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(旧中山道アート旅) 『加納宿』 を歩く

↓の投稿のとおり、長良川うかいミュージアムに行ってきた。

うかいミュージアムに行っただけでは(さすがに)加納宿を学んだことにはならないと思い、中山道は加納宿の宿場町通り跡地にも行ってみることにした。

中山道
「(中山道六十九次)加納/歌川(安藤)広重」


本陣跡地周辺から東(江戸・鵜沼宿 方面)に
歩いてみることにした。

ちなみに写真に縦に写っている通り(国道157号)が旧中山道ではない。
この通り(国道157号)に横切って交差する生活道路みたいな細い道が旧中山道である。

【参考】国道157号

国道157号 (google mapより)



中山道 加納宿案内図

中山道 加納宿案内図


中山道加納宿当分本陣跡 / 明治天皇御小休憩所跡

(旧中山道では明治天皇がご休憩された至るところで
記念碑が設置されているのだ。)

「当分本陣(とうぶんほんじん)」とは、江戸時代末期(幕末)に中山道などの宿場で、本陣や脇本陣だけでは宿泊しきれないほど大名や通行客が激増した際、臨時に「当分の間」本陣として定められた有力者の家や建物のことらしい。

なぜ明治天皇が本陣ではなく、そのようなところでご休憩されたのか? 私には見当がつく。
明治政府により廃藩置県が実施され、『大名』なる役職も『参勤交代』なる制度も日本からなくなってしまった際に、どの宿場町も『本陣』から先に潰れていったのだ。
(時代の流れは残酷だよね。でも変わりよくのは世の常だよね。)

本陣は天皇のおつかいである勅使や、公家、大名、公用で旅をする幕府の役人などが宿泊するための施設です。本陣だけに宿泊できないときに、予備にあてた宿舎が脇本陣です。
本陣と脇本陣は一般の旅籠屋と違い、特権として門、玄関、書院を設けることができました。
本陣は宿泊施設の中でもっとも権威のあるもので、今で言えば高級旅館といったところでしょうが、特定の身分の人だけが宿泊できたというのはあくまで原則であって、時として一般旅行者が宿泊することもありました。しかしこれも頻繁に宿泊させるというわけにはいかなかったようで、経営的には苦しかったようです。

(国土交通省HPより)

(ただし、『本陣』はもともと経営が難しい商売(宿泊施設)のようでもある。)


・元和六年(1620年)から旧中山道に続く、うなぎ/会席料理屋さん

うなぎ屋さんの駐車場の一部
(他にも駐車場はあった。繁盛店なんだね!)
駐車場にも、(読めないほど)古びた立て札
(そして、その下には読めるようにした看板)があった・・
家並みこそ戦火で失われましたが、加納宿の道幅と二文字屋の商号は今も昔の姿を止めております。」・・・
という結びの文章

何と美しい文章なのであろうか?
うなぎ屋さんの、この文章に感動してしまった。
(いつか、ここでうなぎを食べてみたくなった)

そうだ!
そのとおりなんだ!

心がドロリと溶けても、意外とやり直せるものだ。
やり直すっていっても別に失くなってしまうわけじゃない。
たった1つの輝きを失ったように感じても、実は形が変わっていくだけなんだ。
(しかも加納宿の旧街道の道幅は変わらなかったのだ)


中山道加納宿まちづくり交流センター

中山道と加納宿について学ぶことができる。
加納宿は、江戸時代には加納城の城下町でもあった。
城下町の宿場町は、加納宿が中山道では唯一のようで
大変栄えたようだ。
現在の岐阜駅周辺の街(岐阜市の市街地)の基になっている。
現在では加納城のごく一部が加納城跡地として残っている。

【加納城跡地の具体例】
小学校、幼稚園、中学校、公園(加納公園)、岐阜地方気象台などである。

加納城は、大阪城の豊臣氏に備えるために、徳川家康が自らの縄張りとし、本多忠勝に命じて築いた城である。(1602年築城)
すぐ近くには織田信長が築いた岐阜城があるが、徳川家康の命により廃城となっており、岐阜城を解体した材料を用いて、築城された。
そして城主には、長女の亀姫の娘婿の奥平信昌が10万石で入城。幕末まで5代にわたり譜代大名が統治した徳川系の城である。 
(※長篠の戦いにて、織田・徳川連合軍が到着するまで武田軍に対し長篠城で籠城戦をされていた方である。)

大手門跡地については、碑(いしぶみ)が設置されている。

大手門(おおてもん)とは、日本の城郭における正門(表門)のことだ。城郭の正面を「大手(あるいは追手)」と呼び、街道や城下町に直結する最も重要で格式高い出入り口として機能した。防衛上の要であると同時に、城の威厳を示すための象徴的な建築でもある。

高札場跡地については、碑(いしぶみ)が設置されている。

高札場(こうさつば)とは、江戸時代を中心に、幕府や藩がだした法令や禁制(お触れ)が書かれた「高札」を掲示した公的な掲示板のことだ。人通りの多い宿場の中心、街道の分岐点(追分)、橋のたもと、名主の家の前などに作られた。

あまりに有名な広重の、この浮世絵の詳細な場所は
加納宿の東の外れのようだ。

加納城がチラっと写っているので宿場町通りの東端かとは思ったのだが、もっと東のようだ。
写っている加納城の角度で、場所を特定できるらしい。

大変栄えた加納宿にしては景色があまりにのどかでは? と前から疑問に思っていたので、『東端』ではなく『東の外れ』という解説には説得力がある。

・(加納城)大手門跡地

・(加納宿)高札場跡地



中山道の宿場町は直線ではなく「桝形」であるため、カクカクと進む。

中山道における「桝形(ますがた・枡形)」とは、街道を直角に2度曲げて「鍵の手(クランク状)」にした道路構造のことだ。主に軍事的な目的で宿場町の出入り口(見通しを悪くして敵の侵入を遅らせるため)に設けられた。

【桝形の主な役割】
軍事的な防御:見通しを遮ることで、外敵が一気に本陣や宿場中心部へ攻め込めないようにしました。
大名行列の調停:大名同士の行列が宿場内で鉢合わせして衝突するのを防ぐ「目隠し」としても機能しました

(中津川市HPより)
加納城の堀にもつながる水路
水路の橋からは金華山が見える。
山頂には(現代に復元された)岐阜城!

先述のとおり家康の命で岐阜城は解体され、材料は加納城に使われた。

水路
岐阜の市街地だからなのか
水路を渡ると急にタワマンのような建物が見える。
右に曲がれば、中山道を東(江戸/鵜沼宿 方面)へ進める。
そのまま直進すれば、長良川/御鮨所へ行ける
御鮨街道(別名:鮎鮨街道)だ。

名鉄の車両が走っている踏切の向こう側が御鮨街道である。

ぎふ道(御鮨街道)
中山道
少しだけ御鮨街道を北上し歩いてみる。
少しだけ東(右)で高山本線と東海道本線が合流した
JRの高架線路があった。(走行中の車両も写っている。)

西(左)にはJRの岐阜駅。
岐阜駅より西は東海道本線は中山道に沿っているのだ。東海道本線なのに中山道・・


現代の名鉄の加納駅~茶所駅 の区間は中山道と御鮨街道が重複している。

ちなみに『茶所』という地名の由来も中山道 加納宿における休憩所からきているのだ。
(加納宿では宿泊しない(江戸時代の)旅人も、加納宿で休憩できたんだね!)

御鮨街道とは、長良川の鵜飼(うかい)漁で入手した鮎を、尾張藩が取り仕切る御鮨場(加納宿)でナレズシに発酵・調理し名古屋まで運ぶための道である。
道程】長良川 → 加納宿 → 笠松の問屋 → 一宮の問屋 → 清須の問屋 → 名古屋




ありがとう。加納宿!

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