終りの間|食べ物にすらならなかった命— 安楽死という判断の現場で —
目をそらさなかった日の記録です。
先日、一頭の黒毛和牛を安楽死させた。
一番いやな仕事だ。
やり残している仕事があると落ち着かない。
でも、この仕事は違う。
終わっても、
一日中、心の隅に重たいものが残り続ける。
実は、二日ほど目をそらすように先延ばしにした。
早くやってしまった方が楽だと分かっているのに。
ここで読んでくださっている方の中には、
「愛され和牛にしないの?」
そう思う方もいるかもしれない。
私は、この「安楽死」が嫌で
「愛され和牛」というブランドをつくった。
訳あって価値が付かないと判断された牛を、
見捨てず、最期まで役目を全うさせる。
生きていた物語と、
編集されたストーリームービーを添えて、
ようやく市場価値が生まれる。
でも、この子は違った。
よそから買ってきた牛だった。
物語が薄かった。
そして、
抱えられる「愛され和牛」の数を超えていた。
小さい個体。
経費とのバランス。
損失額。
すべてを考え、
静かに安楽死を選んだ。
いざ始まると、心のざわつきは消える。
淡々と、事務的に。
感情は削ぎ落ちていく。
準備。確認。書類。
個体を見ず、
数字や文章、体の部位として認識する。
ここで感情を入れてはいけないことを、
私は知っている。
それでも、目はそらさない。
魂が抜けたと言われるその瞬間まで、
全部を見届ける。
儀式のようなルーティーン。
義務感に押されて、しばらくそこに立つ。
泣いたりはしない。
次に同じ運命をたどる命を
一頭でも減らすために。
突っ張るような仕草のあと、
全身の力が抜ける。
眼の色が消える。
何も映していないのか、
虚空を見ているのか分からないまなざしを、
私は見つめ返す。
体位を整える。
カラスやキツネに荒らされないようブルーシートをかける。
書類を準備し、そばに置く。
私がしたことは、
ただ全部を見ることだけだった。
私はずっと「引き受ける」と言ってきた。
命をいただくということは、
その命を受け継いで生きるということ。
だから、自分の命を粗末に扱ってはいけない。
「いただきます」は
感謝でも祈りでもあるけれど、
同時に覚悟の言葉だ。
いただいて、これから生きていきます、という。
だから引き受ける。
では——
食べ物にすらならなかったこの子の命は、
どうなったのだろう。
無駄だったのだろうか。
それでも私は、少し軽くなる。
目をそらさなかったから。
あなたなら、
この子の命をどう引き受けただろう。
🎙 この出来事について、声でも話しています。
「いのちの間|終りの間」
(Podcastを聴く)
—— 遠藤 恭子(獣医師/いただきますコンシェルジュ)
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