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蒲田陸橋【4月2日 今日は何の日】(蒲田西特別出張所) #285

※本記事は
 Otapedia公式note(https://note.com/fine_rat5784)のみで
 公開しています。
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開かずの踏切問題

蒲田駅付近には
北に女塚(池上)踏切
南にも
蒲田駅の構内に
踏切があり
交通の障害となっていた。

この慢性的な問題を
抜本的に解消するために、
東京都は
線路をまたぐ陸橋の建設を決断し、
蒲田陸橋(蒲田跨線橋)の
計画が動き出した。


東京鉄骨橋梁製作所の挑戦

この難工事を担うことになったのが、
現・日本ファブテック株式会社である。

1957年(昭和32年)
東京都から
蒲田跨線橋の建設を
受注した同社は、
当初は「製作のみ」を
担当する予定だった。

しかし、
当時の社長・遠藤孝之氏の判断により
架設まで一貫して請け負う
という大胆な判断を下す。

列車が絶えず行き交う
要衝での架設は
極めて難しく、
この決断は
同社の発展にとって
大きな転機となった、
と記録されている。


列車往来の要衝

なぜ架設が難しかったのか。

蒲田駅周辺は、
国鉄横須賀線・京浜東北線  
更に東海道本線が
集中する要衝であり、
列車がひっきりなしに通過していた。

一度下りた遮断機は
なかなか上がらず、
工事は列車の運行を妨げないよう、
深夜から早朝の
わずかな時間
に限られた。

この厳しい条件が、
同社の挑戦を
より際立たせることとなる。

出典 東京鉄骨橋梁製作所「56年史」
日本ファブテック株式会社

特殊な工法による建設

限られた時間と空間で
橋を架けるために
採用されたのが、
スライド工法である。

片側で橋桁を組み立て、
ローラーの上を
滑らせるように
押し出す方法で、
明治時代から
鉄道橋梁などで用いられてきた技術だ。

都市部の狭い現場で
列車運行を止めずに
施工するための、
合理的で高度な選択だった。


1961年 (昭和36年) 4月2日 開通

受注から4年、
ついに蒲田陸橋が完成し、
開通式が行われた。

開通式当日の様子
出典 『おおたWeb写真館』 大田区役所

1984年 (昭和59年) 5月1日 

この道路の名称が
「環八通り」となった。

同日
大田区内では、
「産業道路」
「環七通り」
「池上通り」

「自由通り」
も正式に名称が付けられ、
現在の道路網の基盤が
整えられた。


現在の蒲田陸橋

先人たちの
努力によって建設された
蒲田陸橋は、
環八通りの一部として、
今も多くの車両を
安全に通し続けている。

地域の交通を支える
“無名のインフラ遺産”である。

現在の蒲田陸橋

最後に

Otapediaは
蒲田陸橋を施工した
現・日本ファブテックを
「大田区無名の企業」
蒲田陸橋と環八通りを
「大田区未顕彰の地域遺産」
蒲田陸橋が開通した
4月2日と
通りの名称が付いた
5月1日を
「大田区記憶の日」
として登録します。

大田区の記憶を呼び起こす
「Otapedia」の活動
私たちは
その“名を失いかけたものたち”に、
もう一度まなざしを向け、
記憶の岸辺に呼び戻す営みです。

彼らの活動や
痕跡は消えても、
地域に遺した軌跡
未来へと伝えていきます。

これらの呼称は
Otapedia独自の呼称」であり
大田区公式の認定ではありません」。


出典
 1.『日本ファブテック』Wikipedia 
 2.『蒲田跨線橋(蒲田陸橋)』東京鉄骨橋梁製作所「56年史」
 3. 『東京都道311号環状八号線』 Wikipedia
写真
 4.『おおたWeb写真館』 大田区役所

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