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国歌で比較する国民性(日本・フランス)


国歌に見る国民性

今回は、国歌で比較する日本とフランスの国民性について。国歌というのは、国を代表した競争ごとや争い事、それから祭事の類で集まった際に歌われるもの。その時、全員が国に帰属しているという前提になる。なので当然、その国の国家観というものが現れる。
意外と知られていないが、その意味で日本の君が代は、かなり個性的な国歌だ。たった32文字という、世界最短の歌詞に込められた宇宙的な時間軸の壮大さ。大抵の国の国歌はもっと軍歌っぽいものがほとんどで、演奏も賑やかだ。

ジャスティスの名の下に首を切るフランス

フランス人にとって、帰属の核心は「怒り」だと思う。国民が集まる時に歌われる国歌にそういう事は現れる。2024年のパリオリンピックは、散々だった。特にオリンピックの開会式の悪趣味さが世界中のブーイングを呼んだ。中でも王女の生首から血が吹き出す演出が有名だが、これはフランス共和国の国歌に書かれている内容であることをご存知だろうか?要約すると、
圧政と外敵が我らの国を汚しに来る──奴らは血に飢えた暴君だ。
自由と祖国を守るために、市民よ武器を取れ。戦い、相手の首を切れ、
その血で大地を染め、正義と共和国の名のもとに未来を切り拓こう。
すごく物騒だが、これがあの<おフランス>の国歌だ。
王権を打ち砕いたフランス革命の記憶、それによって自由を勝ち取ったという物語。その象徴として、国歌「ラ・マルセイエーズ」の中では、陽気で優雅な旋律の裏に「敵を殺すだけでは飽き足らず、その首を切って血に染めよ」と叫ぶ歌詞は大真面目なのだ。
この「敵」とは自由・平等・博愛を拒む者、すなわち国民が連帯すべき怒りの対象である。
マクロン大統領がロックダウンを宣言した時の有名な台詞
「我々は戦争中である。ただし、相手はウイルスだ」
にも、その精神性は表れている。今日のフランス国民の大半は彼を完全に敵視しているが、この時は一旦はこれで落ち着いた。だが度重なるロックダウン、ワクチン摂取の有無による高度な行動制限などにより、すぐにデモが頻発し始めた。街のあちこちが燃えたが、そう言った過激な場面は局地的なもので、大抵は祭りのようなものだ。ただし、この時期のパリのデモは本当に激しく燃えた。市民は祭りに飢えていたのだ。ここでいう祭りというのは、パーティではない(ちょっとそういうところもあるにはある)。崇高なものも、恐ろしいものも渾然となって出てくる祭り、リスクがある方の共同体としての祭りだ。
まずはレピュブリック広場に集まる。デモ隊の横にはホットドッグ屋がいて、長い隔離生活で人に飢えた老若男女が友人と再会のハグ。ビール片手にラ・マルセイエーズを歌う。銀行や高級ブランド店は壊されるので、機動隊は容赦無く市民に武器を使う。市民は機動隊の催涙ガスにモロトフカクテル(火炎瓶)で応酬し、寒くなればゴミを燃やし、帰りにバーで目を洗ってまた乾杯する。ロックダウンの時期は、<壊し屋>が銀行の書類を外に持ってきて焚火をしていた。結構フランスは環境のことにうるさいくせに、デモがある度にCo2を排出させるのが好きな国だ。
そのようなわけで、大真面目にデモは無宗教社会における<祭り>そのものなのだ。理性の名の下に暴力を振るうというこの矛盾も、また神話のようである。フランスの国民の団結は、この「義憤を軸とした帰属」だ。

君が代は軍歌か?

君が代は質素、荘厳、詩的。君が代の君の部分を全て天皇の為、と解釈すると軍歌的な意味合いを帯びるが、国民主権の現在、僕はこれを天皇と国民の相互関係を表すと解釈している。
昔は陰気臭い、暗い国歌だと思っていたが、他国と比較する事で、国歌としては非常に上品な部類に入ると考えるようになった。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで
千代に八千代に」は未来永劫。「さざれ石」は小石が長い年月をかけて一枚岩となったもの。その上に苔がむすまでの気の遠くなる時間は、宇宙的なスケール感だ。
つまりこの歌は、「日本という共同体は、もともとバラバラの小宇宙である人々が結び合い、永遠に持続していく」という祈りを表す。小石一つ一つがすでに神であり、神々の多様性を前提とした調和。戦いや支配ではなく、融合と静謐のビジョンだ。外来文化を取り込み、独自のかたちに昇華してきた日本的進化のあり方でもある。そしてそれを支えるのは、<国家権力>ではなく地域に根ざした<神話>だ。

僕は故郷に愛着があるが、この歌と日の丸と共に国家の為に命を捧げるなんていうことは絶対にしない。故郷の景色はすぐに思い出せるけれど、<日本>なるものの景色は見た事がないからだ。

多神教の本質は、一人ひとりが神であり、それに恥じない生き方をするものだと理解している。これは、自己を鍛錬し、内側の神性を啓いていく、グノーシス主義的な考えと極めてイコールではないかと思っている。現代の日本では「人に迷惑をかけてはいけない」という緊縮な発想が中心だ。だが、同じ多神教のヒンズー教徒は「人に迷惑をかけて生きているのだから、他者の迷惑も許しなさい」と考えるらしく、僕はこちらの方が、より昔の日本に近かったのではないかと想像する。
すごくどうでもいいが、僕は君が代を聴くと何故か抹茶の粉のかかったお菓子みたいなのがが頭に浮かんで、苦い飲み物が欲しくなる。

二番の比較はさらに面白い

フランス国歌<ラ・マルセイエーズ>は7番まであるが、二番の冒頭の歌詞が非常に興味深い。
Que veut cette horde d’esclaves,
De traîtres, de rois conjurés ?
Pour qui ces ignobles entraves,
Ces fers dès longtemps préparés  意訳すると
何を望むのだ、この奴隷ども、
裏切りと陰謀に結んだ王たちよ。
その卑しい鎖は、誰を縛るためか、
遠い昔から仕組まれてきた鉄の枷は。

のような感じだろうか。ここでポイントは、権力者に従う市民を奴隷と表現していることだ。そして裏切りと陰謀の王たちというのは、まるで今日でいうディープステートのことのようである。堕落した国家の言いつけを守るという事は、卑しい奴隷の精神性であり、糾弾されるべきだということを歌っている。今の日本に少しでいいから分けて欲しい精神性だ。堕落した政府のいう、古臭くなった決まり事は刷新して行って欲しい。

正式な場で歌われる事はないが、君が代にも二番、三番(そしてどうやら四番まで)が存在している。三番以降に関しては詳しくないので、ここでは和歌山県の熊野速玉大社に飾られていた二番に関して、少し紹介して終わりたい。

君が代は 千尋(ちひろ)の底の
さざれ石の 鵜(う)のゐる磯(いそ)と
あらはるるまで

海底にあるさざれ石が、浅瀬に磯となって現れるまでこの世の中が続きますよう。というような意味だが、この歌詞の横に説明書と共に大きくて立派なさざれ石が飾られていた。
『このさざれ石は、不思議なことに二番の歌詞の如く令和二年二月二日、突如熊野灘の海底から、新宮市王子が浜海岸に打ち上がり発見されました。この大きさになるまでは数千万年の歳月を要します』
だそうだ。二番のように、令和二年二月二日(2222=エンジェルナンバー)に発見されたというところがポイントだ。そしてこの日は、西暦2020/2/2でもある。本当なのだとしたら、どれだけオカルトなの!?嘘だとしてもどれだけオカルトなの!?という、フランスの国歌と比較したときに、全く次元の違う世界線に生きていることが分かる。
僕は個人的に、この熊野速玉大社の説明書きが大好きだ。

二番を比べてみると、フランスは「権力に媚びる奴隷根性を断罪し、怒りを燃料にして団結する」精神を歌い、日本は「石や苔や海底にまで永続の祈りを託す」静謐を歌う。国歌の二番は、まるで国家の潜在意識のように、その共同体が何を信じ、何を憎み、何に未来を託しているかを映し出している。
ただし、君が代に込められた意味合いが<藤原家の血がいつまでも続くよう>という願いが込められているのなら個人的にそれは興醒めである。でもちょっとそんな感じもするのだ。



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