学び手を育てる対話力⑤
前回から引き続いて次期指導要領改訂にあたって、いま改めて私たちが心に留めておくべき授業のありかたについて、石井順治氏の論考を見てみたい。
対話的学びの授業研究とは
求められている授業研究の転換
全国どこの学校でも授業研究を行わない学校はなく、授業研究は学校文化となっている。
ただ、それがどれほど子どもの対話力を育み、対話的で深い学びにつながるかを検討することになっているかというとまだまだ転換途上になるのではないだろうか。
対話的学びを深める授業研究で大切なのは、教師の教え方よりも、学ぶ子どもの学び方であり、そこで生まれる子どもの学び方でなければならない。
教師に教えられる学習ではなく、自ら対話的に取り組む学習なのだから、子どもが主体的・対話的に学びに取り組めているかどうか、その学びが深まっているかどうかがとても大切だ。
その上でそれを指導する教師の検討をするが、その内容はどう教えるかというものではなく、深い学びを生み出す対話力をどう育て、どのように対話的学びを生み出し深めるのかというものでなくてはならない。
それは従来の授業研究の在り方では対処できないし、授業研究の在り方自体が転換を迫られている。
対話的学びとしての授業研究
授業を研究するには、どんな題材でどんな授業をするかという事前の授業研究と、実施した授業において子どもの学びはどうだったか、子どもの学びに対する教師の対応はどうだったかを検証する事後の授業研究がある。
教師は教材論や授業論について日常的に研鑽を積んでいなければならないのはもちろんだが、子どもの学びを具体的に研究するのは授業の前後の取り組みだ。
事前研究で行うことは、授業デザインの作成だ。
これは従前の学習指導案とは違っていて、どう対話的に取り組ませ深めるのかというプランだ。それは教師の指導プランではない。
授業デザインの作成においては、次の点に留意する必要がある。
まずは日ごろから子ども相互のつながりを深め対話的に取り組む授業を行い、子どもの対話的な授業への意欲や対話力を高めておく必要があり、この研究が欠かせない。
次に子どもが夢中になって取り組めるよう子どもの取って魅力的な課題を設定するようにする。
対話的学びには全体で行うものよりも少人数で行う学びの場が重要であり、それを単位時間内に設定することが重要になる。短く小刻みな時間設定ばかりになると学びが深まらない。
子どもが探究できるよう適切な時間設定が大切になる。
このようにして作成した授業デザインは、指導に手順を細かく記した学習指導案にはならない。
それは対話的学びが教師の支持と発問によって教師が進める授業ではないからだ。
ただ、子どもが対話的に取り組む学びだとは言っても、それを深い学びにまで昇華させるには、学びの状況を見極めた教師の「足場かけ」などの対応をしなければならない。
そのために必要なのは、授業展開を詳細に決めることではなく、子どもの考えを予想しておくことだ。
ところで、授業デザインは、多くの教師が集まって協議して作成しないようにすることが肝心だ。
対話的学びは子どもによって進む。
だからこの学級の子どもを知っている教師が授業デザインをすべきなのである。
もし大勢の先生たちで集まって作成したとすると、おそらく「どう教えるか」という罠にはまってしまう。
もし大勢で協議するとしたら、それは教材研究であり、そこから派生する課題だ。
子どもの事実をもとにした事後研
授業後に検討しなければならないのは、教師が子どもの学びに適切に対応することができたのか否かである。
そのためには、子どもの事実を丁寧に振り返らなくてはならない。
「どこで学びが生まれたか」「どこで学びが滞ったか」それが明確にならなければ教師の対応が適切だったかどうかの判断はできないからだ。
しかし、これはそれほど容易なことではない。
それは、従来の事後研究が教師の指導に焦点を当てすぎていて、子どもの事実を見ることを疎かにしてきたからだ。
子どもは何人もいて子どもの事実は一様ではない。
それに子どもの事実とは、表面的に浮き出て見えるものばかりではなく、子どもの内に秘められているものもあるからだ。
学ぶのは子どもであり、それぞれの子どもが向かう学びを実現するのが教師の理想だ。
そうだとすると目には見えないものを含めた子どもの学びの事実を深く丁寧に見直さなければならない。
そうでなければ対話的で深い学びの授業研究にはならない。
そのような検討会を実現するためには、授業参観の在り方から見直す必要がある。
教室の後ろから眺めているだけの参観では子どもの事実はとらえられない。
子どもがペアやグループになったら近づいて子どもの声に耳を傾けなければならない。
一人一人の子どもの声を聴きとるだけではなく、考えと考えの関連、子どもの考えと課題のつながりを浮き彫りにするような聴き方をしなければならない。
対話的学びの検討は、こうした参観をしなければできないことなのだ。
しかも、そのような研究協議こそ対話的になる必要があると考える。
教師が対話的に考えることができる学校こそが教室での子どもたちの学びを真に対話的にすることができるからだ。
授業を検討するということは、どこまでも子どもの学びについて真摯に考えるということだ。
見栄えのよいうまい授業、技巧的に優れた授業をめざすためではないし、研究授業でよい授業をみせるためでもない。
こう考えると授業研究を”イベント“にしてはいけないということになる。
授業研究を特別な日のフランス料理にするのではなく、日々のお惣菜のような、もちろんおいしいお惣菜をめざすのだが、そういう授業研究にするべきなのだ。
