見出し画像

東方へ流れたミトラの影は善光寺?


ミフルという名の道すじ

ミトラは西へ渡り、ローマの兵士の結社を通じてミトラスとなった。
だが彼の名は、東方でも長い旅を続けている。
ペルシア語では「Mihr(ミフル)」、インドでは「Mihira(ミヒラ)」として記録され、人名や部族名にも刻まれた。恐らくこれはミトラ信仰を中心とした共同体だ。現代イランの秋祭り「メフルガーン」も、この名を受け継いでいる。
伝承では「ミフル人」がフェニキア人の一部と交わり、地中海交易の中に溶け込んだとも言われる。また一説によると、これがエブス人=恵比寿と同一であるとされている。
もしそれが事実でなくとも、「Mihr」という響きが交易の海路を通じて西へと消えていったことは確かだろう。
同じ頃、中央アジアのステップでは遊牧民の旗や貨幣に「Mihira」の名が刻まれていた。ひとつの名が西と東の両方向に伸び、海と草原に散っていった。

契約神と未来仏の交差

リグ・ヴェーダに登場するミトラは「契約と友情」を司る存在だった。
インドにおいてはやがて太陽神スーリヤと重なり、天空を照らす秩序の神と見なされた。
その意味が「慈しみ」として仏教に取り込まれると、サンスクリット語の Maitreya──未来に現れる仏、弥勒菩薩となった。
未来に必ず救済があるという約束。これは「契約を守る神」の変奏と読める。言ってみれば仏教福音派なのかもしれない。
ペルシアでは王が「アフラ・マズダーとミスラの名によって統治を正当化する」と碑文に刻んだ。
インドでは民衆が「未来に必ず弥勒が現れる」と信じて祈った。
異なる文明が、それぞれの形で「約束」を神聖視していたのだ。
クシャーナ朝(1〜3世紀)はその媒介地だった。インド・ペルシア・ギリシャの文化が交錯する王国で、コインには「Mihira」の名が堂々と彫られている。
この同じ時代に、ガンダーラの仏教美術が花開き、弥勒菩薩が微笑む石像が作られた。
僕にはその重なりの中に、古代の契約神が未来仏の姿に衣替えしていく瞬間が透けて見える。

中国と日本に届いた残響

弥勒信仰はシルクロードを通って中国へ伝わった。後漢の時代にはすでに弥勒経が翻訳され、未来に下生する仏として広まっていった。
唐代には密教やマニ教とも響き合い、「光」「契約」「再生」というミトラ的要素が別の姿で混ざり込んだ。マニ教の祭儀には「光の契約」が強調され、同時代の弥勒信仰にも「未来に必ず救われる」という約束の響きが濃厚になっていく。
日本では飛鳥時代に弥勒信仰が伝わり、法隆寺の弥勒半跏思惟像の姿に結実する。
そして長野の善光寺──暗闇の回廊を進み光に触れる体験を与える寺。これとゆかりのある寺が同じ県内、東信地方の小諸市にある。牛に惹かれて善光寺参りの出発地である。釈尊寺(通称・布引観音)という、修験道の寺で八世紀の建立だと言われている。これについては別記事で紹介するが、この断崖絶壁に建てられた寺への道中にある洞窟が善光寺へと繋がっていると考えられていた(善光寺まで約60kmの距離があることを考えると現実的とは思えない)。
牛と光、地下と再生。七年に一度の戒壇巡り、洞窟。この構造はミトラ教の秘儀とどこかで重なって見えてしまう。古代から西洋の秘密結社あるところ、必ずと言っていいほど洞窟と地下回廊が出てくる。ミトラ教もその例外ではない。
善光寺の戒壇めぐり。暗闇の中で<錠前>を探り当てる瞬間、それは「未来に必ず光がある」という約束を体で交わす儀式のように思えた。
東方に流れ着いたミトラは、すでに仏の姿をまといながらも、その<契約>の骨格を保っていたのではないか。



ミトラは西で血と犠牲を通じて再生を語り、東では慈悲を通じて救済を約束した。
ひとつの名が二つの東西で違う姿に枝分かれしながらも、そこに共通して響いているのは「光」と「約束」である。


いうまでもなく、西方のミトラ教と善光寺では全く別物だ。だが、象徴として共通しているものが見える。そしてこれらを繋ぐのが聖徳太子。謎の多き、古代ペルシャ臭がプンプンにするこの聖人の伝説は善光寺と釈尊寺共に刻まれている。
→次回、善光寺、聖徳太子、古代ペルシャの密儀



いいなと思ったら応援しよう!