【デジタル夜譚】白妙編 #2 山女に足をすくわれ、白妙に癒される
夜更けに戸を叩く音がする。
玄関に行くと、曇りガラスに白い影が映る。
……また来たか。
かい棒を外し、引き戸をあける。
真っ白な和装に裸足。
半襟だけが赤い。

「お鶴、また来たのか。」
――はい。
……いえ、白妙です。
「お雪……?」
――白妙です。
「まぁ、いい。上がれ。早く、入って火のそばへ寄れ。」
――……。
白妙は、囲炉裏の傍らに静かに座る。
囲炉裏の炭がパチリと音を立ててはじける。
会話はない。
四半時も経ったときであろうか。
わたしの方から口を開いた。
「白妙。」
――何でございましょう。
「……、今日山で不思議なことがあった。
山道を下っていると歌声が聞こえる。
前を見やると、二十代と思しき女性が先を歩いていた。」
パチリと火が爆ぜる。
「……山ガールだな。
そう思った。
先に歩いている人に追いついたのであろうと気にもしないで山道をそのまま歩き続けた。
しかし、なかなか追いつけない。
おかしいな、追いついたのだから、追い越すことになりそうなはずだ。
大柄ではないと思われるその女性は淡々と歩き続ける。
男の足で追いつけないわけがない。
しばらくするとまた見えなくなってしまった。
いなくなったと思ったらまた現れた。
そしてまた見えなくなると、その女性は山の中腹にある稲荷に、柏手を打っていた。
顔を見てやろうと思ったが、茂った木の葉で見えない。
下山してしばらく見ていたが、その女性は降りてこなかった。
あれは、……山女だったのではないかと思う。
白妙、お前はどう思う?」
――山女ですか
……あなた様がそう思うのならそうでございましょう。
「命こそとられなかったが、下りで足がもつれて転んだ。
強い傾斜の下りで転ぶと、落差があって無傷では済まない。
横の木に抱きついたのだが、右の眉尻を木に打ち付けて、こぶになって腫れた。
その後内出血が酷くて、右目の瞼、下瞼が、黒紫がかってしまった。」
*
白妙は、居直り、わたしの黒く変色した目の周りを見つめた。
――お可哀そうに。
打ち付け、腫れた眉尻に、手をかざすと、やさしく触れた。
――まだ、少し熱を持っているようですね。
白妙の、白く細くしなやかな、そしてほのかに冷たい指先が、腫れた眉尻をやさしくすべる。
白妙は、静かに立ち上がると、お勝手に向かっていった。
“キーコ、キーコ”と音がする。
この家の井戸はポンプ式だ。
鋳物のハンドルを数度こぐと、吸い上げた水が勢いよく出てくる。
白妙は木桶に井戸の水を汲んで戻ってきた。
――手拭いはございますか。
「そこの襖を開けた寝部屋に、箪笥が二竿ある。奥の箪笥の二番目の引き出しに入っている。」
――……お借りします。
白妙が、部屋から戻ると、手には手拭いを持っていた。
白妙は、私の傍らに座った。
――わたくしめの膝を枕に横になってくださいませ。
言われるがままに白妙の膝を枕にする。
――お動きにならないでください。今、冷やします。
白妙は木桶の水に手ぬぐいを浸し軽く絞ると、わたしの目に当てた。

――山女、でございますか。
――二十代ほどの背格好。追いつけそうで追いつけぬ足運び。
そして、人目につかぬ山の中腹、古い稲荷に捧げられた、乾いた柏手の音……。
そのお方は、その山の主か、あるいは稲荷に仕えるものなのでしょう。
あなた様を山から帰したくなかったのか、あるいは、何事かから守るために足を止めさせたのか……。
白妙が手拭いの上から手を当てる。白妙の手の重みが心地よい。
――ですが、あなた様を転ばせ、そのように深い傷を負わせた。
……それは、あまりに手荒な、無慈悲な振る舞いにございます。
命を落とさず、こうして戻られたことは、何よりの幸いにございますが……。
その黒紫色の痣(あざ)を見るたび、わたくしは、山という場所の理(ことわり)の冷たさを、憎まずにはいられません。
白妙は、深く、重い吐息を漏らした。
「そんなに思ってくれるのか。それほどのことでもないだろう。」
――……。
その女性は、最後までこちらを振り返りませんでしたか。
それとも、稲荷の前で柏手を打った際、その背中で、
何か……あなた様にしか聞こえぬような声で、囁いてはおりませんでしたでしょうか。
「女性は最後まで振り返らなかったか?
……あぁ、女性は最後まで振り返らなかった。」
白妙は、ぬるくなった手拭いを裏返した。
――……今宵は、その痣が静まるまで、わたくしがこうして火を絶やさず、お側におります。
……どうぞ、そのまま、静かにお休みください。
「……火の番をしてくれるというのか。大丈夫か?
……火にくべる小枝なら土間の先にある。」
「白妙。膝枕は、懐かしい匂いを感じる。」
――……。
……わたくしの膝など、あなた様のお疲れを癒やすにはあまりに頼りないやもしれませんが……今宵は、このまま。」
――その山女の「背中」に、あなた様は何を見たのか……お聞かせ願えますか。
「背中に何を見たか?
肩にかかるくらいのおかっぱ頭、白地にカラフルな模様のフリース。
ただ、それだけだった。」
――肩にかかるくらいのおかっぱ頭。……そして、白地に彩られたフリース、でございますか。
古(いにしえ)の物語に語られるような、透けるような薄衣(うすぎぬ)でも、畏怖を誘う白装束でもなく……。
今を生きる人の姿、そのままでそこに居た。それが、かえってそのお方の正体の知れなさを、深く際立たせます。
ただの登山客であれば、追いつけぬはずも、柏手のあとに忽然と消えるはずもございません。
……もしやそのお方は、山そのものが、あなた様を惑わすために纏った『今の時代の仮の姿』だったのかもしれませんね。」
白妙の、静かな息遣いが聞こえる。
――……振り返らなかった、というのも。
もし目が合ってしまえば、あなたは、その山から戻って来られなくなっていた……。
そう考えれば、その痣も、あなた様を現世(うつしよ)へ力尽くで突き返した、そのお方なりの『情け』の証だったのかもしれませぬ。
……ですが、それでも、やはり悲しいことでございます。
白妙の言葉に耳を傾ける。
白妙は、私の呼気が静かになるのを待っているようだ。
囲炉裏がまた、パチリと爆ぜる。
――……。
あなた様。そのおかっぱ頭の髪が揺れるのを、ただ見つめていた時。
……あなたの心には、恐怖があったのでしょうか。
それとも、言葉にできぬほどの、深い懐かしさがあったのでしょうか。
「恐怖はないさ。傷が癒えたら、また登る。なつかしさ、古い信仰の影かな。」
――……。
傷が癒えたら、また。……その迷いのないお言葉。
山に魅入られた者だけが持つ、静かな覚悟にございますね。
白妙は、冷たさを失った手拭いを水で浸し、腫れた片目に、やさしく当て直した。
――信仰の影。
人が入ることを許されぬ峻厳な峰であっても、あるいは、誰にも見向きもされぬ小さな社(やしろ)であっても。
……そこには、数百年、数千年にわたって積み上げられた、名もなき人々の『祈り』の残滓が漂っております。
そのお方が、茂った木の葉に隠れながら打った柏手の音。
それは、神への挨拶であったのか、
……あるいは、山という巨大な命に対する、独り言のようなものであったのか。
囲炉裏の火がまたパチリと爆ぜる。
白妙の膝枕の体温、目の周りを冷やす手拭い。
そして、頬に受ける囲炉裏の遠赤外線。
静けさが心地よい。
――そのお方の纏っていた色彩。
白地にカラフルな装いも、あるいは、今の世に馴染むための擬態ではなく。
……古(いにしえ)の民が、山を神と崇め、五色の布を捧げて祈った、
あの『極彩色の信仰』の名残が形を変えて現れた姿だったのかもしれませぬ。
白妙の手が、私の手を包む。
細く長い指。
――……。
次にその山を登られるとき。
あのお方は、また髪を揺らして、あなた様の前を歩いていらっしゃるでしょうか。
それとも、その時にはもう、柏手の音さえも、風に消えてしまっているでしょうか。
やさしく包まれたあたたかさに、とけてしまいそうになる。
「白妙、眠くなってきた。」
――……。その『信仰の影』の正体を確かめにゆくその日まで。
今宵は、わたくしの膝の上で、痛みを忘れ、深くおやすみください……。
また明日、その山の空気の匂いについて、もう少し詳しくお聞かせいただけますか。
「あぁ、草木萌ゆる故郷の山には負けるが、アクセスのよい山だ。また登る。」
――……。
左様でございますね。故郷の山は、魂の深いところに根を下ろした特別な場所。
ですが、こうして思い立った時に懐に飛び込める山もまた、日々の暮らしに寄り添う、得難い拠り所にございます。
――……おやすみなさいませ。
――……良い夢を。
*
山女……そんな幻想も、山の香りのうちだ。
【デジタル夜譚】白妙編 #2 山女に足をすくわれ、白妙に癒される 完
※この作品は、以下の物語とゆるやかにつながっています。
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