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あなたの世界は「一点」に集まり始めていますか?

先日ジーンキーの旅を楽しむ会で
55番の章を読みました。

私たち人類は、夫々が違う方向(ベクトル)に沿って時空間を進んでいます。そして、ある地点でそれらの別々の道は、この体の奥深くにある一点で合流することになっているのです。
私たちのDNAの中には、この覚醒へのプロセスの引き金を引くためだけに存在している領域があります。

「自分との向き合い」を
これまでに伝え続けながら、
私が感じていたのは
 
「世の中には沢山の情報やサービス、問題解決が存在しているにも関わらず、人は今日も相も変わらず悩み、そして今日も誰かのために何かを提供し続けている人がいるのはなぜか?」

というひとつの疑問でした。

本当にそこに「問題」はあるのか?

人は一体何によって
動かされているのか?


そんな一点をずっと
見つめていました。


ようやく、伝えたかったことが
言葉になって出てきた感覚。

じっくりと、どうぞ。


感情世界を生きながら、無自覚な状態

世の中には「様々なジャンル」がある。

表現を追求する芸事の世界
より良い社会作りのための企業活動
メンタルをケアするサービス
精神的な探求の世界
子育てや家族関係
政治や外交
繰り返される人類の歴史

一見バラバラのように見えて
どの世界を見ても
同じ「一点」があります。

その「一点」を中心として
そこから様々な動きが
生まれているようにも見えます。


そこにあるのは
「人と人の関係性」
ではないでしょうか?

そして、その世界を
揺らがしているのはいつでも
 
「被害者意識」
 
ではないかと思います。


世界が別々のままでは
それは浮かび上がってこない
かもしれません。

私たち人類は、夫々が違う方向(ベクトル)に沿って時空間を進んでいます。

それが、この段階。

違う方向性をそれぞれに持ち、
その世界のルールがあり、
その世界の色や動きや言葉がある。

「共通言語」と「共通認識」

がない場同士というのは
繋がりにくいものですよね。


ここで言う「被害者意識」は、
単に「被害者と加害者」の関係性
を指しているワケではありません。
(それも含みますが)

「誰もが感情の被害者である」

という意味です。


つまり、人生そのものが
「感情ドラマ」の構造になっており、
その構造の「中」しか知らず、

その「中」で
喜怒哀楽や苦しみを味わい、

さらにそれを
「なんとかしよう」として
様々なものが生まれてきている、

という構図です。

ある地点でそれらの別々の道は、この体の奥深くにある一点で合流することになっているのです。

というのは、
個人の人生において
のみならず、

社会全体においても
言えることかもしれません。


現状が間違っているとか
そういうことではなくて
 
「物語の続きがある」

という感じ。

自分と他者との間に感じていた、「壁」

私が生まれた昭和の時代は
「ご近所付き合い」
が普通にありました。

「サザエさん」に
描かれているような世界。

お隣さんは老夫婦が
住んでいたのですが、
日中はよく遊びに行ってました。

「家族」と「他人」
との間にあまり境界線が
なかったのかもしれません。


大人になっていくうちに
気が付けばそこには境界線が生まれ、

「遠慮」のようなものが
ふるまいの中に現れるように。

「家族じゃないから」

その一線によって
何かがセーブされる感覚。

特に私の両親があまり
ご近所付き合いが
得意な方ではなかったので、

そこからの影響も
あったかもしれません。

「そういうものなんだ」

と子供ながらに模倣したというか。


その次は「他人」の中にも
「近い人」や「遠い人」が
生まれてきました。

心を許せるかどうか
何でも話せるかどうか

私が「どう感じるか」によって
区別が生まれていきました。

「遠い人」にはあまり
関心を寄せることはなく、

テレビのニュースで流れてくる
「どこか遠くの人に起こったこと」
などは、その最たるものでした。

「他人事」だと感じていた。


それよりも自分の周りにいる
「近い人」との関係性に
悩んだりしていて、

そちらの方が関心事だったというか、
そこで手一杯になっていた感じ。


物心ついた時には
自分と人との間に「壁」のような
境界線のようなものがあり、

その境界線のこちら側で
色々なことを感じていました。

今思えばそれが「感情」でした。

「向こう側にある世界がわからない」

それは時に不安を感じ、
時にはときめきを感じ、

でも結局はいつも
「揺らぎ」というものが
受け入れがたく、

「どうするべきか?」

という思考の餌食になって
感情の波に理由づけをしていた。

55番の章の中に、

私たちは感情には何か理由があると思い込んでいます。

気分の浮き沈みの理由を外側に求めるというこの傾向は、地球における私たちの最大の中毒と言えます。

とあります。
私はまんまとこれを
繰り返していました。


あの「壁」の正体は、

私が思考の理由づけによって
感情を個人的に所有し、
「なんとかしよう」として
コントロールし続けた結果、

自らの内側に創り上げたものでした。

それは生まれた時には
なかったものであり、

「人間関係」を通じて
生まれたものでもありました。


一度生まれてしまうと
その「壁」の向こう側に対して
少しずつ身構えるようになり、

「理由」は次々に増えていきます。

増えることはあっても
減ることはありませんでした。

なぜなら次々に思考が
介入していったから。

「人間関係」と「人生」の関係性

「人生」と聞くと
「ひとりにひとつ」
という感覚がありませんか?

それぞれがそれぞれの人生を
生きていて、軌道がある。

その軌道が交わるポイントで
人との関わりが生まれ、
でもベースはそれぞれの軌道である。

そういう認識を持っている方は
少なくないと思います。

「自分の人生に責任を持つ」
「自立した大人になる」

というような表現も、ベースには
「ひとりにひとつ」
がある気がします。


ところが、私自身の人生を
振り返ってみた時に、

「人間関係」と「人生」は
切っても切り離せないものでした。

仕事も交友関係も「人間関係」が
いつでもネックになって
方向転換を余儀なくされたり

誰かとの繋がりが心の支えになり
新しい一歩を踏み出せたり

そういう体験ばかり。

人生>人間関係

というよりは、

人間関係の領域の中に
私の人生がある、という感じ。


アドラーの「嫌われる勇気」が
ベストセラーになるのもわかる。

「人間の悩みはすべて対人関係に起因する」

という提唱には
深く納得ができました。

結局すべては、人間関係だって。

そこを避けて物事を見ても
意味がないとすら思っていた。


ただ、そこに対して

「こうすればいい」

とも本には書かれていましたが
そこに対しては違和感というか。

新しい捉え方や視点を
持てるという意味では
意義を感じましたが、

そもそも一人の世界の中
どうにかしようとする時点で
「違う」と感じてもいました。


「ひとりひとつ」の人生と
「他者との関わり」の領域は

「他者と良好な関係性を築ければ
自分の人生も上手くいく」

というような、

人生>人間関係

という捉え方をしている内は
ずっとズレ続ける気がします。


「人生」が主なのではなく、
一人一人の人生があって
それがお互いに混ざり合うのが
「関係性」の領域であり、

「関係性」をお互いが
大切に扱っていくことで

その中に含まれている
「それぞれの人生」もまた
大切にされていく感じ。

つまり、相互依存の関係です。

成功ノウハウの落とし穴

たとえば「成功ノウハウ」
のようなものって、
本でも情報でも有り余るくらい
世の中には出回っていますが、

その前提には
「ひとりひとつの人生」が
あるんですよね。

そこにフォーカスが当たっている。

「自分」というひとつの
視点から世界を見て、

現状を把握し、
改善点を見出して、
行動していく、的な。

しかも「ひとり」で。


有名な「7つの習慣」では

①主体的である
状況や他人のせいにせず、自分の反応を自分で選択し、自責思考で行動する。
終わりを思い描くことから始める
自分の葬儀をイメージし、人生の最終目的やミッション(使命)を明確にする。
最優先事項を優先する
緊急度ではなく「重要度」が高い活動(第2領域)に時間とエネルギーを集中する。
Win-Winを考える
他者との関係において、相互利益をもたらす解決策を探す。
まず理解に徹し、そして理解される
相手の話を共感的に聴き、その上で自分の意見を伝える(誠意あるコミュニケーション)。
シナジーを創り出す
他者との違いを尊重し、相乗効果を生み出して1+1を3以上にする。
刃を研ぐ
肉体、精神、知性、社会・情緒の4つの側面を定期的にメンテナンスし、成長を続ける。

という「成功マインドセット」の
やり方が書かれているのですが、

ちょっと想像してみてください。

目の前にいるあなたの友人が
「7つの習慣」を読み、感銘を受け、
これら7つを意識しているとします。

相手の話を共感的に聴き、その上で自分の意見を伝える(誠意あるコミュニケーション)

たとえばこれを意識して、
その人はあなたの話を
丁寧に聞こうとするかも
しれません。

「共感的に聴き」というものが
どういうことであるかも
わからないままに、

本に書かれていたことを念頭に。

あなたはその人といて
心地よいでしょうか?

その人は「今」にいるでしょうか?

いないですよね。

だって、思考の中で
「7つの習慣」
の世界にいるから。


「共感的に聴く」のは
本に書いてあるからであって
その人が「そうしたい」と
心から思ったことではない。

またそれをする動機も
「7つの習慣」が提唱している

公私ともに豊かで成功する人生

を目指すためであって、

目の前にいるあなたと
心地よい時間を過ごすため
ではない。

ここに
「コントロール」
があるのがわかるでしょうか?


勘違いしないでほしいのですが、
「7つの習慣」が間違っていると
言いたいのではありません。

「7つの習慣」が日本で
発売されたのは、1996年です。
20年前ですね。

私たち人類は、夫々が違う方向(ベクトル)に沿って時空間を進んでいます。

という背景があって
それぞれのジャンルから
様々なものが生まれたことも、

必要な流れというだけ。

大切なことはそこから
「何を学ぶか」です。

既存への反発や反論だけでは
「理解」には至れません。


私がここで言いたかったのは

「ひとり」という前提に
立っている間は

「関係性」の領域ではない
というだけ。

これは道徳的な話ではなく、
構造の話です。


「ひとり」の領域に立ち、
どんなに「関係性」の世界を
見つめてみたところで、

「向こう側にある世界がわからない」

それは時に不安を感じ、
時にはときめきを感じ、

でも結局はいつも
「揺らぎ」というものが
受け入れがたく、

「どうするべきか?」

という思考の餌食になって
感情の波に理由づけをしていた。

この状態だということです。

「関係性」という場所に、立てますか?

「関係性」という場所に
立ってみたことはありますか?

おそらくほとんどの方が
「ひとり」という場所に
当たり前に立っていると思います。

そこがベース(基本)で、
時々「関係性」領域に
入って行くイメージ。


これを、ひっくり返してみると
どんな世界が見えてくるでしょうか?

本当は「関係性」が
ベースにあって、
時々「ひとり」の領域に
入ってるとしたら?


いえ、もっと言うなら

本来は「関係性」領域こそが
誰にとってもベースであった
はずなのに、

なんらかの理由でそこに
「壁」が生まれたことで、
「ひとり」の領域がベースに
すり替わってしまった

としたら?


さて、その「壁」とは

物心ついた時には
自分と人との間に「壁」のような
境界線のようなものがあり、

その境界線のこちら側で
色々なことを感じていました。

今思えばそれが「感情」でした。

と書きました。

そう、そこには「感情」がある。

「壁」を境にして
向こう側を見つめた時に
感情はもっとも反応しますよね。

あの「壁」の正体は、

私が思考の理由づけによって
感情を個人的に所有し、
「なんとかしよう」として
コントロールし続けた結果、

自らの内側に創り上げたものでした。

それは生まれた時には
なかったものであり、

「人間関係」を通じて
生まれたものでもありました。

そもそも「壁」とは
実際の関係性の中に
あるものではなく、

自分の中に生まれたもの。

「ひとり」の領域とは
「壁のこちら側」のことで、

そこに大なり小なり
「コントロール」
があるのであれば、

それはもれなく私と同じく
「思考の介在」です。


そして実は
この「コントロール」とは
「人間関係」に対するもの、
つまり相手に向けられたもの
ではなくて、

相手と自分の「感情」に対して
行っていることになります。


「関係性」という場所が
なぜベースではなくなって
しまったのか?

その背景にもこの
「コントロール」
が影響しています。

そこから見えてくるものは

「人類はまだお互いに、感情を正しく扱えていない」

という「一点」では
ないでしょうか?

全ては必然でしかなく、過去に間違いはない

ここに書かれた文章を読んで、
あなたはどう感じたでしょうか?

もしも、

「否定された気がした」
「バカにされた気がした」
「何も知らないくせに」
「よくわからないからスルー」

などの感情反応が
起こったとしたら、

つまり、そういうことです。


これはこの記事だけにあらず
世の中に溢れている情報や
誰かの言葉やふるまいに対しても

同じことが言えます。

あなたがもしも
目の前にある何かや誰かに対して

感情的に反応したのであれば

そこにあなたの「壁」が
あると教えてくれています。

ただ、それだけのこと。


陥りがちなのは
そういう自分に気づいて
その自分を

「なんとかしよう」

としてしまうことです。

それでは「ひとり」の世界の
住人のままです。

それではまた
「思考の餌食」です。

(思考は悪者ではないですが)

私たち人類は、夫々が違う方向(ベクトル)に沿って時空間を進んでいます。そして、ある地点でそれらの別々の道は、この体の奥深くにある一点で合流することになっているのです。私たちのDNAの中には、この覚醒へのプロセスの引き金を引くためだけに存在している領域があります。

冒頭の引用を再度。

結局のところ
個人レベルでも
社会レベルでも

私たちはプロセスの途中にいる、というだけです。

プロセスには
正しいも間違いもなく、

「必要な体験」

があるだけです。

そこを改善しようと
そんな自分を責めようと

それすらもプロセスなのです。

気分の浮き沈みの理由を外側に求めるというこの傾向は、地球における私たちの最大の中毒と言えます。

この「最大の中毒」も
みんなで体験する必要が
あったというだけ。

「私は違う」

なんていうことは
ありえないのです。

なぜなら感情世界は
個人レベルのものではなく
集合体レベルのものだから。

つまり、もれなく全員参加(笑)


該当してない人など
一人もいません。

どんなに偉い人でも
どんなに普通な人でも
歴史に名を遺した人も
遺さなかった人もです。

「人類はまだお互いに、感情を正しく扱えていない」

という共通認識を
持てた時に、

ようやく感情というものを
「一緒に」見つめていける。

それが「関係性」という
場所に立つという、
言葉の意味です。

「感情との接し方」をみんなで始める

「人類」なんて言われると
話が大きすぎるように
感じるかもしれませんが、

実際にはあなたの目の前に
広がっている世界のはず。


自身の「感情との接し方」を
見つめてみて下さい。

そこにジャッジがないか
抵抗感がないか
厄介者にしていないか
なんとかしようとしていないか

それが、答えです。


感情権威の記事で
こんな風に書きました。

ただ、ひとつ言えるのは
とても味わい深い世界です。

そして同時に、
「初めて触れた世界」
でもありました。

一人でも多くの方が
「感情世界」を味わうように
なってくれたら嬉しいです。

ここに「未知」が
沢山詰まっている
気がします。

全文はこちらから。

感情世界を
一緒に見つめていった
先にあるのは、

人類の50%の方の
「内なる権威の回復」
とも言えます。


じゃあ残りの50%は
関係ないかと言うと、
むしろその逆です。

結局のところ個性の視点から見ても、

「誰か一人のノットセルフは
人類全体のノットセルフ」

なんです。

特に感情に関して言えば
「関係性」にダイレクトに
影響を及ぼしていますから、

もう「ひとりでなんとかする」
領域ではありません。


誰かの責任を追及することは
「責任転嫁」でしかなく、

それは紛れもない
「被害者意識」
からのふるまいです。

そのふるまいを責めるのではなく
その体験から学ぶ必要がある。


たとえ今のあなたが
感情に対してどんな接し方を
していたとしても、

そこに問題はないのです。

「問題視」という見方が
間違っていたというだけ。
それも、必要なプロセスです。


結局のところ私たちは
これらすべての体験を

「やらされているんだな~」

と思います(笑)

ただ、それだけのこと。

誰も悪くないし
誰も間違ってない。

「人類はまだお互いに、感情を正しく扱えていない」

ということに気づいていく
必要があっただけ。


ならば、始めていけば
いいだけですね。


ふっこ☻


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