漢字って、書けるようになる必要ある?
そんな問いを見かけて、ちょっと考え込んでしまった。
(私は小学校の先生でも文科省の人でもないです。すみません)
漢字…感情的には「書けなくていい」と思えない。
でも、どうしても「書けるようにならなくてはならない理由」が私には見つけられないのだ。
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まず、前提として整理しておきたいことがある。
それは、漢字に関わる力は一つじゃない、ということ。
大きく分けると、こんな3つがあると思う。
・読める(見て理解できる)
・使える(意味や文脈に合わせて選べる)
・書ける(何も見ずに再現できる)
この3つ、なんとなく一括りにされがちだけど、実は全然違う力のはず。
そして多くの場合、
「読める > 使える > 書ける」
の順で難易度が上がっていく。
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今回の議論でよく見かけたのが、
「漢字が書けないと、言葉を正確に扱えない」
「思考の解像度が下がる」
といった意見。
これ、一部はすごく分かる。
たしかに「意志」と「意思」みたいな違いを知らなければ、
考えが曖昧になることはある。
でも…
それって本当に、「書けること」が必要なんだろうか?
たとえば私たちは普段、スマホやパソコンで文章を書くとき、
変換候補の中から適切な漢字を選んでいる。
このとき必要なのは、
「意味の違いが分かること」や
「文脈に合った言葉を選べること」
であって、
「手で正確に書けること」ではないはず。
つまり、
思考の解像度を上げているのは
「漢字を書く力」そのものではなく、
「言葉を区別し、使い分ける力」なのではないかと思う。
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一方で、「書くこと」自体に意味があると思う。
手を動かして書くと、記憶に残りやすかったり、
考えが整理されたりする感覚は、たしかにある。
でもこれもよく考えると、
ひらがなでもいいし、
タイピングでもある程度代替できる。
「書く」という行為と
「漢字を正確に再現すること」は、
似ているようで、少し違う気がする。
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ここまで考えてみると、やっぱり私には
これからの日本で「漢字が(手で)書けるようになること」の必要性が見出せない。
少なくとも、「必須の能力」とは言えないのでは…?
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だけど、必要性とは別に、私の感情的なところで何かが引っ掛かる。
…漢字、かっこいいじゃんww
(※個人の感想です)
私は割と多国籍な環境で育ち、国外でも暮らしていた。
そのとき「loveって漢字で書いてみて!」とリクエストされて書いたら、
「なんて美しいの!」と感動してもらえたりして、なんか気分がいいw(非漢字文化圏で暮らすと、漢字が書けることになんとも言えない厨二病的優越感を感じるようになりますw)
服や家具なんて買った方が安いし質も良いのに、
一部の人がわざわざ手作りして愛おしむようなもの。
漢字を書くことも、どこかそれに似ている気がする。
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だから、「漢字を手書きで書けるようになる必要性はあるか?」と聞かれれば、私は「ない」と思う。
でもそれとは別に、
美しい漢字を書く文化に、
一度くらいは触れてみる機会があってもいいんじゃないかとは思う。
体育の授業で空手や剣道をやるように、
書き初めを人生で一度経験するくらいの、ささやかな接点でいい。
それくらいで、十分なんじゃないかな。
【追記】
私はまきさんの記事でこの議論を知りました!
コメント欄んp皆さんとてもアツくて、読み応えがあります🤭
