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麺タリスト、ラーメンを妄想する

 ラーメンは日本食であるというと、驚く方がおられます。中華料理じゃないかと。その気持ちはよく分かりますが、中国にラーメンはありません。ラーメンのルーツは中国ですが、まぎれもなく日本で生まれた料理です。

    これはカレーライスも同じです。カレーのルーツはインドですが、日本のカレーはそれとは別の料理です。これらはカテゴリーとしては日本食に含まれます。今やカレーとラーメンは国民食と言われるほど愛され、嫌いな人を探すのは難しいとさえ言われます。

    そこで、今月はラーメンのルーツからラーメン誕生の歴史、ラーメンの未来を妄想しようと思います。尚、ラーメンの起源については、邪馬台国の所在地よりも多くの説があると言われていますので、この記事はあくまでも、いつもの通り筆者の私的妄想です。


拉麺(lā miàn)

 中国で「麺」は小麦粉を面状に伸ばしたものを指し、薄く延ばして包む皮を「麺皮」、線状になったものを「麺条」と呼びます(地域によって違う場合があります)。その麺条の一種に拉麺があります。

 拉麺は明代(1368年~1644年)に現在の山東省で誕生したと「中国麺点史」にあります。山東省では早くから、内モンゴル地区の鹹湖(=塩湖)の水と準強力粉で「コシ」の強い麺を作っていました。これが日本で言う中華麺です。鹹湖の水はアルカリ塩水溶液で、小麦粉に混ぜるとグルテンの弾力性を強力に引き出します。いわゆる「かん水」ですね。コシが出ると同時に小麦粉が薄黄色に発色し、風味も独特なものになります。この拉麺が日本のラーメンのルーツであると、筆者は考えます。

山東式拉麺

 拉麺には二つの系統があります。ひとつは起源となった山東式です。この拉麺は、鹹湖の水を加え、両手で引き延ばし、半分に折りたたんで二本が四本、四本が八本と、だんだんに細く伸ばす、手延べ麺です。拉麺の「拉」は引っ張るという意味なので、まさに手延べであることが拉麺の絶対条件なのです。山東式では一度に15人分ほどの麺ができるので商売用の麺として重宝されました。

蘭州式拉麺

 もうひとつは、黄河流域の蘭州に、山東省からおよそ250年前に伝わった蘭州式拉麺です。蘭州は内陸で、元々はシルクロードの商隊に加わっていた遊牧民の街です。彼らはトルコ系ウイグル族で、イスラム教徒なので食事のしかたや食品に様々な決まりごとがあります。そのため、調理に関しても厳格な規律があり、まとめて15人分というような作り方は許されません。必然的に一人前ずつの手延べになりました。

    基本的な作り方は山東省と同じですが、鹹湖の水の代わりに、現地のヨモギ科の草を燃やした灰を煮て作るアルカリ水を使い、麺をのばすときに植物油を塗ります。

    ちなみに、蘭州式拉麺は牛骨スープで食べるのが決まりです。イスラム教徒は豚を食べないからです。余談ですが蘭州式拉麺が新疆ウイグル自治区のウルムチに伝わり、「ラグマン」という麺料理になりました。「ラグ」は引っ張る、「マン」麺で、手延べ麺である特徴を引き継いでいます。

南京そば

 明治維新後、交易のために多くの中国人が来日しました。彼らは貿易港があった長崎、神戸、横浜に住み着きました。それぞれの街で中国人が住む地域は南京町と呼ばれて発展し、本場の中華料理が食べられることから大人気になります。そこで売られていた麺料理を日本人は「南京そば」と呼んでいました。南京そばは手延べの蘭州式拉麺で、この時点ではラーメンではありません。

らーめん事始め

   話しは変わりますが、日本で最初にラーメンを食べたのは徳川(水戸)光圀であるというのが通説になっていますが、それは間違いだと思います。

    巷間では『 明から亡命した儒学者の朱舜水から中華麺の作り方を教わった光圀が、自ら麺をこねて家臣にふるまった 』と言われているので、少し掘ってみました。

水戸光國

   光國初めて説は、江戸時代の僧侶の日記に登場すると言われています。それによると、『 元々、光圀は麵好きで、1665年頃、うどんを自ら作って、明からの亡命儒学者・朱舜水(1600~82年)をもてなし、逆に朱舜水は光圀に、レンコン澱粉を使った平打ち麵と、豚肉の塩漬けで作ったスープのラーメンをふるまったとされる 』だそうです。

本当に光圀なのか?

 しかし、実はこれは水戸藩ラーメン会による光圀初ラーメン説です。誠に失礼ながら、筆者は少し違う考えです。

 水戸の徳川博物館に陳列されている、明の儒学者・朱舜水しゅしゅんすいが、江戸時代に来日した際に書いた『朱氏談稿』には、光圀がふるまったのは餃子や餛飩わんたんのほかに冷淘(冷し麵)、温麵、索麵であることが記されています。これらはいずれもラーメンではなく、うどんや素麺に近いものです。よって、日本で初めてラーメンを食べたのは光圀ではないと、筆者は思います。

   『日本で初めて◯◯』という逸話は空海が最も多く、次いで役行者えんのぎょうじゃ(役小角)、そして徳川光圀ではないかと思います。この三人の共通点は日本全国を旅したということです。だいたいのことは、この三人のせいにしておけば納まりが良いというものです。

   史実としては、光圀は旅をしておらず、配下が旅をして調べたことを光圀が編纂したのですが。

うどん、素麺、ラーメン

    そもそもラーメンとは何か?  という疑問があります。うどん、素麺、ラーメンの違いが法的にハッキリと決められている訳でもありません。もちろん、JISやらJASやらで決められた規格はありますが、それはあくまでも商業規格です。食文化として 昔のうどんとラーメンの違いを明文化するのは難しいので、そもそも日本初ラーメンを決めることに無理がありそうです。

志那そば

 脱線しましたが、話を戻します。

   明治の中頃になると、東京で南京そばを真似た屋台の流し売りが見られるようになります。これは日本人が始めた商売で「支那そば」と呼ばれました。

    支那そばと南京そばとの違いは麺です。当時の日本人には蘭州式拉麺の手延べ技術はありませんでした。日本人にとって手延べ麺は「そうめん」の技術であり、それは一般人に簡単にできるものではありません。そこで思いついたのがそば・・うどん・・・のように作る切り麺でした。

手延べ麺と手打ち麺

    手延べ麺であるか、手打ち切り麺かは、ラーメンに限らず、麺類全般にとって重要なファクターです。

    手延べ麺は、生地をねじりながら同一方向に伸ばすので、グルテンが麺線に沿って縦方向に揃います。縦方向に揃ったグルテンは麺線の長さと同一で網目らせん状になります。そのため、切れにくく、コシが強いので、断面は丸く、つるつるした舌触りになります。

   手打ち切り麺は、麺棒で横方向に伸ばすので、グルテンが横方向に伸び、網目放射状になります。コシは強いですが、包丁で切るので断面が平らになり、グルテンが寸断されるのでシコシコした食感になります。

   手延べ麺と手打ち切り麺は、双方ともコシがあるのですが、そのコシの質が違います。言葉では表し難いのですが、手延べ麺は歯を弾き、手打ち切り麺は歯を受け止めるとでも言えばいいでしょうか。

   両者は、作製時間や手間などで一長一短であり、最終的にどちらが美味しいのかは好みの問題となります。しかし、どちらでも同じということでは決してありません。したがって、日本人がはじめた手打ち切り麺の支那そばは、手延べ麺の「南京そば」ではなく「支那そば」なのです。ここでようやく日本のラーメンの原型ができましたが、麺だけではラーメンとは言えません。ラーメンは麺とスープなのです。

清湯

 伝統的な拉麺のスープは清湯(qīngtāng)、もしくは牛骨スープです。清湯は鳥ガラや豚骨を煮出し、酒と塩の味付けで、ものすごくあっさりしたスープです。とてもシンプルなスープなので、現在の拉麺は高湯(gāotāng)もしくは上湯(shàngtāng)と呼ばれる金華ハムと丸鶏、牛肉、豚肉などで作る高級清湯で作ることが多いようです。

    ところが、伝統的に鰹節や昆布、煮干しで出汁をとってきた日本人には、獣骨のスープは敷居が高いものでした。屋台の志那そば屋は色々と試行錯誤したようなのですが、大正時代になってようやくひとつの方向性が見えます。

ラーメンスープ誕生

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