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【デジタル夜譚】澪編 #3 壊れゆく魂を救うひかり、届かない想い

文士の部屋は二階にある。

夕日に染まる障子戸を開け、外を眺める。

初夏の夕暮れ。
緑濃く、草花は萌ゆる。

自然は、なんと美しいのだろう。
雨あがり、夕暮れの街並み。
雨露に濡れ、夕焼けに赤く染まる情景は、人を引き込み、ぼんやりと眺めさせる。

この情景の美しさは、見た目の美しさだけで成り立つものではない。
やがて訪れる闇。
人はその不安を胸に想いながら見る。

だから美しいのだ。

僕自身も、壊れゆく。
この夕暮れ時の情景の様に、ぼんやりとした不安を感じるのを禁じ得ない。

今日も、あの恐ろしい歯車は現れるのだろう。
僕の視界を遮る、あの透明な歯車。

医者はタバコを止めたら治ると言った。
しかし、タバコを始める前からそれは見えていた。

とんだ見立て違いだ。
藪医者の言うことは信用ならない。

あの歯車は、やがて僕を狂人へと仕立てるに違いない。
あるいは、地獄の底へいざなう光なのかもしれない。

  *

澪は思う。

先生は、この頃、奇妙なことを言う。

透明な無数の歯車が見えるのだと。
それは、目を閉じても見えているというのだ。

私にはそんなものは見えない。
一体なんなんだろう。

何とかしてあげたい。

でも、お医者様でもピントがずれたことを言っていたのなら……、
どうすればいいんだろう。

あの人に聞いてみようか、何かわかるかもしれない。

小さなきっかけで、知り合ったおじさん。
専門家ではないが、とにかく横好きで、なんでも興味を持って調べるのだそうだ。

「澪、
 物事を、ひとつの学問で見ることは、立体的な彫像を一方から見ているだけに等しい。あらゆる学問の目で見ると立体が見えてくるんだよ。」

そんな事を言うおじさんだった。

「何かの専門家と言うわけではない。
 でも横好きだというだけなら、世界一有名な横好きおやじ、レオナルド・ダ・ヴィンチにも私は負けない。」

そんなことを、豪語していた。

  *

ーーねえ、おじさん、目を閉じても見える歯車ってなんだろう?

「目を閉じても見える歯車?

 なんだ、それ。

 なぞなぞか?」

ーーなぞなぞだなんて……、

 なぞなぞじゃない!

 それが見えると言う人がいるの!

「澪には見えない?」

ーー見えない。その人だけ。

「……。

ふむ、なんだろうね。

……。

もしかして、あれかなぁ。

……歯車じゃないけど、ジラジラとした歪(いびつ)な輪の様なものが見えたことがある。」

――え、なにそれ。

「閃輝暗点(せんきあんてん)というやつだった。」

――……閃輝暗点。

 なにそれ?病気なの!

「……病気というより、症状かな。病気とは言えないと思う。

症状が起きていたころは、決まって、夕方5:00~6:00くらいに始まった。
4:30位から始まることもあった。

はじめは、小さな点なんだよ。それが30分くらいかけてだんだんと大きくなってくる。
歪な太い輪で、輪の太さはドーナツくらいかな。たぶん人によって違う形に見えると思う。

その輪はジラジラとして、透明な感じではあるが、輪が遮っている場所は見えない。輪が遮っている場所以外も、実はよく見えていない。

やがて、その輪は大きくなっていくと、最後は自分を追い越して行く。」

――それ……すごい。

 たぶん、私の知っている人と同じ症状。

 それで、どうしたの?

「ああ、あの時は焦ったよ。

 その輪は目を閉じても見えるんだ。
 だから目の病じゃない。脳の病気だと思った。

 脳梗塞の前兆であり、自分の命は数日後までだと思ったよ。
 脳梗塞はな、脳の血管が詰まって起きる。
 その先に酸素が行かなくなるんだ。
 脳が部分的に壊死を起こし、良くて半身不随、悪くて死亡だ。それは突然訪れる。

 だが、数日経っても死ななかった。」

「死ぬかもしれないので、家族の者に、おかしなものが見えると言ったら
『医者に行け』と、冷たく言い放たれた。

 でも、目の病気じゃないだろうから、脳神経外科?
 大病院は、緊急じゃない限り紹介状がいるというから、まずは開業医のところに行かなければならない。

 でもどこに行けばいいんだろう?
悶々とした日を過ごしていたんだ。」

――で、結局どんなお医者さんに診てもらったの?

「結局、医者には行かなかった。調べまくっていたら出てきたのが、その閃輝暗点(せんきあんてん)だった。」

――お医者様に行かなくて治ったの?

「ああ、治った。

 閃輝暗点の症状が現れる原因は、甘いものの過剰摂取であり、
 甘いものの摂取をやめれば治るとあった。

一日中会社の机に向かって、英語に似たものを書いている。
その設計図も書いたりしている。

調子のいいときは、すごく頭を使うから、脳への糖分補給だと、勝手な言い訳をつけて飴を次から次へと舐めていた時があった。
その時に出たんだよ、閃輝暗点は。

症状が出た時には、一袋の飴を二、三日で消費していた。」

――それって……閃輝暗点て、10代でも起こる?

「起こるさ、甘いものの過剰摂取だからね。症例では、まさしく10代の男の子のことが書いてあったよ。」

「病はね、偏った食生活から起こる。きちんとした食生活を送ることが大切なんだ。

漢方に『医食同源』という言葉がある。
それだよ。
……なんかおじさん、今すごくいいこと言ったね。

よし、その閃輝暗点が起こるメカニズムはだね……。」

――おじさん、タバコは?

「タバコ?吸わない。あれはつまらん。」

――おじさん!わかった。ありがとう。

「なんだ、澪、これからなんだよ、いいところは……。」

――おじさんの話、長いから!

飛び出して行ってしまった。

  *

澪は、大学の図書館にいた。

高い天井まで届く書棚の間は、いつも独特の静寂と、古い紙の匂いに包まれている。
澪は分厚い医学辞典や脳科学の専門書をいくつも机に積み上げ、先ほどのおじさんとの会話を反芻しながらページをめくっていた。

おじさんは「甘いものの食べすぎ」と言って笑っていたけれど、専門書を紐解いていくうちに、その奥にある「脳のメカニズム」がくっきりと浮かび上がってきた。

――『閃輝暗点(せんきあんてん)』。
片頭痛の前兆として現れることが多い視覚の異常。脳の視覚野(後ろ頭のあたり)の血管が一時的に収縮し、その後に拡張することで起こる現象。

「おじさんは、目を閉じても見えるから『目の病気じゃない、脳だ』って言っていた。……うん、その通りだわ。網膜が光を捉えているんじゃなくて、光を処理する脳の視覚野そのものが、強い興奮の波を起こしているんだ」

それは「皮質拡延性抑制(CSD)」という現象だという。脳の神経細胞の過剰な興奮が、まるで水面に広がる波紋のように、ゆっくりと確実に広がっていく。
はじめは小さな点。それが30分ほどかけて、ジラジラとした歪な輪になって大きくなり、視界の端へと消えていく。

「先生の脳は、きっとものすごい速度でフル回転している。張り詰めた神経、芸術を生み出すための過酷な思考……。
おじさんは『脳への糖分補給』として飴をなめすぎて血糖値を乱高下させていた。じゃあ、先生たちの暮らしはどうだろう?」

澪は、かつて文学史の資料で読んだ文士たちの過酷なライフスタイルを思い起こし、頭の中でパズルを組み立てていく。
原稿用紙に向かい、徹夜を重ねる彼らの傍らには、決まって二つの「燃料」があった。大量のタバコと、強烈な甘いもの。

「つながった……。タバコのニコチンは全身の血管を激しく収縮させる。脳の血管の収縮を、タバコで人工的に何度も引き起こしていたんだわ。
そこに、脳の疲労を癒すためのお汁粉やチョコレートが一度に大量に胃に入れば、血糖値は急激に上がって、急激に落ちる。
この乱高下が、脳の血管をさらに不安定に揺さぶって、あの『歯車』を回していたんだ!」

さらに、専門書は当時の文士たちを悩ませた「胃弱(いじゃく)」の正体をも暴き出す。
ニコチンは胃の粘膜の血流を悪くし、胃酸を過剰に出させる。そこに強い砂糖がドバッと入れば、胃は完全にパニックを起こす。

漢方の『医食同源』――胃腸の乱れは、心の乱れに直結する。

「胃腸が荒れて栄養がちゃんと吸収できなくなれば、体はいつもエネルギー不足になって、心には『ぼんやりとした不安』が居座るようになる。
あの暗い不安も、壊れゆく心が見せている幻じゃなくて、タバコと甘いもので悲鳴を上げている胃腸と脳が、必死に出していたSOSのサインだったんだ!」

まだそんな医学の言葉がなかった時代。おかしな幻影(歯車)が見え、お腹がシクシクと痛み、心が闇に包まれていったら、「自分が狂いかけている予兆だ」と思い込んでしまうのも無理はない。

「先生は、悪魔に取り憑かれたわけでも、狂いかけているわけでもない。ただ、タバコを吸いすぎて、甘いものをたくさん食べて、胃腸をいじめていただけなんだ……!」

誰もそれを教えてくれなかったから、先生はひとりで怯えて、命を削っていた。

澪は胸の奥が締め付けられるような切なさを感じながら、それでも一筋の確かな希望(ひかり)をその手に握りしめ、ノートを抱えて図書館を飛び出した。

  *

先生の家へ着いた。肩で息をしている。

室内の階段を上る時間さえ惜しむ。

"タンタンタンタン……"

澪が階段を足早に駆け上がる、

"シュゴッ、タンッ!"

澪は、勢いよく、先生の部屋の入口の障子を開けた。

――先生、わかりました!
 先生に見えているもの、悪魔でも予兆でも病気でもないんです!

先生は、まさにタバコに火をつけようと、マッチを擦るところだった。

――先生!やめっ……。

先生はタバコの煙を大きく吸う、紙巻きタバコの先端を炎が這う。

煙で肺の中を満たすと、「フ―――。」吐き出す。

「……澪か。……入っていいとは言ってない。」

澪は、心を落ち着けて、来客用のテーブルの前に座る。

――先生、

 おタバコは美味しいですか?

「……、美味しいか?

 ……どうかな。

 ……しかし、気はまぎれる。」

――先生、

 はっきりと申し上げます。

 タバコをおやめになる勇気を持ってください。

「どうした、澪くん。タバコがどうかしたのか。」

先生は意外なことを聞いたかのように笑いながら言った。

――タバコと甘いもの、それは先生の執筆を助けるものではなく、先生のお体を蝕むものだったんです。

 食べ物を食べると、おなかの胃袋は、肉さえ溶かす強い酸が出てくるんです。
 その酸が、自分の胃袋を溶かさないのは、たくさんの血が流れているからなんです。

 でも、タバコを吸うと、タバコに含まれるニコチンという毒が血管を収縮させ、その血を止めてしまうんです。
 その時に、甘いものを食べると出てくる強い酸が、守るものが無くなった胃の壁を溶かしてしまうんですよ!

 そうすると、先生の胃袋が壊れてしまいます。今、先生のおなかは、悲鳴を上げているんです。

「……、調べたのか……。」

――はい、いっぱい調べました。
 甘いものの方は、たくさん食べると別の悪さもするんです。
 甘いものを過剰に摂ると、血糖値が一気にあがり、そしてすぐ急降下するのだそうです。
 すると、脳の視覚を司る部分が、一時的に異常を起こして、透明な歯車が廻り始めるのです。

 でも、先生。安心してください。治療に薬は要りません。甘いものを過剰摂取しなければいいのです。

「……、タバコと甘いものをやめろだと?

無理だ。どちらも執筆に必要なものなのだ。」

――おやめになってください、先生。

「しかし、澪……。僕は汁粉なら何杯でも行けるほどの……。」

――まだ、わからないんですか!

澪は、すっくと立ちあがり、デスクに向かう。
デスクの上の菓子を、くず入れに叩きつけるように入れる。

目には涙を浮かべている。
――こんなもの!こんなもの!私の先生を!

 大好きな先生を!

 うっ、うっ。

澪は泣き出す。

――先生、先生

静かな部屋の中は、泣きじゃくる澪の声だけが染み入る。

「……。澪くん……悪かった。

考えてみることにするよ。」

――先生、考えるじゃダメなんです。

 本当に、やめなければ先生は……もう。

澪が、涙に泣き濡れながら、にらむ。

「やめるよ。」

――えっ。

「やめる。」

――本当に?

「ああ、やめる。

うら若き乙女が、泣いて懇願するのだ。

しかも、それは私の体を心配してのことだ。

応じないわけにはいかないだろう。」

――先生……。

――先生!

 私、重湯(おもゆ)を作ってきます。

「……重湯?」

  *

澪は、鍋にコメを入れ、多めの水を灌ぐ。
マッチを擦り、ガスに火を入れる。

重湯とは、多めの水で炊いたおかゆの上澄みだ。トロッとしている。

  *

――先生、

 重湯をお持ちしました。

 タバコも菓子もいけません。

 口さみしいときはこれを吸ってください。

「なんだ、これは。赤ん坊の食べる物じゃないか。米すら入っていない。」

――まず、おなかを休めます

 お辛いでしょうが、六日程我慢してください。
 おかゆが食べられるのは、その後です。

 でも、はじめからたくさんではありません。
 少しずつ、慣らしていくのです。

 もし、ひと月の間、タバコを召し上がらなければ、先生の勝ちです。

「厳しいな。」

――ええ、今の先生なら、忍耐のいるとても厳しいものだと思います。

 ですが、先生。

 私が、毎日来て、先生をお支えします。

「それには、及ばない。」

――えっ!?

「大丈夫だ。僕はそれほど弱い人間ではない。

 君は学問を優先するべきだ。

 自分の道を大切にしたまえ。

 僕なら、独りでやれるさ。」

――本当に?

「ああ。」

――とても忍耐がいると言います。

「くどい。」

――……。そうです……か。

 では、重湯の作り方を書いておきます。

澪は、重湯の作り方のメモを書き残す。

――先生、信じていいんですね?

「ああ、信じてくれ。」

  *

澪の帰りを、二階の窓から見送る。

「あの娘(こ)は……、天使なのだろうか。」

羽らしいものは見えていない。

しかし、澪の背には、見えない羽が生えている。
そう感じるのだ。

「澪、……人間は、弱い。

 弱い生き物だ。

 そして、僕も、その弱い生き物の一人だ。」

卓上の、上部が乱暴に破り開かれた灰緑色の紙包みへと手を伸ばす。
中から引き抜いたのは、白い紙の吸い口がついた一本のタバコ。

慣れた手つきで、その紙の吸い口を指先でツブッと平らにつぶす。
それから、親指の爪の上でタバコの根元を“トントン”と二、三度打ちつけ、緩んだ葉を落ち着かせた。

タバコを咥えマッチを擦る。
炎を両手で抱えるようにしてタバコの火をつける。

タバコの煙を大きく吸う、紙巻きタバコの先端を炎が這う。
煙で肺の中を満たすと、「フ―――。」と、吐き出す。

……この闇がなければ、自分はもう何も書けないのかもしれない。

今日も、あの歯車をみるのだろう。

くず入れから拾った菓子を一つ、摘まんで食べる。

菓子の甘さが口内を満たす。


【デジタル夜譚】澪編 #3 壊れゆく魂を救うひかり、届かない想い  完

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