ゾラ『テレーズ・ラカン』
私は『テレーズ・ラカン』で、性格ではなく、体質 tempéraments を研究しようとした。この本のすべては、この点にある。あくまで神経と血にもてあそばれる人物を選んだ。かれらには自由意志はない。その日その日の行為は、いつでも宿命的な肉体の本能に左右されている。テレーズとローランは人獣 brutes humaines であって、それ以外のなにものでもない。
体質がもたらす宿命の物語
テレーズとローランの情念と恐怖が渦巻く物語。こういったことを描く小説は、たいてい登場人物の心理に焦点をあて、その状態や移り変わりを叙述することが多いですが、ゾラは「体質」にもとづいて書いたといいます。
感情の起伏が激しいとか神経質といった生来の体質が、登場人物の感情や行動のすべてを統御する── 心理描写が等閑視されているわけではないものの、ゾラにとっては内面のダイナミクスよりも、体質のいわば化学反応に弄ばれる人間の行動、外側から観察できる動きのほうが最大の関心事のようです。当時(1867年に出版)としては、ずいぶん斬新で挑発的な作品だったのではないかと思います。
それにしても、ゾラの描写力は凄い。テレーズと夫のカミーユ、ローランの三人でパリの郊外サン=トゥアンで舟遊びをする場面は、迫真のサスペンスを映像で観ているようですし、テレーズとローランが再婚してから最初に迎える夜の寝室は、エドガー・アラン・ポーさながらのゴシック・ホラー空間ではないでしょうか。小説後半、最終局面に至るまでのプロセスにやや冗漫な印象を抱いたものの、19世紀フランスを代表する作家の初期作品に十分にふさわしい小説だと思います。

***
薄汚ないパリの裏街。単調な日々を送る無気力なテレーズだったが、彼女の身体を流れる淫奔な血はやがて激しくほとばしらずにはいない。夫の友人を見る彼女の目は暗く輝いた。ゾラはこの小説を「感覚と行為の記録」として「外科医が死体にほどこす解剖」のように書いたという。自然主義文学への第一歩をしるす記念すべき作品。
エミール・ゾラ『テレーズ・ラカン』小林正訳(岩波文庫)
Émile Zola, Thérèse Raquin, 1867
エミール・ゾラ Émile Zola, 1840-1902
小説家。パリ生まれ。自然主義小説の第一人者。夫殺しを主題にした処女作『テレーズ・ラカン』(1867)によって作風を確立。『実験小説論』(1880)で科学的決定論を小説創作に適用することを宣言した。バルザックの『人間喜劇』に対抗して、19世紀後半のフランス社会を描こうと、二十有余年をかけて近代の一大叙事詩『ルーゴン・マッカール叢書』(20巻、1871-1893)を執筆。ドレフュス事件ではドレフュス無罪を主張した。主要作品に『居酒屋』(1877)、『ナナ』(1880)など。
(『読んで旅する世界の歴史と文化 フランス』新潮社)
