丁寧な暮らし、ってなんだろう。
昔、
「丁寧な暮らし」というものに憧れた時期がある。
コーヒーを豆からひいてみたり、
お菓子を焼いたり、
おしゃれなハーブを育ててみたり、
色鮮やかなピクルスを作ったり。
雑誌に出てくるようなセンスある部屋で、
こだわりのキッチン用品に囲まれて、
ゆっくりと流れる時間の中で生きる。
そんな暮らしに、心のどこかで恋をしていた。
現実は違った。
片付けても片付けても散らかる家。
壁には落書きとシミ。
兄弟げんかが発生して、
失くしもの探しが延々と続く。
丁寧さとは、ほど遠い毎日。
自分でも笑ってしまうくらいに。
でも、ふと思う。
あの頃の私より、
今の私はずっと丁寧なのかもしれない、と。
命と季節が届く暮らし。
私は今、
命みなぎる肉をつくり、食べて生きている。
実家からは季節の便りとともに、
手づくりの米や野菜が贈られてくる。
段ボールを開けると、
あの頃の空気がふっと立ち上がる。
岡山の山と川。
畑で泥だらけになって遊んだときの匂い。
白菜はみずみずしく、
水菜はほろ苦い。
柚子の香りは家中に広がり、
干し柿を見ると縁側の記憶がよみがえる。
食べ物の“成り立ち”がすぐそばに感じられる。
そのことが、なんとも豊かだ。
41歳になっても、両親から受け取っているもの。
私は一人では揃えられない様々なものを、
今も両親から受け取り続けている。
魚釣りで渡った一本橋。
ヒルに刺された田んぼのぬかるみ。
タケノコとの背比べ。
ブロッコリーにいた青虫。
思い出のすべてが、
今、私の中を流れる血となり、肉となり、
生きる感性を形づくっている。
この豊かさを、
子どもたちにも渡していけるだろうか。
そう願わずにはいられない。
“丁寧”は、どこに宿るのか。
丁寧な暮らしとは、
おしゃれな食器や凝った料理のことではないと思う。
食材を知り、
扱い、
感じて、
いただくこと。
流通の途中で、
いつのまにかこぼれ落ちてしまった視点。
その視点こそが、
本来の“丁寧”なのではないだろうか。
私は今日も、丁寧にいただく。
私は幸せだ。
父と母のおかげで米と野菜を、
主人とスタッフのおかげでお肉を、
丁寧にいただくことができている。
これ以上の丁寧は、
きっとない。
“あとがき”
丁寧な暮らしに憧れていた若い頃の私は、
「どんな道具を使うか」「どんな部屋で過ごすか」を
“丁寧さ”の基準にしていました。
でも今、
畜産の現場で命と向き合い、
家族に支えられ、
実家から届く土の香りに触れるたびに思います。
丁寧さは、
外側の形ではなく、
自分の「内側」に育っていくものなのだと。
食材の向こうに人がいて、風景があり、季節があり、
その全てを「いただきます」に込めて生きること。
それが私にとっての“丁寧な暮らし”になりました。
忙しさに追われて、
気づく余裕を失いそうになる日もあるけれど——
誰かが育ててくれた命を、
今日も食卓にいただけることは、
本当はとても大きな恵みです。
読んでくださったあなたの中にも、
日々の中にそっと宿る“丁寧さ”が
ひとつ見つかりますように。
—— 遠藤 恭子(獣医師/いただきますコンシェルジュ)
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