見出し画像

池田謙蔵(1844-1922)明治前期に農業ビジネスプラットフォームを築いた仕掛け人【第26回 農業維新! レジェンドたちが未来に遺した言葉】 著者:竹下大学


池田謙蔵肖像(『二倍収穫天理農法増補改版』出典:国会図書館)

農協の営農指導や農談会は、いつどこから始まったのか。

その系譜を遡ると、戦後始まったのではなく明治前期であったことに気づく。そして、池田謙蔵というひとりの実務家に辿り着く。

池田謙蔵は農商務省の官僚として、海外の農機具や新技術を日本に持ち帰っただけの人物ではない。重要なのは、その先である。導入した技術を誰に試させ、誰に伝え、どの場で改良し、どう現場に広げるか。そこまでを構想し、実際に人と場を動かし続けたところに、彼の本領があった。

儒学者でもあった松山藩士が、なぜ日本を飛び出し農の道に踏み出したのか。地方役人から官僚となり、官を辞した後も、広範囲な農業人ネットワークの結節点で活躍した池田謙蔵。彼の実学志向は、のちの農協にも通じる地域農業支援の原型を生んだ。今回は池田の仕掛け人ぶりを振り返ってみよう。


海外技術を導入するだけでは、農業は変わらない

池田謙蔵は1844年(弘化元)、松山藩士池田伴寛の長男として伊予国温泉郡二番町(現松山市二番町)に生まれました。実学を貫いて松山を救った朱子学者、三上是庵のもとで儒教を修めた後、謙蔵は1871年(明治4)からアメリカに留学しています。目的は、藩命による現地の農業事情・園芸事情の調査でした。アメリカ留学を終えた後は、その足でイギリスとフランスで見聞を広め、1873年1月に帰国。愛媛県庁で働きはじめました。

1875年(明治8)、謙蔵は内務省勧業寮に出仕します。ヨーロッパとアメリカの農業の両方について知っている貴重な人材として、旧松山藩士であった謙蔵にも、日本国の中枢で活躍する場所が与えられたのです。配属先は、内藤新宿試験場(現新宿御苑)の樹芸課。担当は農機具開発、下総牧羊場を開墾するための機械製造でした。

翌1876年、謙蔵は再び渡米することになります。この年開催されたフィラデルフィア万博に、万博事務局副総裁西郷従道の随行員として参加するため。また、日本代表の農業審査官としてです。

フィラデルフィア万博日本館(ニューヨーク日本人歴史館)

そして万博用務終了後には、アメリカ南部の精米・棉作(綿作)の調査や農機具の購入を命じられ、156種類も買い付けています。桃の缶詰製造まで学んだうえに、缶詰製造機を購入。帰国した1877年からこの缶詰製造機は、開拓使が石狩に設置した缶詰工場でサケ・マス中心に使用されました。なお、謙蔵が持ち帰った機具類は、その国産化を目的としていました。日本にゴムの木を導入したのも、この時の謙蔵が初めてです。

三田育種場を“農業イノベーションの交差点”に変えた男

帰国後、謙蔵は三田育種場に異動し、農具製作所長も兼任しました。1879年には前田正名(第24回記事参照https://note.com/farmbiz/n/n8c023ad9f9ff)の後を受けて三田育種場の第二代場長に就き、オリーブを導入しています。同年、分離独立した三田農具製作所のミッションは、輸入西洋農機具の試用・模製・改良、廉価な農具の普及でした。

1880年以降、謙蔵の仕事は新技術・新品種の導入から一段進んだものになっています。それが東京談農会や種子交換会の創設です。東京談農会は、小澤善平ら種苗業者たちによる共同農事会を起源としつつも、謙蔵の尽力によって役所、育種場、種苗業者、現場の農家が一つの場で交わり、知識と経験を交換する場として生まれ変わりました。1881年に始まった種子交換会も謙蔵の発案です。

1881年には、第2回内国勧業博覧会の開催に合わせて東京談農会を全国農談会に格上げし、同年4月の大日本農会設立では発起人のひとりを務めるなど、実務家としての活躍ぶりが目立っていきます。謙蔵は、三田育種場で定期的に農談会と種子交換会を開催し、三田育種場を単なる試験研究機関ではなく、国内の技術、品種、情報、人材が集まる拠点として機能させました。

第二回内国勧業博覧会機械館(国会図書館)

海外の新技術や新商品をありがたがるあまり、そのまま日本に移植しようとしてしまう事例は今でもあります。技術は、使う人・試す場・広める仕組みが揃って初めて価値になる。明治前期にその構造を身体で知り、ビジネスプラットフォームを構築していたところに、謙蔵の先見性が光ります。

ここから先は

3,154字 / 3画像

¥ 300

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?