#443_掌編_アルハンブラの風を知らないまま
マスカットの夜に綴る心の手紙
──空港を出ると真っ先にホテルへ向かった。ベッドに身を投げた瞬間、遠くから甘い乳香の香りが鼻をかすめ、光を受けて輝くすべてを包む波に、堕ちていくのを感じていた──。
自分との小さな契約を守れない人間が、どうして他者との信頼を守れるだろう。
僕が本当に欲しかったのは、
ただ否定されないことだった。
──食事もロクに摂らず、配られた水を流し込んだ。この世の終わりから逃げるような形相で、ここまで走り抜いた。
誰にも見せない生活の乱れや、心の奥に隠した弱さ。
それを抱えたまま、ただ時間に流されていた日々。
掃除もせず、自炊もせず。
「どうせ何をしても変わらない」と諦めて、
自分を雑に扱うことで、心の奥で「それでいい」と証明するかのように。
その穴を埋めようと、僕は高額なお金を払って、特別な場所や人にもすがった。
「劇的な変化」を買うことは、仮初めの救済でしかなかった。
「自分を大切にできない人は、家族や恋人を大切にできない」
その一文が、胸を深く貫いた。カッとなって、あらゆる感情をぶつけて、君をなじった。僕は最低だ……。
──心の最後の砦は、まず自分の生活を整えることだと分かったのです。
……っく。わかったようなことを!
僕は楽譜を叩きつけると、ピアノに鍵をかけ、すべてを捨て去ろうとさえ思った。無意味にチケット画面をたぐり指が痛くなるほど確認もした。そして、カバンひとつでこの街にたどり着いた。
間違ったときも、何も言わずに隣に座っていてほしい。
「どうして失敗したの?」ではなく、「よく頑張ったね」と言ってほしい。
ただそれだけだった。
僕がどんなに辛い言葉を吐いても、すぐに離れていかない安心感。
それだけで、心は守られる。
言ってほしい言葉は、シンプルだ。
「あなたは大丈夫だよ」
「真央は真央でいいんだよ」
何かを成し遂げた、がんばったからじゃなく、ただ存在そのものが大切だと伝えてほしかった。
それが、僕の不安をやわらげる唯一のものだった。
「ティーカップとお湯はあるけど、お茶っ葉がない」と言った君。
完璧な愛は持っていない、ということなのか。
でも僕にとっては、ティーカップは君の存在、お湯は君の時間と優しい心。
それだけで十分だった。
僕が一番怖かったのは、君が突然、カップもお湯も持って消えてしまうこと。
完璧な茶葉がなくても、君という温かい場所が隣にあるだけで、不安は消え去った。
君が正直に伝えてくれることも、安心だった。
そのとき僕は責めない。
むしろ「そうか、君も疲れていたんだね。じゃあ今日は僕が注ぐ番だ」と思える。
でも僕は、正直な優しさでは足りない。
寄り添うのが下手だけど……。そんなことなら、初めから声なんかかけなくたっていい。
君が僕に甘えたい、頼りたいと思ってくれることが、僕をさらに追い詰めた。
「私はあなたを幸せにしようだなんて少しも考えてない」
その一言が、張り詰めたすべての糸を断ち切った。
僕は心のどこかで「君もいつか、僕を幸せにする責任を負ってくれる」と期待していたのか。
でもその糸は、そんな鎖のようなものではなかった。
──空港を出て、タクシーから見えた海は、夕暮れに染まっていた。まどろみから目を覚まし、バルコニーに出ると、空はもう、桃色から藍色へと静かに移ろっていた。
風が、頬を撫でる。誰かの声も、ざわめきも、遠くに溶けていく──。
ガラスの手すりの向こうに広がる海岸線。白いパラソルが並ぶ砂浜と、おだやかに波打つ水辺。その向こうには、灯りの点り始めた街が、星のように瞬いていた。
僕は、籐の椅子に身を沈めて、君のことを思い出していた。 テーブルにある、冷えたグラスと、小さなランタン。その灯りが、君の声のように、静かに僕の胸を照らしていた。
──あのとき、君が言った。 「私はあなたを幸せにしようだなんて、考えてない」って言葉。
その言葉が、僕の中にあった鎖を、そっとほどいてくれた。 君が君自身のために笑ってくれること。それが、僕にとっては、いちばんの安心だったんだ。
この場所に、君がいたらいいのにって思った。でも、いなくてもいい。
君が君の時間を、君の心で選んでいるなら、それだけで、僕は救われる。
──空が、深くなっていく。 街の灯りが、海に映って、揺れている。 僕の心も、少しだけ、揺れている。
でも、君がくれた言葉が、この風みたいに優しくて。
それだけで僕は、ここにいていいと思えるよ。
代わりに君が口にしたのは、
「私が楽しいと思うものを楽しめたら」という願い。
僕が求めるのは「不安じゃない状態」を作りたいこと。
君が楽しさを求めるのは「心地よい状態」を作りたいから。
この二つは近い場所にある。
「不安がない」状態は「心地よい」状態の土台になる。
そして君が楽しさを感じてくれるなら、それは僕にとって「安心の証明」になる。そんな僕には、到底なれそうにもなかった──。
君は「私は私のために楽しむ」と言ってくれればいい。
その楽しさこそが、僕の心を「この関係は安全だ」と説得してくれる。
そして、君が「これは楽しい」と感じたことを少し言葉にしてくれるなら、
僕はもっと君を理解できる。
君が楽しい時間を差し出してくれれば、僕は不確実性を取り除いて支えられるだろう。
君が感覚的な喜びを見せてくれれば、僕はそれを大切な根拠として受け止める。
君が心の平穏を求めるなら、僕の防御線で守れる。
これからは、君の「楽しい」と僕の「安心」を重ね合わせていきたい。
ただの楽しい感覚を、少しでいいから僕の世界に運んでほしい。
真央です。
君の言葉が聞けてよかったよ。
無理に僕を幸せにしようとしなくていい。
君が君自身の楽しいという気持ちを大切にしてほしい。
僕はそのままの強さと温かさを受け止めていたい。
ありがとう。
マスカットにて
松原 真央
部屋に戻り、それだけ書き留めると、深い海に潜り込み、眠りについた──。
<了, 約 2,300 字, 全文 約 3,300 字>
歌作品はこちらです⇨ Akari_Records
この掌編の前段となるお話です。
あとがき
心の揺れをそのまま抱きしめる──。
これまでの雑記シリーズ、今回は小説仕立てにしました。そして、noteで初めて登場人物にフルネームを冠しました。
タイトルの「アルハンブラ」は、スペインにあるイスラム建築です。昼と夜で違う顔を持つ、美しい宮殿。一度は行って見たい場所です。
今年の旅行のいいところを少しずつ取って、手元で書いている小説の風景とあわせ、note用にアレンジしました。行き先は沖縄では近すぎて、アラブに飛んでもらいました。
小説を書くのは、むずかしいですね。
私など、シーンは書けても、仕草や場面、行動を書くのが苦手です。
特に、心の動きや気もちを書けなくて苦しいときもあります。
読む時は具体性や論理的なものが多いのですが、書くとなると余白全開で、蛇口を捻るたびに抽象に寄る、そのような「癖」を悩ましく、愛しく思います。
究極の癒やしが生まれる場所
責任の回避というよりも、無条件で自分を休ませてあげられる、信頼し、安心できる場所へ還ることが安らぎだとすると、人からは見えにくい想いを、他の人には見えない、別の次元のものにする、それが創作だと思います。私は、何が書ける人なんでしょう。
心に湧き上がる感情も、涙も、どれほど深く、正直に人生を生きてきたかという、私たちの真心の証です。
強烈なまでに人から必要とされてきたあなたへ
ご自身に優しく、心の疲れを休ませてあげてくださいね。
(約 550 字)
・・・
(ご参考)
動画: アランブラ宮殿の思い出 Recuerdos de la Alhambra/朴 葵姫(パク・キュヒ)(クラシックギター)
個人的には、こちらもおすすめです。
動画: Recuerdos de la Alhambra / Narciso Yepes
動画: アルハンブラの想い出/F.タレガ(大谷恵理架)
※ ご面倒をおかけいたしますが、動画の感想は動画サイトのコメント欄へなさっていただいた方が、喜んでいただけると思います。
また、年頭に作詞した歌の世界も少し取り入れています。

◼️11/1に書いた記事が気に入って、続きを書いています。
▼「B面」「桜まで待ってる」と同時期に生まれた、もうひとつの物語
傷つくことよりも、愛を失うほうが怖かった──。
🎼 バックナンバー 🎹
それではまた、次の記事でお会いしましょう🌟
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