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【保存版】大田区 通史 “What is Ota City?” (大田区) #157

東京駅から
京浜東北線で約20分
東京の南部に位置し、
羽田空港を擁す大田区。
この街が
どのような歩みを辿ってきたのか
紐解いてみましょう。


大田区とは?

1947年 (昭和22年) 3月15日
森区と蒲区が合併して
大田区になりました。


1.南北朝時代
蒲田のはじまり

源流は
諸説ありますが
14世紀南北朝時代
江戸氏の支流とされる
江戸蒲田氏
また、
陸奥石川氏の
有力一門である
石川蒲田氏が
知られています。

江戸忠武
蒲田郷を領有して
蒲田忠武を名乗り
蒲田氏を興したとされます。


2.江戸期

大森

江戸時代山王周辺は
木原氏が治めており、
現在でも「木原山」の名が
その名残として残されています。

1682年 (天和2年)
大森の野口六郎左衛門
幕府に願い出て
海苔養殖を始めたのが、
大森の海苔産業の
起源とされています。
その後「御前海苔」として
幕府に献上されるようになり
地域の基幹産業として
確立しました。

羽田

羽田浦要島
呼ばれていた低湿地
1815年 (文化12年)
羽田猟師町に住んでいた
鈴木弥五右衛門
名主の石井四郎右衛門より
土地を譲り受け
開墾を完成させました。
これにより
この地は「鈴木新田」と
呼ばれるようになりました。

現在の羽田発展の
始祖とされています。

さらに鈴木新田内に祠を勧請し
これが後の
穴守稲荷神社」となりました。


3.明治期

明治時代に入ると
大森や蒲田では
川田谷五郎によって
真田紐を基にした
麦稈真田 (ばっかんさなだ)」
という技術を開発し、
日本初の麦わら帽子
作られました。
麦稈真田業は
大田区初の殖産産業として
大きく発展しました。
海外にも輸出され
生糸と並び
日本の主要産業の
ひとつとなりました。


日本最初の鉄道

1872年 (明治5年) 10月14日
今の大田区内に開通しましたが
当時駅は存在しませんでした。


大森駅開業

1876年 (明治9年) 6月12日
元々は線路の保守点検を行う
工夫の詰所であった場所が、
不要になり駅舎に転用され、
大森駅が開業しました。

駅ができた理由として
鉄道技師の家
近くにあったことに加え、
池上本門寺新田神社への参詣、
また海苔養殖地が近かったことも
理由になったようです。


大森駅駅名裏話

当初地名である
新井宿」駅の
案も上がりましたが
駅名として通りが悪いので
1km以上離れた
大森」の名をとった
という説もあります。


歴史的発見

1877年6月19日
現東京大学教授として
来日していた
アメリカ人動物学者
エドワード・S・モース
横浜から東京に向かう
上り列車の車窓から
大森貝塚を発見しました。
この発見は
日本考古学の幕開けとされ、
学術的にも大きな意義を持ちました。

現在線路沿いの発見地には
大森貝墟」石碑が建てられ
大森駅ホームには
日本考古学発祥の碑」
設置されています。


明治期の大森周辺の活況

1884年には
久我邦太郎
駅の西側に
広大な大森八景園
1891年には
八幡海水浴場も開場させ
活気に溢れていきました。


関東初の電気鉄道

1901年 (明治34年)
京浜電気鉄道
東側の海岸部に開通したことで
大田区に
初の「電気」が灯りました。
1902年 (明治34年)
翌年には穴守稲荷神社への
参詣需要に応える形で
穴守線 (現京急空港線)
開通しました。


蒲田駅

1904年 (明治37年) 4月11日
大森駅に遅れること28年
付近にあった
1903年 (明治36年) 開園
蒲田菖蒲園の人気ぶりに
誘致運動が活発になり
開業することとなりました。


大田区で天皇賞!?

1906年11月24日
池上競馬場が開場。
12月1日には
東京競馬会による初の
帝室御賞典競走」
(現在の天皇賞)
が開催されました。
記念すべき勝ち馬は、
騙馬11歳 カツラ号でした。

しかし当時の大田区は
東京郊外の田舎町といった風情で
本格的に発展していくのは
大正期になってからのことでした。


4.大正期
蒲田発展の契機

1914年 (大正3年)
黒澤商店の工場開設に始まり
大工場の数多くが
蒲田へ移転し
周辺は発展していきました。


日本飛行学校羽田に設立

日本のライト兄弟
呼ばれた玉井兄弟
1916年 (大正5年) 10月5日
兄清太郎の操縦する飛行機が
多摩川河口の干潟、
通称・三本葦での飛行に成功。
これが現在の羽田の地での
初飛行とされます。


東洋のハリウッド

1920年 (大正9年) 6月
東洋のハリウッド」を目指して
松竹蒲田撮影所が開業しました。
蒲田は映画産業の拠点となり、
街自体も
大きな賑わいを見せました。

1931年には
日本初のトーキー映画
マダムと女房」が
ここで撮影され、
映画文化の発展に
大きな役割を果たしました。

しかし、
1936年 (昭和11年) 1月
周辺に工場が増えたことで
騒音問題深刻化
撮影所は
神奈川県大船移転しました。

その後の文化的継承
撮影所はなくなったものの、
蒲田は映画文化の象徴として
記憶され続けました。
代表的なのが「蒲田行進曲」で、
映画化され全国的に
知られる作品となりました。

現在の街の記憶
JR蒲田駅の発車メロディには
蒲田行進曲」が採用され、
街の文化的アイデンティティとして
今も息づいています。


文化人たちによる大森の発展

1923年
作家の尾崎士郎宇野千代夫妻
馬込に引っ越してくると
尾崎の誘いで
文化人が多く住むようになり
馬込文士村」が形成されました。
川端康成もその一人でありました。
他にも
第23代総理大臣清浦圭吾
池上競馬場の開設他に尽力した
加納久宜など
各界で活躍した人々も
大森山王に居を構えました。


大田区発展となった関東大震災

本格的な契機となったのが
1923年 (大正12年) 9月1日に発生した
関東大震災である。

都心部は壊滅的な被害を受け
人々は被害が少なく
まだ農村であった大田区へ
土地を求めました。


ターミナル化した蒲田駅

池上電気鉄道 (東急池上線)
目蒲電気鉄道 (東急多摩川線)も開通して
蒲田駅は交通の要衝となりました。


5.昭和期
羽田空港 (東京国際空港) 開業

1931年 (昭和6年) 8月25日
東京飛行場として開業しました。

日本初のCA

また東京航空輸送社はこの年
本山英子さん他2名を
日本初の「エアガール (客室乗務員) 」として
搭乗させたことでも知られています。


経済の荒波

昭和初期には
世界大恐慌の影響で
地域経済が打撃を受けました。


幻のオリンピック

1940年 (昭和15年)
第12回東京オリンピックが
開催予定でしたが、
日中戦争などの影響により
1938年 (昭和13年) 7月15日
正式に開催権を返上しました。


戦時体制に突入

工場地帯であった
大森・蒲田地域は
軍需工場へと
転用された施設も多く、
空襲の標的となりました。
1945年 (昭和20年) 4月15日
城南京浜大空襲をはじめとする
度重なる空襲により、
蒲田・大森地域は
壊滅的な被害を受け、
多くの工場や住宅が
焼失しました。
これにより
地域の産業構造は
大きく変化し、
戦後の復興と再編へと
つながっていきます。


6.戦後

1945年 (昭和20年) 9月21日
敗戦国となった日本は、
GHQによる接収のため
現在の羽田空港内にあった
穴守稲荷神社周辺に
住んでいた3,000人に対して
48時間以内強制退去
命じました。


海苔漁業の幕引き

工業化の進行により
水質は悪化の一途をたどり、
港湾開発も進んだ結果、
海苔養殖業者たちは、
1962年 (昭和37年) 12月
協定書に調印して
漁業権を放棄しました。
1963年 (昭和38年) 春
最後の収穫が行われ、
300年にわたって続いた
大森の海苔養殖
の歴史は
静かに終焉を迎えました。


念願のオリンピック開催

1964年 (昭和39年) 10月10日~24日
第18回東京オリンピックが
24年の時を経て開催されました。


東京モノレール

オリンピックの開催に伴い
1964年 (昭和39年) 9月17日
東京モノレールが開通。
羽田空港と都心を結ぶ
新たな交通インフラとして、
大田区の発展に
大きな役割を果たしました。


大企業の郊外移転

昭和40年代頃から
郊外へと移転していき、
跡地は主に
大型マンションが建設され、
地域の産業構造と都市景観は
大きく変化しました。


6.平成期

✈️ 羽田空港の再国際化

1998年国際チャーター便が再開。
2010年国際線ターミナルが開業、
羽田空港は再び
本格的な国際空港として
機能し始めました。
これにより大田区は
世界と直結する都市へと変化しました。


🚉京浜急行によるアクセス向上

羽田空港の再国際化に伴い
京浜急行は空港アクセスを向上させ
既存路線の利便性も向上し、
国際化を支える役割を果たしました。


🚉 羽田アクセス線構想

JR東日本による構想も具体し、
2028年を目途に計画が進められました。


🚉 新空港線 (蒲蒲線) 構想

東急多摩川線と京急空港線を直結する
新空港線 (蒲蒲線) の構想が具体化しました。
平成期は「計画段階」として位置づけられます。


🏭従業員数人の小規模工場

大正期から続く
工業地帯の名残として
大工場を支えた
小規模工場が
現在でも約3,500も点在し
町工場の街」としても有名です。

現代では、
有名製品のパーツ
供給する工場も存在し、
世界の技術を支える役割を
果たしています。


8.令和期

🚄 羽田空港アクセス線 (JR東日本)
2019年に環境アセスメントが開始され、
2023年には東山手ルートの工事が
着手されました。

東京貨物ターミナルから
羽田空港新駅 (仮称)まで
約5kmの新線を建設し、
2031年度の開業を予定しています。

東京駅から羽田空港までの
所要時間は 約18分と見込まれ、
既存の東京モノレールや
京急空港線を補完する
新たなアクセス路線となります。


🚉 新空港線 (蒲蒲線) 計画
羽田空港アクセス強化に直結する
大田区の未来的プロジェクト。
2025年に認可が下り
東急多摩川線京急空港線
接続工事が始まります。
開業目標は2038~2042年とされ、
羽田と都心を直結する
新たな交通インフラとして
期待されています。


大田区アラカルト

📏 面積と人口
東京23区最大の面積61.86㎢
人口約73万人
東京のベッドタウンとしての
役割を担う。

🚉JR大森駅
接続路線を持たない
単独駅でありながら、
東京都23区内
乗り換え路線のない駅」として
乗降者数1位を記録しています

♨️ 銭湯文化
黒湯に代表される銭湯は
23区最多の33軒

✈️羽田空港
旅客数5,981万人

着陸回数ともに日本一
世界で最も清潔な空港 (8連連続1位)
世界の空港格付けランキング3位
国際拠点となっています。


9.最後に

このようにこの100年で
急激な成長を遂げた大田区。
新空港線の完成により
国際都市化の未来
形作られていくことでしょう。

今後われわれは
大田区に訪れる
多様な人々を迎え入れる
「準備段階」
に入ってきています。
地域の歴史と文化を礎に、
未来へと歩み続ける
大田区の姿がここにあります。

こんな大田区に
あなたも立ち寄ってみませんか?

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出典
 Wikipedia 江戸蒲田氏
 大田区史 中巻
 Wikipedia 鈴木新田
 Wikipedia 穴守稲荷神社
 Wikipedia 麦わら帽子
 Wikipedia 大森駅
 大田区の歩み 大田区総務部広報課
 Wikipedia 大森貝塚
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