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夫が手渡した、理解するんじゃない感じる昭和の本

「この本読んでみて、感じるよ、すごいよ」

ニヤニヤした顔の夫の手にはカバーが外れた文庫本がある。本はヨレヨレできっとお風呂で読んだに違いない。タイトルは「バラッド30曲で1冊」。作者は片岡義男。出版は角川文庫。昭和62年発行。パラパラとページをめくると、どうやら短編小説が集められた本で、添えられている写真は今のご時世ではありえないすべてカラーだ。エモさもエッジさもないただただ目の前にあるものを撮ったスナップ写真が随所に差し込まれている。

「僕が高校生の時に読んでいた本。この世界がかっこいいと憧れて過ごしていたんだよ」

私は目次を見ながら、「バラッドが30曲ってことは、30個のお話ってこと?でも、目次には30個ないよね」と不思議そうに伝える。

「そおおいうことじゃないんだよぉおおおおおお。感じるんだよおおお」

いきなり夫は地団駄を踏み出した。彼の夏の家着の装い、白のタンクトップに黒のハーフパンツでジタバタする姿を見ながら、背景に昭和の田園風景が浮かび上がってくるのを感じている。今のところ本には何も感じていない。

「バラッド30曲で1冊っていうのは、そういう雰囲気のこと!バラードじゃなくバラッドって言っちゃうあたりが、この本の世界観なの!」

バラッド30曲分を感じる短編小説集とは想像つかない。そもそもバラードを30曲あげてみろと言われても思いつかない。バラッド30曲分の濃密な世界観とはどういうものなのだろう。

目次を読んでみると、「ベッドが三つある部屋」「これはメロドラマ」「ブルーの選び方」と並んでいる。私は編集者としてエッセイを書きたい人に伴走しているわけだが、「こういうタイトルはnoteでは読まれにくいですよ」とついつい言ってしまいそうなものばかりだ。純粋に作品を楽しめない自分がなんだか悲しい。

「読んでいるとね、時代を感じるし、登場人物の仕草にかっこよさを感じるし、こんな大人に憧れるんだよ。今みたいにすべてを理解するんじゃなくて、読みながら感じる話なんだよ。昭和の文学には、そういう趣があるの。おもしろいから読んでみて。」

夫はそう言いながら、ほれっと私に文庫本を手渡した。

夫は14歳も年上なので、ジェネレーションギャップがよく発生する。とくに青春時代に摂取したカルチャーはまったく違うけれど、私にとっては新しい発見や創作の種になるので、触れるようにしている。

仕事の休憩中にいくつか読んでみる。

一つの場面の情景描写が描かれるだけの短い小説だ。その場所の詳細や車の種類、服装、登場人物の仕草などが事細かく描かれいるので、自然と昭和の時代を感じることができる。男女の会話もトレンディードラマのような、SNSで「このドラマの設定ありえない」とお叱りを受けるような、キザなシーンと言葉が繰り広げられている。

そして一番不自然なのはこの小説を語る主人公が不在なことだ。誰の目線で語られているのだろ。場面の描写と登場人物の会話だけでなりたっている。語っているはずの主人公の感情はいっさい存在しない。というか、語る人は主人公ではないのだろう。読んでいる私は感情をどう処理していいか分からない。それでも、どう感じているのか、頭で言葉にしてみる。

「理解するんじゃなくて、感じろ」。夫が言っていたことの意味が分かってきた。物語の世界を感じる、自分がどう感じているか言葉にしてみる、文章を読むうえですごく大切なことだよな。

今のご時世では万人に親しまれる本ではないかもしれない。「結局は、なんの話しだったの?」で終わらせてしまうのだろうか。それはもったいないのかもしれない。感じるだけの文章、私も書いてみたい。

この本がすでに絶版になってしまって、Kindleでしか買えないのも、なんだか世知辛さを感じてもったいない。そして、この本を何十年も大切に持ち続けている夫がうらやましいし、この人を好きになってよかったなと思う。

※Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。

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