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"批判より対案を"は本当に反省になっているか

最近メディアに登場する立憲民主党議員(中道議員・落選者含む)が、
口々に
『批判だけでなく建設的な対案を示さなければいけない。』
といったような、先日の衆議院選挙に大敗したことに対する反省の弁を述べることがある。

しかし、何か引っかかる。
国民民主党の主張する『対決より解決』に引っ張られているのだろうか?
もしくは、SNS上の批判ばかりの政党という評価を表面的に受け止めているのだろうか?

僕は、批判の論法が間違っているとずっと思っていた。

ただ、この言語化ができないままモヤモヤしていたところ、
昔ダウンロードした曲がiTunes(←今は名前が違うらしい)から流れた。

その歌詞が、ああこの論法が苦手なのだと感じたのだ。
ちなみに、この曲を批判したいわけではないし、
流れる思想を断罪したいわけでもない。

ただ、この論法が苦手な要素をたくさん含んでいるなと感じた。
※本稿での議論は、あくまで歌詞や感覚を通じて整理した「論法の特徴」に関する考察であり、特定の議員や政党の公式発言を証明するものではありません。

あるフェミニストが言った2000年間ひっくり返す時が来たぜ
戦争好む男バカどもの家庭守ったのもあなたのおかげ
だったら平和がやってくる日々もそうそう遠くはないはずだ
全ての人とそれを願い祈ることがここで今できたなら
(争いごとは全ていらなくなるんだそれをこの目で早く見たい)
(いまだに科学者たちはこれを証明できてはいないけど)
(だって心は目に見えてないんだ昔から今もずっとずっと)

Quality of life/Def Tech

Def TechのQuality of lifeという曲の一部分である。
歌詞のみを取り出すと強烈だ。
しかし、曲として聞くと耳心地がよく、かっこいい。
当時、Def Techは名前が知られるや否や、
創価学会の学会員であることが指摘され批判する方もいた。

僕は創価学会って何?というくらいの認識だったので、あまり気にしていなかった。ほかの曲は好きなものがたくさんあった。

それでも、この曲の歌詞がはっきり聞こえた時、
当時も、どこか違和感を覚えたように思う。

ただ、反体制側からの発信はロックバンドなどにはつきものだ。
そこまで歌詞を見返して、評価しようという気持ちにはならなかった。

しかし、聞き直した時に歌詞に強烈な違和感を感じ、
なぜなのか?ということを考えた結果、
導入で言った
立憲民主党議員(中道議員・落選者含む)の批判の論法が間違っている
と感じていたことの要素がほぼ詰まっていると感じた。

ということで、今回は
この歌詞の持つ論法の苦手の部分、
それでも曲としては持っている価値、
そしてその論法が政治的な議論に用いられた場合の違和感、
について整理していきたいと思う。



■僕が違和感を覚える論法

①「あるフェミニスト」

👉 権威の借用

  • 誰かは不明

  • でも“思想的に正しそう”な存在を引用
    → 自分の責任を軽くする


②「2000年ひっくり返す」

👉 スケールの誇張+単純化

  • 歴史を一言で処理

  • 複雑な構造を“ひっくり返す”で済ませる→ 内容より勢いを優先


③「ひっくり返す」

👉 行為の誇張が本来の意味を失う

  • 平等を目指す→地位を逆転させる

  • 言葉のインパクトを重視


④「科学者は証明できていない」

👉 責任転嫁

  • 科学を持ち出す

  • でも検証は他人任せ→ 主張の裏付けを外部に置く

  • そもそも、科学はそれを証明するために存在しない


⑤「戦争好きの男バカども」

👉 原因の人格化(単純化)
👉大きな主語

  • 構造問題を『属性』に還元→ 分かりやすい敵を作る

  • 大きな主語により、男ー女の対立構造をつくる


まとめると

この歌詞の構造はシンプルで:
👉 権威・スケール・科学・敵キャラ
を使って、
👉 「強そうな主張」を作っているが、主体の責任が見えない


違和感の核心


👉 『すべて外部に依存していて、自分が何をするのかが示されていない』
👉『主張は“正しそうに見える構造”になっているだけで、検証可能な主張にはなっていない』


→おそらく当時一番気になっていたのは、科学者という単語だった。
なぜ、科学者があなたの主張を証明するために人生をかけなければいけないのか、理系の大学に通っていたのでこの違和感は大きかった。
この人任せな論調が苦手だなと思って、今回改めて歌詞を見返してみると、他にも気になる部分がこれだけあることに気づいた。


■問題提起のフェーズ


ここまで示してきたように、この曲が好きなわけではない。

ただ、曲として価値がないかというとそうではない。

共感を求め、問題提起するという価値が音楽にはあるからである。
また、フェミニストという単語もそういった界隈以外では周知されていない時代だったかと思う。
強い言葉を使って問題提起するということに一定意味はあると思っている。
この曲が、もし批判されるようなことがあったとしても
それも、問題が批評の俎上に上がったということでもある。


とここまで考えてくると、過去に書いたある記事を思い出した。

AbemaPrimeなどの番組で議論しているリベラルな方々が、
論説上あまり説得力を持てていない。
そんな状況を何度も見ているうちに、思想は変えずにどうやったら
対等に議論できるのだろうか、という仮想のディベートをしてみたのである。
フェミニストになりきって議論しているうちに、
なんとか対等な議論に見せて終わらすためにはどうしたらいいか考えていた。
そして結論として、
これは問題提起のために意図的に強い言葉を使った。
問題提起という意味は果たせたと思う、
と締めた。

要は、このような強い論調でする言説は問題提起のフェーズでは一定の意味があるかもしれないが、これを議論のフェーズに持ち込んでも建設的な議論にならないということだ。




■政治議論のフェーズ

以上のように、このような論法を議論のフェーズに持ち込むという混同が見られると、僕はアレルギー反応を示す。

ここまでは、問題提起です。
実際は、さまざまな考え方の方がいる中で一番問題なのは……

と続けてくれれば、急に興味のある話が始まるなという感覚を持てる。

この辺の意識がないと、これ以上聞いても同じ言説をちょっと言い換えるのを延々と見ることになることが多い。

これが、僕がずっと批判の論法が間違っていると感じていたことの正体だった。
あくまで自分の中で腑に落ちた整理にすぎないが、
同じような違和感を持っている人もいるのではないだろうか。

“強い言葉”は入口としては有効だが、出口にはなり得ない

このフェーズごとの論法の整理が本当に重要なことではないだろうか。
口をついて出る反省の弁が、スタンプで押したように
批判ばかりというご指摘を真摯に受け止めて…..というのは残念である。






○追記

同じように「フェーズの混同」が起きた例として思い出したのが、
「#ママ戦争止めてくるわ」をめぐる議論だった。

個人の発信としては強い問題提起だったものが、
政治的に消費された途端に、対立構造を強化する言説へと変質してしまった。

この点については以前まとめているので、興味があれば読んでいただければと思う。


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