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会社を辞めた日のポテトサラダ

会社を辞めた日、ポテトサラダを作った。

朝まで、そんな予定はなかった。

退職届を出し、貸与されたパソコンを返却し、最後にデスクを軽く拭いた。

隣の席の上司は、「お疲れさまでした」と声をかけてくれた。

いつも通りの声だった。

その変わらなさが、ありがたくもあり、少し寂しくもあった。

建物を出ると、すっかり暗くなっていた。

夜の道を、車が絶え間なく走る。

昨日までと同じように信号が変わり、人や車がせわしなく交差点を曲がっていく。

社会は何事もなかったみたいに動き続けている。

その流れから、自分だけが静かに降りたような気がした。

会社を辞めたら、もっと晴れやかな気持ちになると思っていた。

何か大きな扉が開いて、急に視界が開けるような。

けれど実際は、思ったよりずっと静かだった。

住宅ローンの支払い。
健康保険。
これからの仕事。

頭の片隅に、生活にまつわる言葉がぼんやり浮かんでは消えていく。

年長になる息子と、妻との三人暮らしだ。

ひとりの決断ではないのだと実感した。

底知れぬ不安、というほどではない。

ただ、これまでとは違う時間が始まる気配だけが、静かに胸のあたりに残っていた。

だから、その日の夕飯には「特別なもの」を食べたくなかった。

焼肉でも寿司でもなく、もっと静かなものがよかった。

スーパーへ寄ると、新じゃがが安くなっていた。

少し土の匂いが残る、小ぶりなじゃがいもだった。

それを見て、なぜか安心した。

ポテトサラダにしよう、と思った。

料理は、得意ではない。

でも、夫婦共働きだった我が家では、苦手だからといって料理を避けるわけにもいかなかった。

仕事を終えて帰宅し、息子を風呂に入れて、寝かしつけが終わるころには、もうへとへとだった。

それでも、「どうせ作るなら、少しでもおいしいものを食べてもらいたい」と思っていた。

料理上手じゃなくても。
凝ったものは作れなくても。

せめて、「今日のこれ、おいしいね」と言ってもらえるものを作りたかった。

だから自分が作る料理は、できるだけ簡単で、失敗しなくて、洗い物が少ないことが条件。

塩昆布ポテサラも、そんな中で生まれた料理だった。

じゃがいもは茹でない。

耐熱容器に入れ、電子レンジでチン。

柔らかくなったら熱いうちにつぶして、塩昆布とマヨネーズを混ぜる。
最後に黒胡椒を挽いてもいい。

ただそれだけ。
お湯を沸かす必要もない。
だけど、ちゃんと美味しい。

あの頃の自分にとって、「鍋を出さなくていい」というだけで、料理のハードルはかなり下がった。

玉ねぎを水にさらさなくてもいい。
きゅうりを薄く切らなくてもいい。
ハムがなくても成立する。

料理というより、「これなら今日もなんとか暮らせそうだ」と思える食べ物だった。

家に帰ると、妻と息子は先に夕飯を済ませていた。

「ただいま」

「おかえり」

「おかえりー」

いつもと変わらない、寝室へ上がる前の静かな時間だった。

作り置きのおかずもあったし、温めれば食べられるものは十分あった。

それでもなぜか、その日は自分のためにポテトサラダを作りたかった。

電子レンジの音が、部屋に小さく響く。

塩昆布の袋を開けると、少しだけ気持ちが落ち着いた。

たぶん、自分の人生を変えた料理だったからだと思う。

料理家になろうなんて、当時は考えていなかった。

でも、「自分でも作れる」と思えた瞬間は、たしかにあのポテトサラダの中にあった。

寝室へ向かう息子が、「とーと、おやすみ」と言った。

妻は、「おつかれさま」と言った。

「ありがとう、おやすみ」

一人になったダイニングで、できあがったポテトサラダを器によそい、ひと口食べた。

そのあと、珍しく缶ビールを開けた。

部屋は静かだった。

でも、その静けさには、ちゃんと暮らしの音が残っていた。

自炊は、節約のための技術だと思っていた。

けれど本当は、自分を見捨てないための行為なのかもしれない。

味噌汁を作ること。
ご飯を炊くこと。
じゃがいもを電子レンジに入れること。

そんな小さな動作が、「明日もちゃんと暮らそう」と思わせてくれる。

人生が変わる日は、案外静かだ。

何か劇的な音楽が流れるわけでもない。

スーパーでじゃがいもが安くなっていて、帰宅して、電子レンジが回る。

たぶん、本当に大事な変化は、そのくらい静かな場所で始まる。

ポテトサラダを作るとき、今でも時々、会社を辞めた日のことを思い出す。

電子レンジの中でゆっくり回るじゃがいもを眺めていると、あの日の静けさが、今でも少しだけ台所に残っている気がする。


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文章の中に出てきたポテトサラダは、その後アレンジを加えて、noteでも「塩昆布ポテサラ」としてご紹介するに至りました。

今でも我が家の定番おかずです。

この文章をきっかけに、料理を通して暮らしや家族のことを書くようになりました。

マガジン『今日もなんとか暮らせそうな料理』では、会社を辞めた日のポテトサラダ、15分後の夕飯、焼かない鮭、家族の食卓のことなどをまとめています。

食べればなくなる。
でも、心に残る料理がある。

よければ、他の話も読んでいただけると嬉しいです。


脱サラ料理家 ふらお
なにもしたくない日のひらめきレシピ』(扶桑社)著者┊29歳で脱サラし料理家になった1児の父(R5.4独立)┊Yahoo! ニュース エキスパート┊フーディストノートにて公式連載を担当┊Nadia Artist┊Pasco公認アンバサダー┊「食の知恵袋」を運営┊献立選びがラクになる情報をnote、X(Twitter)InstagramYouTubeLINE等で発信┊Zip!(日テレ)、めざましテレビ、ありえへん∞世界、THE突破ファイル等で紹介┊詳しい経歴や実績はこちら┊あんこと読書が好き

(写真:筆者)

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脱サラ料理家 ふらお┊初書籍『ひらめきレシピ』 最後まで読んでくださり、ありがとうございます! これからも「していい楽は積極的にする」をモットーに、料理の発信をがんばっていきます!