学校での自由研究というやつは、言葉で言うよりも自由ではないのだな
夏休みの宿題というテーマが、
note上で話題になっているところを見て思い出したことがある。
夏休みの自由研究というものが、昔から少し苦手だった。
いや、正確に言えば、自由研究が嫌いだったわけではない。
むしろ、僕は研究そのものが好きだった。
もしかすると、「いや、全然自由じゃないじゃん!」
と思っていたのかもしれない。
小学生の頃から、何か新しいことを知るのが好きだった。
だから、せっかく「自由に研究していい」と言われたのなら、
まだ自分が知らないことを調べてみたかった。
実験してみて、予想して、結果を見る。
もし予想と違ったら、「なぜだろう」と考える。
当時の僕は、それが研究だと思っていた。
だから、当然のように失敗もした。
いや、失敗しかしなかった。
そして、その失敗について一生懸命考えた。
研究の大部分が、失敗の考察だったと思う。
今考えれば、その考察にも、もう少しまともな知識を入れられただろう。
けれど当時は、足りない知識の中で、しっかり考えたという記憶がある。
当然、自由研究の評価はあまり高くなかった。
ただ、子どもの頃の僕は、それがどうにも納得できなかった。
僕は、学校の授業でまだ習っていないことでも、わりと知っていた。教科書を読むのが好きだったので、授業で扱っていない先のページまで読んでいたからだ。
そのため、他の子がやっている自由研究を見て、
「それ、もう知ってるんだけどな」と思うこともあった。
もちろん、知らない人にとっては新しい発見なのだから、それを調べること自体に意味がないとは思わない。
ただ、評価の高かった研究が、僕には要領のいいものに見えたことも確かだった。
おそらく、それは三か月後くらいに授業で習う内容だったからだ。
少なくとも僕にとっては、「研究して初めて知ること」ではなかった。
僕がやりたかったのは、もっと自分にも答えが分からないことだった。
だから、失敗する。
そりゃそうだ。
小学生が、自分でも答えを知らないことを、十分な知識も道具もない状態で実験するのだから。
今なら、それが失敗する理由くらい分かる。
実験条件が適切ではなかったり、そもそも測定方法が悪かったり、考えている因果関係そのものが間違っていたりする。
でも当時は、そんなことは分からない。
ただ、「思ったようにならなかった」という結果が出る。
僕は、それが面白かった。
なぜこうなったんだろう。
何が悪かったんだろう。
別のやり方ならどうなるんだろう。
もう一度やったら、結果は変わるんだろうか。
そんなことを考える。
だから僕にとっては、「失敗した」ということ自体に、ちゃんと意味があった。
むしろ、予想どおりの結果が出るより面白いくらいだった。
僕の最大の失敗研究は、
「植物が二酸化炭素を吸うというのなら、炭酸水をあげ続けたら、そのほうがよく育つに違いない」
というものだった。
しかも、条件を合わせなければならないと考えた僕は、
日光を遮断して比較した。
まだ、光合成という概念を知らなかったのだ。
それなのに、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を出すという知識だけは、テレビか何かで知っていたのだろう。
知識が、ちょっと偏っていたのだと思う。
当然、実験はうまくいかなかった。
植物は元気に育つどころか、日光を遮られ、炭酸水を与えられ続けて、弱っていった。
今なら、この問いの立て方がかなり雑だったことは分かる。
ただ、当時の僕は雑な問いを立てたつもりなど全くなかった。
そのとき持っていた知識から考えれば、それなりに筋の通った仮説だったのだ。
問題は、その「それなりに」の中に、僕がまだ知らない前提が大量に抜けていたことだった。
僕の研究は、
「うまくいきませんでした」
から始まった。
その後に、
「なぜうまくいかなかったのか」
を延々と考えている。
教師からすれば、評価しにくかっただろうと思う。
「こういう結果になりました」
「予想と同じでした」
「実験して、○○ということが分かりました」
という研究は、きれいにまとまっている。
一方で僕の研究は、失敗した結果と、その理由についての考察が中心だった。
その失敗が何を意味するのかも、書いた本人にしか分からなかったかもしれない。
そこまで読んで考えてもらわなければならない。
学校という場所で、そこまで求めるのは難しい。
今なら分かる。
小学生の自由研究として求められていたのは、おそらく「未知の発見」ではない。
授業で習ったことを使って、自分で調べてみる。
その過程で、実験の仕方や調べ方、まとめ方を覚える。
そういう学習だったのだろう。
だから、教科書に出てくる内容を少し発展させた研究が評価される。
それなら、教師が評価しやすいのも当然だ。
何をやっているのか分かる。
どういう結果になるのかも予想できる。
どこを評価すればいいのかも分かる。
僕がやっていたような、
「成功するかどうか、自分でも分かりません」
という実験は、採点する側からすれば面倒だ。
しかも失敗している。
失敗した理由を考察していても、その前提となる知識や、仮説に至った経緯までは分からない。
そこまで読み解かなければならない研究は、学校の課題としては扱いにくかっただろう。
今なら、それくらいのことは分かる。
でも、小学生の僕には分からなかった。
というより、分かっていても納得できなかったと思う。
だって、「自由研究」なのだから。
自由にやっていいと言われた。
だから、本当に自由にやった。
自分が知らないことを調べた。
失敗した。
その失敗について考えた。
なのに、それよりも「すでに知っていること」をきれいに調べた研究のほうが評価される。
僕からすれば、
「じゃあ、自由って何なんだ?」
という話だった。
たぶん、このあたりから僕の性格はあまり変わっていない。
僕は昔から、「みんながやっているから」という理由だけでは、なかなか納得しない。
必要だと思えば覚える。必要だと思えなければ、別の方法を考える。
学校でそう教えられたから、ではなく、自分の中で意味が通るかどうかを一度考えてしまう。
自由研究でも同じだった。
「習ったことを調べる」のではなく、「まだ知らないことを調べる」。
「正しい結果を出す」のではなく、「なぜ失敗したのかを考える」。
当時の僕は、それを普通のことだと思っていた。
もちろん、大人になった今なら分かる。
小学生が未知のものを研究して、本当に新しい発見をするなんて、そう簡単なことではない。また、僕のように知識が偏ったまま立てた仮説は、教師から見れば、ふざけているように見えたかもしれない。
学校教育においては、すでに知られていることを自分で確かめることにも、大きな意味がある。
むしろ、基礎を学ぶためには、そちらのほうが大切なのだろう。
だから、あの頃の自由研究の評価が間違っていた、とまでは思わない。
ただ、だからといって、当時の僕が納得できなかったことも、間違っていたとは思わない。
僕はあのとき、
「失敗したことにも意味がある」
と思っていた。
そして、その意味を分かってもらいたかった。
でも、そこはほとんど見てもらえなかった。
だから、今でも覚えている。
自由研究で失敗したことではない。
失敗したあとに、自分なりに一生懸命考えたことが、研究として評価されなかったことを。
たぶん僕にとって、あの夏休みの自由研究は、「研究とは何か」を知る経験だったというより、
「自分が面白いと思うことと、他人が評価することは、必ずしも同じではない」
ということを初めて知る経験だったのだと思う。
今となって振り返れば、自由研究の評価は、教師にとって簡単なものではなかったのだろう。
理系ではない先生方も多かっただろうし、先ほどの僕の研究例のように、生徒がどんな前提から仮説を立てたのかまで分からないのが普通だと思う。
ただ、今でも思う。
自由研究なんて、そんな楽しそうな名前をつけるな。
課題研究とかにして、テーマを何個か最初から提示してくれ。
でなければ、教科書の先取りだけは禁止にしてくれ。
そうすれば、優等生は図書館に行って、他の題材を探すだろう。
それは、教科書の先取りよりはよっぽど立派な研究だと思うからだ。
……まあ、そんなことを考えている時点で、僕はやっぱり、ちょっと面倒くさい小学生だったのだろう。
と、ひとしきり思い出について考えていたところで、自由研究が今どうなっているのか調べてみたら、結構様変わりしているみたいである。
……これは、ちょっと面白い。
せっかくなので、今の自由研究については、また別の記事で考えてみたいと思う。
こんなキット売ってるんですね。炭酸水いっぱい買わなくてもよかったのか….
→自分の面倒くささについて考えた記事はこちら。
→意味のある失敗について、強く感じた時の記事はこちら。
→自由について考えてみた記事はこちら。
『地球での自由落下というやつは、言葉で言うよりも自由ではないのだな』
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