方が無かったのだ。
穏やかな性格だけれど気が弱く、不在がちな父。バレエにしか関心の無い母。父方の親戚はかなりの遠方で、母方の祖父母は私が産まれる前に亡くなっていた。私にとっての家族は、双子の兄の千早だけだった。
他に身内と思える人間と言えば、私が幼い頃から何かにつけて気にかけてくれていた、母の妹である祥子おばさん。それから、そのおばさんの一人息子である銀ちゃんだ。
銀ちゃんの本名は三沢銀水というが、本人はこの名前を性別が分かりにくいからと嫌っている。
お互いの家が近く、一人っ子だからというのもあるのか、幼い頃から私に懐いていて、そのくせ七つも年上の私を「花」と呼び捨てにする生意気な男の子だ。いや、男の子と言っても、彼ももう二十九歳なのだけれど。
その銀ちゃんが、今から家に行くねと連絡をしてきたのは、私の誕生日の翌日、私が昨夜飲み過ぎたワインを恨んでいた昼下がりの事だった。
「花、はい赤福。一日遅れたけど、誕生日おめでとう」
「え、ありがとう。三重に行ってたの?」
「ううん、名古屋。新幹線のホームで売ってたから」
玄関口で銀ちゃんが差し出して来た袋を受け取り、サラサラあんこが箱いっぱいに詰まった銘菓の味を思い浮かべると、二日酔い気味の私の胃が拒否反応を示した。
「ごめん、食欲無いんだ。これ賞味期限短いから、良かったら銀ちゃんが食べて」
「何だよ、花がそれ好きだからわざわざ買ってきてやったのにさ」
銀ちゃんはぶつくさ文句を言いながら靴を脱ぐと我が物顔で部屋に上がり込み、バックパッカー並の巨大なリュックと寝袋を床に置いた。
「食欲無いって、風邪でもひいたの? ちょうど良かったね。僕が看病してあげる」
「……泊まってもいいけど、今日だけね」
「今週いっぱい居させてよ、家事するし。僕が居ると、高いところの掃除もできて便利でしょ? 来週は札幌で仕事が入ってるから、おとなしく出て行くからさ」
銀ちゃんの職業は、一応プロのバレエダンサーだ。とは言っても、バレエ団に所属している訳では無い。
パ・ド・ドゥ(男女ペアになる踊り)の男性ダンサー役として、全国各地の発表会や公演に呼ばれてはバレエの相手を務める、『発表会ダンサー』や『レンタルダンサー』と呼ばれる存在だ。
バレエ教室の男性講師などが副業にしているパターンが多いが、銀ちゃんはどこにも属さずにSNSやコネを駆使してこの仕事をしている。継続的な人間関係が苦手で、団体に所属する事に根っから向いていない。そんな銀ちゃんの性格上たどり着いたのがこの仕事という事らしいが、レンタルダンサーは安定した需要があるとは言い難い。
それでもどうにか生活ができているのは、男女比が極端なバレエの世界、特にこの日本において、銀ちゃんのように高い技術力を持つ男性ダンサーは貴重な存在であるという事。それから、彼がもう一つの才能に恵まれているおかげだった。
「前に名古屋で泊めてくれたお姉さんに、もう来ないでって怒られちゃってさ、普通に宿泊費がかかっちゃった」
「素性も分からない人の家に、よく平気で泊まれるよね。男だからって危ない目に遭わないとも限らないんだから、やめなよ」
「だって、ビジネスホテルって高いし。ネットカフェやカプセルホテルより、知らない人の家の方が熟睡できるんだもん。それに、柔軟だけは毎日やりたいからさ」
私と銀ちゃんはどちらも母方の家系の顔立ちで、スッキリとした塩系フェイスをしている。私がまだバレエをやっていた頃は、よく「化粧が映える顔」と、変な褒められ方をされたものだった。化粧というのは、個性を消す事は難しいが、無いものに足す事は簡単だ。つまり、それだけ私の顔は無個性で地味であり、舞台用の化粧におあつらえ向きという事だ。
そんな私と同じ塩顔でも、銀ちゃんの方には明らかな華があるのだった。
一つ一つのパーツに派手さは無いものの、その全てがとても上品に整っていて、まるでルネサンス期の絵画の人物がそのまま現実に出てきたような美しさを纏っている。その上、高身長の九頭身だ。
私がスーパーの棚に並ぶお手頃価格の袋入り食パンだとしたら、銀ちゃんはデパ地下のショーウィンドゥで輝く箱入り高級デニッシュ食パンだろう。
そんな銀ちゃんの魅力というのは、単にその姿形の話だけでは無い。この子は幼い頃から、黙ってそこに立っているだけで不思議な空気感を放っていた。
周囲は無意識にこの子を目で追い、その雰囲気に飲まれ、そして気が付いた時には心を掴まれている。もしかしたら、それがフェロモンというものなのかもしれない。
まだ銀ちゃんが小学生の頃、私の母が「銀水なら薔薇の精も演れるかもね」と言った事があった。この薔薇の精というのは、クラッシックバレエの中では数少ない男性メインの演目だ。
母のこの言葉には、おそらく二つの意味が含まれている。一つは、薔薇の精を演じる男性ダンサーは主役級の実力がある事が大前提で、銀ちゃんが幼いながらにその可能性を秘めていたという事。
そしてもう一つは、奇抜な衣装を見慣れているバレエファンであっても衝撃を隠せない、あの『ピンクの花にまみれた水泳帽』のような衣装を着こなせる稀有な人材という事だ。
確かに銀ちゃんなら、どんな衣装にも負けないだろう。わざわざ薔薇の精の衣装を身にまとわなくても、既に薔薇のような男なのだから。
そしてこの子は、その魅力に引き付けられて寄って来る人間達が与えてくれるものを、それが有形であろうと無形であろうと躊躇せずに受け取ってしまう危うさも持っている。
三十手前でその日暮らしのような生活を続けていられるのも、ある意味で才能と言えば才能なのかもしれないけれど。
「僕さ、さっき駅から出る時にICカードの残高が足りなくって、でも現金の持ち合わせも無くて。困ってたら、知らない女の子が千円チャージしてくれたんだ。これからATMでお金降ろして返しに行きたいから、花、付き合ってよ」
藪から棒の発言だったが、銀ちゃんにとってはこの程度の出来事は日常茶飯事だ。けれど一つ、お礼を言っておしまいではなく、きちんとお金を返そうとしている点に引っかかりを感じた。全くもって、この子らしくない発想だ。なにせ銀ちゃんは、自分という存在に集う人間達から一方的に与えられる事に慣れきっているのだから。
「もしかして……女の子って、大人の女性の事じゃ無くて、本当に『女の子』にお金を借りたって事?」
「うん、多分高校生かなぁ。中学生では無いと思うんだ」
さすがに予想外の展開に、私は頭を抱えた。三十近い男が、中高生のなけなしの千円を借りるだなんて。常識や恥というものを知らないのだろうか。いや、銀ちゃんだもの、知らないか。
「どうやって返すの? 知らない子なんでしょう?」
「後から電子マネーで返そうと思ってたから、とりあえず連絡先は交換したんだよ。でも、その子は現金じゃないと困るみたいで。また駅に呼び出すのも悪いなぁって思ってたら住所教えてくれたから、今から家まで届けに行く」
「あのね!!」
つい声を荒げてしまったが、銀ちゃん相手に熱くなっても仕方が無い。その女の子とその周囲に、これ以上の迷惑をかけないようにする方が得策だ。
私は、ゆっくりと諭すように言った。
「……女の子のご両親は、どう思うかな? まだ高校生の娘が得体の知れないアラサー男と連絡先を交換するなんて、それだけでも充分心配なのに、住所を教えてしまった上に、その男が実際に家に押しかけてくるなんて」
「だから花に付き合ってって言ってるんだよ。ちょうど、お礼の手土産もできたし」
銀ちゃんはそう言って未開封の赤福を手にし、出かける準備をするよう強引に促してきた。
ああ、子どもも居ないのに、謝罪する保護者の役をやらなければいけないのか。ますます、胃が気持ち悪い。
グーグルマップ片手にたどり着いた先は和風の一軒家で、年代物の建物と相反し、天然木の真新しい看板が掲げられていた。
『有)グリーンサービス室見 造園・剪定・伐採・植樹・芝刈・管理』
こんな偶然があるものか。でも室見なんて、そうそうある名字では無い。その上、同業者。これは本人でほぼ確定だろう。
そうか、そんな大きな娘さんが。確かに昨日、柳川さんは自分が独身である事を強く主張していたけれど、高虎さんは何も言わなかった。子どもが高校生なら、ずいぶん結婚が早かったんだ。あの優しさや気さくさは、子育て経験者ゆえだったのか。
知りたくなかったのに、次々と知ってしまう。
それより、どうやら私は疎まれているようだから、昨日の今日で顔を合わせるのはあちらも気まずいだろう。そんな私が、自分の大事な娘にちょっかいを出している得体の知れない男を連れて自宅にやって来るなんて、最悪じゃないか。
「銀ちゃん、私、ここのお宅の人と顔を合わせたくない。申し訳ないけど、お金はポストに入れて帰ろう」
「知り合いなの?」
「多分だけど、ここのお父さんと」
「そのお父さんがすっごく怖いとか、嫌な人だったり?」
「ううん、むしろ優しい人だよ。ただ、ちょっと今日は気まずくて」
敷地の前で押し問答をしていると、五、六段設けられた石段の先、玄関扉のすりガラス越しにゆらりと人影が動いた。
ああ、どうか本人が出てきませんように。
「ど ち ら 様 で ?」
それは、地獄の底から響いたのかと思う程の重低音だった。
私の祈りも虚しくクラシカルな引き戸から出てきたのは、よりにもよって今まで見た事が無いくらい不機嫌そうな高虎さん。ただでさえ強面のツリ目は更に眼光鋭く、たくましい肩を張り、眉間に皺を寄せている。初めて見る私服は黒で統一されていて、まるで映画の悪役のよう。子どもなら、泣いて逃げ出しかねない迫力だ。
(えー、花の嘘つき。すっごく怖いよ?)
私の横で、銀ちゃんが囁いた。
けれど、どうやらその威圧感は造り物だったようで、訪問者の一人が私である事に気付いたらしいその途端、全身から放っていた怒気は消え、舞台裏を見られた素人手品師のごとく気まずそうな照れ笑いを浮かべた。
「花さん? いや、え、何で?」
「こ、こんにちは。突然すみません」
困惑する私達の間に、モデルのような九頭身が華麗な足取りでスッと入った。
とたん、周囲は銀ちゃん色に包まれる。そして、この子がここ一番の時に奏でる、楽器のように美しい声色が流れ出した。
「初めまして、三沢と申します。既にお知り合いのようですが、こちらの女性は僕の親戚の者です。本日、お宅のお嬢様に大変親切にしていただきまして、失礼かとは思いましたが直接お礼とご挨拶に伺わせていただきました」
まるで別人のように丁寧な口上を一気に述べると、右手を差し出してから優雅に引き、腰を深々と曲げて頭を下げた。これは、男性式のレヴェランス。つまり、バレエのお辞儀だ。
ふわり、と、薔薇の香りがしたような気がした。
「あ、はい。ご丁寧に、どうも……」
あっけに取られている高虎さんに、銀ちゃんが現金の入った封筒と赤福を差し出す。しかし、突然舞い降りた貴公子のような男と、そして全く脈絡の無い伊勢名物の組み合わせに、高虎さんはますます混乱した様子だった。
その時、玄関扉が再び開き、小柄な女の子が姿を現した。
「……ねぇ、来たら絶対ウチも呼んでねって、言ったじゃん」
高虎さんにはあまり似ていない、丸顔の愛らしい女の子だ。制服と私服の中間のような少し不思議な服装で、この寒空の下、スカートと素足という組み合わせに若さを感じるが、人見知りなのか小さな声でボソボソと話す。
明るい髪の色から自由な校風の高校であることがうかがえたが、その髪色と飾り気のない童顔がアンバランスで、かえって幼い印象を受けた。
「あ、紫ちゃん。さっきはありがとう。お金は、お父さんにお渡ししたから」
その紫ちゃんは銀ちゃんに声をかけられると、まるで芸能人に対面しているかのようなテンションになり、一転してはしゃぎながら高虎さんに言った。
「ほら言ったじゃん、変な人じゃ無いって!! むっちゃカッコいいでしょ!!」
「カッコいいかどうかと変な人かどうかは別問題だ。今回はたまたま大丈夫だったのかもしらんが、世の中には危ない奴が沢山居るんだからな。もっと危機感を持て」
「親みたいな事言わないでよ。あ、おにーさん、この人、お父さんじゃ無いです、おじさん。ウチのお父さんの兄貴なの。まだ独身だし」
ああ、高虎さんの子どもじゃ無かったんだ。そう言えば、彼の車がコンビニの駐車場に停まっている時、助手席で座ったまま待っている人を見かける事が度々ある。あの人が弟さんだろうか。
この期に及んで、心が反応してしまう。もう、関係ないのに。
「……そっちのおねーさんは? もしかして、彼女?」
「この人は僕のいとこだよ。僕たちの顔、よーく見比べてみて。子どもの頃は姉弟に間違われてたんだけど、似てない?」
銀ちゃんの言葉に、思わず息を飲んだ。
もともと地味顔な上、今日は化粧すら碌にしていないのに、七つも年下のこの薔薇のような男と『よーく見比べられる』なんて、どんな罰ゲームなのか。ずっと幼い存在だった銀ちゃんの事を、若いと思い始めたのは、果たして何歳の頃からだっただろう。
ああ、がっかりされるのが怖い。それは、誰に? この紫ちゃんに?
ううん、例えもう嫌われていようとも、高虎さんにだ。
今すぐ、消えて無くなりたい。
私は思わず顔をそらしたが、紫ちゃんはボソボソと控えめの声で、しかし、容赦の無い感想を述べた。
「うーん……おねーさんもスタイルとかはお人形さんみたいだけど、そんなに似てるかな? おねーさんの方はフツーって言うか、地味って言うか……あっ、ごめんなさい、おにーさんがあんまり綺麗過ぎるから」
若さゆえの正直さに斬り捨てられ、心の中でヨロヨロと膝をつきそうになった次の瞬間、まさかの方向から援護射撃が届いた。
「はぁ!? 可愛いだろうがよ」
驚いて顔を上げると一瞬だけ目が合い、今度は高虎さんが慌てて顔をそらした。明らかに照れ隠しをするようなそぶりで姪っ子さんの方に向き直り、バツが悪そうに説教をしている。
「とにかく、お前は普段から失礼な事ばっかり言い過ぎだ」
私は口許がにやけて来るのを必死に抑えたが、その様子を見ていた銀ちゃんが、わざわざ大きめの声で私に言う。
「二人って、そういう感じなの?」
「違うから。人前ですぐにそういう事言うのやめて、相手に失礼でしょ」
「ああ、そう、違うんだ。そうだね、だって、花の好みとは全く違うタイプの人だもの」
紫ちゃんと顔を合わせている高虎さんがこちらに向けているのは、健聴の右耳。きっと聞こえないふりをしているのは大人だからで、同じく大人の私も、聞こえないふりをしている人にはもう何も言えない。
銀ちゃんは本当に、薔薇のように華やかな男だ。そして薔薇には鋭いトゲがあって、それは時折チクリと人を刺す。
しかもこの薔薇には悪気があるから、余計に質が悪いのだ。
第五話『虎、吠える』に、続く
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