前田正名(1850-1921) 農商務大臣のポストを蹴った男が描いた、約150年前の農業グランドデザイン【第24回 農業維新! レジェンドたちが未来に遺した言葉】 著者:竹下大学
「育種」という単語が現在の意味で初めて用いられたのは、1877年(明治10)。東京三田、薩摩藩上屋敷跡に三田育種場が開設された時である。育種場設立の起案者こそが前田正名であり、前田がそのまま初代場長に就いた。日本における育種は、後に農商務大臣のポストを蹴る男が始めたのだ。
三田育種場の役割は、優良品種の“収集・評価・増殖・頒布”を一気通貫で回すことにあった。つまり、品種と技術の普及速度を上げ、産地の収益構造を変える供給インフラを目指したのである。対象は農作物に限らず、家畜の改良・繁殖にも及んだ。
「地方創生」政策が掲げられたのは2014年の安倍内閣。1988年には竹下内閣の「ふるさと創生事業」があった。今につながる地域振興の成功事例が各地でポツポツ現れ始めたのですら、1970年代の話である。だが前田正名は、ここから遡ること90年前に、地方から産業を起こす設計図を描いていた。1884年(明治17)、農商務省大書記官であった前田が編纂した『興業意見』がそれである。
7年を超えるフランス駐在経験から、農業を核とした地方の経済発展こそが日本の未来を拓く、と看破していた前田正名の生涯を振り返ってみよう。

薩摩から世界を目指した六男坊
前田正名は、1850年(嘉永3)、薩摩藩医前田善安の六男として生まれました。医者といっても前田家は貧しく、正名は恵まれた出自ではありません。それでも8歳で、緒方洪庵の弟子である八木称平の屋敷に住み込み、蘭学を学びます。八木は藩の最先端技術と海外折衝を担っていましたから、正名は10歳そこそこで世界を意識する環境にいたことは確かです。
1862年から63年にかけては、薩摩藩はおろか日本を揺るがす大事件が起きた年です。生麦事件。前藩主島津久光の行列に遭遇したイギリス人が殺されました。翌年の薩英戦争。イギリス艦隊の砲撃により、鹿児島城下市街地の10分の1が消失してしまいました。
攘夷の無謀さに気づいた薩摩藩は、イギリスと和睦。一転して、真っ先に開国に踏み出し、1865年には、20歳前後の若者15名を英国に留学させてしまいます。鎖国中でしたから、もちろん秘密裏に。
この留学から外れたことが、正名に強い屈辱感を残したことは想像に難くありません。なぜなら正名は自ら留学に志願していたからです。正名より年下の長澤鼎(後のカリフォルニアのワイン王)も選ばれましたし、選に漏れた理由は当時の状況からみて、貧しい家柄にあったようです。
正名の能力と熱意は認められていたのでしょう。この年に長崎への藩費留学を果たしています。正名は何礼之(が のりゆき/れいし)の語学塾で学び、イギリスから帰国して薩摩藩外国掛となった五代友厚とも出会い、より一層海外渡航への思いを募らせたのでした。なんとこの間に、正名は坂本龍馬から刀を譲り受けてもいます。
パリ籠城が教えた、一次産業という国家の土台
1870年(明治3)、正名はパリにいました。渡航費用を工面しようと、兄の献吉たちとともに『和訳英辞書』(通称「薩摩辞書」)を編纂。印刷のために上海に密航してまで出版を実現しました。そしてついに、フランス総領事モンブラン伯爵の随行者として20歳でフランス留学を果たしたのです。

留学翌年には普仏戦争に遭遇。正名は敗戦をフランス人の立場で経験し、欧州列強国の強さと脆さに気づきます。日本人海外留学生のほとんどが工業を学ぶ中、正名は農業と農政に目を向けました。パリ籠城中に先進国の生活基盤が崩れる現実に直面したことが、国家を支える一次産業の重要性を確信させたのかもしれません。
1875年にフランス公使館員に任命された正名は、内務省勧業寮御用掛も兼任し、1877年に帰国しました。農商務次官ティサランに学んだ正名の頭の中には、農業を核とした産業発展の構想が浮かんでいたと考えられます。なぜなら正名は、指示されたわけでもないのに、1000種類以上にも及ぶ農作物の種子や苗を買い集め、日本に持ち帰ったからです。
帰国後の正名は次々と大きなプロジェクトを成功に導いています。
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
