短編小説 | 群赤色
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箱に残った煙草に火を点けるや迷うた。
此の最後のいっぽんを吸ってしまふと煙草はもうない。ないと成れば当然煙草は吸えぬから、買いにゆかねばならぬのだが、私にはどうにも其れが億劫なのであった。
外へゆくのであれば靴を履かねばならぬし、外は一寸寒いだろうから、上着も羽織らないと駄目だろう。髪の毛はボサボサだし、化粧もしておらぬので、鏡台のまへですこうし見目を整えねばならぬ。
そうなってくると、根が完璧主義者にできている私のことであるから、鏡台の鏡にうつる可愛い自分を発見した途端、下地だのコンシイラだのを塗りたくり、目やら口やら頬だのに装飾を施し、これからお店にでも出勤するのかといふくらいにあれやこれやと、たつぷりと30分は時間をかけてしまうのが目に見えていた。
高が煙草を買いにゆくくらいで、其処までせずとも、と人は言ふだろう。然し、私の価値は若さと見目しかないのだし、何時何処で殿方と相見える機会があるか解らぬものであるから、其処には手が抜けないのである。我乍ら実に厄介でめんどうくさいが、仕方がないのだ。
箱の中身を何度見ても、やはり煙草は残りいっぽんであった。
- 2 -
抑々、何んで煙草なぞ飲まねばならぬのだ。
身体にも悪いし、おカネも掛かるし、近年の健康志向に端を発した或の法律の施行に依って、吸える場所なぞ碌にありはしないではないか。
今までの人生で煙草を煙に変えた本数を考えたら、幾らおカネがかかったか知れない。そのおカネがあれば色々買い物ができたであろうし、海外旅行にだってゆけただろう。
つまり私は楽しい楽しい海外旅行に火を点けて、煙に変へて吸い込んでしまったやうなものなのである。何ンと勿体ない。
然し、こんな外では風がぴゅうぴゅうと吹いているやうな晩は、私には煙草がないと駄目なのだ。手持無沙汰になっては駄目なのだ。手持無沙汰になってボオと座って居ると碌な事を考えぬものであるから、私にはどうしても煙草が必要なのであった。
***
ほら、もうヘンなことを考え始めた。人間関係がどうだとか、ひとは何故に生きるのかだとか、神様は居ないのではないだろうかとか、とりとめのない、考えるだけで時間が無駄になるやうなそういふことを。
神様か。神様が居り、私たちを作ったのなら、何故にこのような不安定な精神の人間という生物を産み出したのであろう。何ゆえに一寸したことでグラグラと揺れてしまう心を、かわゆい神の子である私に与えたのだろう。
だが、神様の創造物のなかでいちばん不可思議なのは男のあれだ、竿の下でぶらぶらしているあの睾丸だ。
医学的には男性が体内で生産する子種といふか精液が熱に弱いから、あんな、奇妙奇天烈でクレイジィな造形をして居るのだといふ。
然し神様は何ンでもできるのだから、コンビニの袋に360エムエルの缶ビイルを2本だけ入れて、ぶらぶらさせておるやうな、あんな妙ちきりんな形態にして冷却しなくとも、熱に強い精子を作ればよいではないか。
熱に強く作ってそれを貯蔵しておく器官を体内に押し込めておけば良いではないか。
神よ!ぶらぶらと冷やしてどうするのですか!
ほら、どうでもいいこと考えてる。
- 3 -
外では風が風を切り、粉々になった風の欠片が、勢い余ってガタガタと窓硝子に衝突するたびに、することがなくなった私は身を縮め、あちらの港からこちらの港へと、思考の船を航海させるのである。
其の船は、コロンブスがハワイだか北海道だかディズニィランドだかを発見したときのやうな、時代遅れの木造船であり、その真ン中から暗い空に向かって真っ直ぐに伸びたマストには、ボロボロになった帆が張られているだけであるから、思った通りの航路を進むなど出来る筈がないのであった。
私の思考は、それは航海というふよりは殆ど海面を気儘に漂っているだけであり、風に吹かれ、波に揺られ、しばしば大波で転覆しそうになったりするのが常であった。
然し、私はなぜかそれを止められぬのだ。船を港に係留しておけないのだ。考えても仕方がない、考えても解決しないと解りつつも、うだうだうだうだと取り留めもない思索が繰り返され、過去の過ちや、将来のこと、昨日のこと、明日のこと、10日後のこと、不安、後悔、恐怖、羞恥などなどの真っ黒い畝りが押し寄せ、そのたびに私は甲板を転がり、もみくちゃにされ、腕や頭を打って、青アザやたんこぶを拵えるのである。
やがて、船の底には穴があき、そこからは海の水とも思えぬ、黒い粘性のある液体が流れ込み、私の心は重い閉塞感という碇と共に、ぶくぶくと沈没してゆくのであった。
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私は手近にあったカツタアナイフをカチカチとスライドさせ、銀鼠の刃を見つめる。こんな物騒な刃物ではなく、煙草をもう一箱多く買っておけばよかったのに、と、思ふ。
刃というふものは、金属を薄うく薄うくして、細胞や繊維なんかの結合の間に滑り込み、その結合をほどいてしまう道具だ。
傷をつける、などと言うと、なにやら物騒に聞こへてしまうが、解きほぐす、というだけなら、苦しみを開放する、という意味合いにも聞こへるのではあるまいか。
苦悩をときほぐす。よい表現だ。
心の痛みも身体の痛みも同じ痛みであるから、肉体が痛めば、心の沈没船の痛みは消え失せる。どちらの痛みがマシであろうか。
私は煙草を咥えるとライターを作動させて、赤色の群れを見つめる。
この熱は、炎か、其れとも損壊であろうか。
(2026/04/02)
