【デジタル夜譚】澪編#2 心にゆとりを失った創作者への手紙
澪が、地図を見ながら、住宅街を抜けていく。
胸が高鳴る。
自分が成長した姿を、恩師に見せるのって、こうもワクワクするものだろうか。
恩師と言っても、教鞭を取られたという関係ではない。
子供のころに、あがった奉公先で私はうまくいっていなかった。
誰も理解してくれなかった。
何をやるのかわからない。何がやれるかもわからない。
私は徐々に心を閉ざしていった。
でも、あの夜汽車の中、先生は、私の心を開いてくれたのだ。
そして、先生のすすめで教師になることを決意した。
*
暗い階段を上る。
高い天井には、弱い光の裸電球が一灯。
板張りの階段が、踏みしめるたびに、"キシキシ"と音を立てる。
ーー先生、澪です。
「入りたまえ」
ーーお邪魔します。
先生は、畳の上に置かれた、デスクに向かっていた。
振り返らない。
入り口近くの隅に座る。
正座をすると膝の上に手を置く。
Gペンが原稿用紙の上を滑る音がする。
“サラサラ、サラサラサラサラ”
煙草の香りが染みついた部屋。
嫌いなはずの匂いなのに、先生の香りだと思うと深呼吸したくなる。
……でも、空気は良くない。
ーー『窓を開けないと』
心の中で思う。
書棚には本が溢れている。
来客用の低いテーブルも、平置きされた本が積み上がっている。
「どうした。何か喋りたまえ」
先生の言葉が、沈黙を割いた。
先生は、背中を向けたままだ。
ーー先生、ご無沙汰しております。
「……」
Gペンの音は止まない。
数秒間の沈黙を置いて言葉が返る。
「あぁ、久しぶりだ」
Gペンの音は止まない。
時々、墨壺で墨が足される。
「聞こう」
こういう人なのだ。
これだけで、孤独を背負っている人だということがわかる。
ーー先生、私、学校に行ってます。
教育と、古典文学を学んでいます。
「教育か。
……私も以前、海軍機関学校で英語の教師をしていた。嘱託だ」
先生が、背中を向けたまま答える。
「古典文学。……なぜ、それを学ぶ」
ーー先生の作品には、古典文学を題材にしたものもありますし、そうでなくても、どこか、古典文学の気配を宿しています。
「……」
ーー私、先生の作品が大好きなんです。
先生の作品の文体が好きです。
小説はとても短いですが、緻密に計算されています。
滅多な小説家では到底辿り着けない、溢れんばかりの語彙力。
どこか突き放したような世界観
そして、女性が出て来ない作品でも、どこかに女性がいる。
「よくみている」
「古典文学を好む。
……ならば、地獄や三途の川をどう思う」
――地獄や三途の川ですか!?
「古典文学では、よくモチーフにされている。問いを絞ろう、三途の川だけでいい」
――三途の川。
仏教における、現世と冥土を隔てる川のことです。
生前の業によって、渡る場所が三つに分かれることから、
その名がついたと記憶しています。
善人は橋を、軽い罪の者は浅瀬を、重罪の者は深瀬を……。
それから、川の辺りには衣類を剥ぎ取る老婆がいるとも。
「教科書的な解答だ、そんなことは訊いてない。
問うているのは、その川の『深さ』だ」
ーー深さ、ですか?
重罪の者が渡る深瀬は、波が高く、
底に届かないほどの深さだと古典にはありますが……。
「あれは、水の深さではない、人間の『業』の深さだ。
三途の河は、死者が渡るものではない。
生者が、死者を渡らせる。
残された者が、故人を想う。
あの人は善人だったから、きっと橋を渡ったろう。
あの人は罪深いから、今頃濁流に呑まれているかもしれない。
河のせせらぎは、生者の「罪悪感」と「未練」の音なのだ。
古典に描かれる地獄や冥土は、どれも驚くほど人間臭い。
あれは、死後の世界ではない。
現世の、人間の心をそのまま写した鏡なのだ。
『今昔物語集』を読みたまえ。
あそこには、川を渡れずに立ち尽くす人間の、
泥臭いエゴイズムが溢れている。」
――古典文学は、人の「業」をステレオタイプで観ていると思います。
古典文学は、仏教説話の影を宿しています。
その世界観は、どこか向こうの世界から現世を眺めているように思えるのです。
古典文学を学ぶ私ですが、人は、それぞれの世界で美しく生きています。
現実世界において、「業」はそれほど深く感じなくても良いと考えます。少なくとも私は、そう考えています。
「美しい?
違う。人間というものは、どこまでも愚かしいものなのだ。
私みたいな者は、愚かな人間の極みだ。ただの阿呆者だよ」
――先生
三途の川は、深み、浅瀬、橋の上、三通りの行き方があるとのことです。
私はこの「行き方」を、「生き方」と解釈します。
深みを渡ることは確かに危険です。しかしそれを乗り越えれば強くなる。
楽な道は安全です。しかし、それを渡る者は苦難にも弱いことはあるかもしれません。
ですが、それぞれの生き方について貴賤はないのです。
むしろ、他人の生き様を見て、揶揄する側の人間こそ、エゴのかたまりなのではないでしょうか?
「……三つの『行き方』を、人間の『生き方』と、読み替えるか。
面白い。そういう考え方もある」
先生は、筆を止めると、やっとこちらを振り向いた。
『人の心を見透かす目』
先生の眼光は鋭かった。
「ならば、三途の川の川幅の広さを、どう思う?
仏教における、業を負うものが渡る三途の河の川幅だ。決して狭くはない。」
ーー川幅、ですか。
……説話などでは、数百里とも、あるいは気の遠くなるような広さとも言われます。
霧に煙って、向こう岸など到底見えないような……。
でも、もし「業」をそれほど重く捉えないのだとしたら、
その広さは、決して人を絶望させるためのものではないと思います。
現世の記憶をなだらかに忘れていくための、
一種の「猶予」のような、優しい距離のようにも思えるのです。
「君の言葉は白百合だ。
茎が折れれば、容易に泥にまみれてしまう、
危ういほどの純潔さだよ。
川幅がそれほどまでに広いのは、
人間が「他者の世界」へ渡ることが、それほどまでに困難だからだ。
君は、ひとはそれぞれの世界で美しく生きていると言った。
それは正しい。
人間は誰しも、自分だけの美しい主観の城に籠もっている。
だが、それは裏を返せば、
我々はみな、自分の都合の良い世界しか見ようとしない、
冷酷な利己主義者(エゴイスト)だということだ。
一歩その城を出て、他者と真に理解し合おうとした瞬間、そこに横たわるのは、底の知れない精神の断絶だ。
三途の川の広さは、人間と人間の間に横たわる「絶対的な距離」なのだよ。
互いに自分の世界から出られず、
相手の岸へ辿り着くこともできない。
ただ、煙る霧の向こうに、幻影のような他者を見ているだけだ。
美しく生きるということは、
どこまでも孤独であるということだ。」
*
――『……先生は、今地獄の中にいる。』
そう感じた。
役者が役に飲み込まれるように、この人も地獄を描くうちに地獄の中に生きてしまっている。
表情や言動に余裕が感じられない。
――先生……、執筆の方は順調でしょうか。
「突然何を……。頭の中は書きたいことばかりで溢れている。書ききれないくらいだ。書きかけの原稿が溜まっている」
……書きかけの原稿が溜まっている。
あらためて部屋の中を見ると、数行書いただけで大きくバツを引いた原稿用紙があちこちにある。
先ほどは、自分を阿呆者だと言った。
今度は、書きたいことが溢れていると言う。
自己否定と自己肯定が短い周期で切り替わる。
とても危険な状態であることが感じられる。
自己表現として筆を執るのは良い、だが、筆に追い立てられることは決して良い状態ではない。
*
「では、いよいよ、地獄の話を……」
――先生!
先生の話を遮った。
先生の言葉が宙に停まる。
厳しい目を向けられる。
「……ほう」
短い沈黙が、二人の間に流れる。
「私の話を遮るとは……。言いたまえ、何を言いたいのかを」
――先生?
お疲れになっているのではありませんか。
先生がとことんまで、真理を追究される性分であることは容易に想像できます。
ですが……、それは、精神的に良いものではありません。
お部屋の空気が悪いようです。
窓を開けましょう。
書斎の障子戸、雨戸を開ける。
デスクの上のランプの灯りが唯一の光だった部屋に、外の光が差し込む。
湿った部屋の空気が、日の光に照らされた新鮮な空気に入れ替わっていく。
「……まぶしいな。」
――お茶を、煎れてきましょう。
炊事場に向かう。
古い炊事場
マッチを擦り、ガスコンロに火を入れる。
湯を沸かし、トレイに、湯とお茶、急須、湯呑を持って戻る。
先生は、開けた窓のヘリにもたれ、腕組みをしていた。横目に外の景色を眺めている。
畳に座ると、トレイを傍らに置く。
静かな時が流れる。
「……。」
先生がこちらに目を向ける。
「……何をしている。微笑んでいるだけでは、お茶は入らない」
――頃合いを待っているのです。
「……頃合いとは」
――えぇ、先生。先生の家のこのお茶は、少し高級な煎茶ですよね。
約50〜60度で入れるのが美味しいのです。
熱すぎるお茶は、うまみを感じません。
頃合いを待ち、あえて、静かな時を過ごすことが心を穏やかにするのです。
手を休めてください。先生。
静かな時が流れる。
鳥のさえずり、新緑がすれる音、風の匂い。
先生の心もほどけるといいのだが……。
――さぁ、入れましょう。
二つの湯呑に、少しずつ交互に入れる。
一方の湯呑に注ぎ終わってから、次の湯呑ということはしない。
「私なら、一方を満たして、他方をとする」
――それがいけないのです。
一方だけを満たせば、他方に注ぐべきものが足りなくなることもあります。
心配りもそれに似ているのではないでしょうか。
それに……。
「それに?」
――こうした気遣いを見ると、待つ側の心も和らぐのです。
さぁどうぞ。
湯呑に注いだ、お茶をテーブルに差し出す。
*
――さぁどうぞ。
澪の声掛けで窓辺を離れる。
来客用のテーブルを挟み、澪の向かいに腰を下ろす。
双方の湯飲みには、同じ量の茶が注がれている。
差し出された茶の香りを楽しみ、口に含む。
目を閉じ、甘みと、渋みを味わう。
『……澪の言うとおりだ』
心に想う。
澪は湯呑を、左の手のひらに乗せると、右手を添えて茶を飲む。
少女の美しい姿が貴かった。
澪が立ち上がり、窓辺に向かった。
――いい風です。
やわらかい風に澪の髪がそよぐ。
澪の声が心地よい。
「まぶしいな。」
澪が振り返る。
――まぶしいですか?
「あぁ、まぶしい」
まぶしいのは、外の光だけではなかった。
……澪、やさしいひかり。

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