* interview Rafael Martini:そもそもブラジルの音楽はシステムから外れた方法で作られている(14,000字)
2010年代初頭にブラジルの新世代が発見され、「ミナス新世代」として日本に紹介された。そのきっかけはマルチ奏者のアントニオ・ロウレイロ。彼の音楽の新鮮さはすぐにリスナーの間に広がり、彼と共演しているブラジルの同世代の豊かな才能たちが芋づる式に発見されていった。彼らの何人かは来日も果たしたし、アレシャンドリ・アンドレスやハファエル・マルチニらに関しては日本盤のリリースもあった。2010年代半ばには現代ジャズの最重要人物の一人でもあるギタリストのカート・ローゼンウィンケルが自作『Caipi』にアントニオ・ロウレイロ(とペドロ・マルチンス)を起用したこともあり、ジャズ・リスナーにとっても広く知られるようになった。
そんなアントニオ・ロウレイロらのコミュニティの中でも鍵盤奏者で作編曲家のハファエル・マルチニは中心人物のひとりと言っていい存在だった。グルーポ・ハモ『Ramo e a Liberdade Musical』、ミストゥラーダ・オルケストラ『Misturada Orquestra』、そしてハファエルの『Motivo』、ジョアナ・ケイロス、ハファエル・マルチニ、ベルナルド・ハモス『Gesto』など、シーンのミュージシャンが集結した様々な作品に顔を出しているし、アレシャンドリ・アンドレスとの『Haru』、アントニオ・ロウレイロとの『Ressonância』など、デュオの相手にも指名されている。その信頼度の高さから見ても、シーンのハブのような立場なのではないかと思われた。
そして、ハファエルの音楽は同時代のグローバルなジャズの流れにも共振しつつ、アントニオ・カルロス・ジョビンやエグベルト・ジスモンチらの先人から連なるブラジルのインストゥルメンタルの歴史を感じさせるように思えて、そこに僕は関心を持っていた。彼の音楽には今のブラジルだけでなく、過去のブラジル音楽を読み解くためのヒントがあるような気がしていた。
今回、ハファエル・マルチニが自身のセクステットを率いて録音した最新作『Martelo』のリリースを機に、ハファエルにインタビューをすることにした。くるり主催の京都音博にも出演していたり、その名前はそれなりに知られているものの、彼がどんな音楽家で、どんな影響を受けてきたのかなどの詳しい話は日本語では読めなかった。そこで今回は基本的な情報も含めて彼のキャリアにも触れつつ、彼の音楽を形作っているものをじっくりと聞き出すことにした。
結果的にハファエル自身のことだけでなく、ブラジルの音楽の面白さや、その最大の魅力でもある掴めなさやわからなさを考えるためのヒントが山のように散りばめられているインタビューになった。そして、そのハファエルが語ってくれた多くのヒントはそのまま『Martelo』の魅力に繋がっているし、『Martelo』の更なる深みに僕らを導いてくれるものにもなっているはずだ。
| 取材 編集:柳樂光隆 , 江利川侑介(Disk Union)
| 通訳 編集:島田愛加 | 写真 ©Paula Dante
◉ ミナスジェライス連邦大学とイアン・ゲスチ
――大学で学んだことについて教えてください。
私はミナスジェライス連邦大学(UFMG - Universidade Federal de Minas Gerai)の音楽学部で作曲を学びました。クラシックと現代音楽を作曲するためのテクニックを学ぶ学部です。私はここで覚えたテクニックを使いながら、自分の作りたいインストゥルメンタル・ミュージックや歌を作曲していました。大学では素晴らしい先生たちから作曲、オーケストレーション、対位法などを学ぶことが出来ました。多くがクラシック音楽にて使われるテクニックですが、ポピュラー音楽における作曲法を教えてくれる先生もいました。
実は、現在私は母校のポピュラー音楽学科にて教鞭を執っています。私が学んでいた頃はクラシック学科しかありませんでしたが、卒業してからポピュラー音楽学科が開講し、そこで教えることになりました。ビッグバンドの指導者兼指揮者、作曲、ピアノを教えています。
――学生時代に受けた特に印象的な授業があったら教えてください。
私にとって大学生活はとても意義のあるものでした。なぜなら、私は初心者同然で入学したからです。入学したころはピアノを弾いた事がありませんでした。それまではギターを弾いていて、21歳の時にピアノを始めました。在学中はピアノ以外にもビブラフォン、ヴィオラ・カイピーラ*、アコーディオンなどにも触れるようになりました。
特に印象的だった授業を1つ選ぶなら、ブラジルで重要な教育者であるハンガリー人教師イアン・ゲスチ(Ian Guest)の元で1年間、作曲とハーモニーを学んだことです。残念ながら彼は今年4月に帰らぬ人となりました。イアンはハンガリーの雰囲気に似ているミナスジェライスを故郷のように思っていました。彼はミナスに住み、多くの音楽院で客員教授として教えていたんです。私は幸運にも大学に入って最初の1年間、イアンに師事することができました。
イアン・ゲスチはシコ・ブアルキの先生で、リオデジャネイロのベッコ・ダス・ガハーファス(Beco das Garrafas。コパカバーナにあったライブハウスが並ぶ横丁。50-60年代にセルジオ・メンデス、バーデン・パウエル、エリス・レジーナらが若き日に演奏していた伝説の場所)初期に居合わせ、ハウル・セイシャスのファースト・アルバムでは音響技術者を務めていました。彼はブラジル音楽における非常に重要な人物と一緒に過ごしていました。
また彼が亡くなる少し前に、現在はドイツに住んでいるグランデュオ(Guanduo)というギターデュオがアルバムを録音したのですが、そこで彼らのためにイアンが私の曲をアレンジし、私がイアンの曲をアレンジするという素晴らしい交換を行ったことがありました。また、私のファースト・アルバムの楽曲「Sono」をイアンにアレンジしてもらう大変ありがたい機会にも恵まれました。
――イアン・ゲスチは日本ではあまり知られていない存在です。彼について、もう少し詳しく教えてもらえますか?
イアンは第二次世界大戦後にブラジルへ亡命したと記憶しています。彼はハンガリーの作曲家で教育家のコダーイ・ゾルターンのメソッドを学んでブラジルへやってきました。その2~30年前にはハンス=ヨアヒム・ケルロイター(Hans-Joachim Koellreutter)がブラジルへやってきましたね。この2人はブラジル音楽においてとても重要な人物です。ケルロイターは十二音技法を持ち込み、クラシック音楽に大きな影響を与えました。イアンはコダーイの音楽教育やシステムをポピュラー音楽の世界に結びつけました。
イアンは青年期にリオデジャネイロに着き、50年代後半のベッコ・ダス・ガハーファスにてジョニー・アルフやアントニオ・カルロス・ジョビンらがピアノを弾き、ボサノヴァが誕生するのをその目で見ました。
イアンはブラジル・ポピュラー音楽理論の発展を促しました。60年代以降、ヴィニシウス・ヂ・モライスと契約し楽曲にコードをつけたのは彼でした。また、ブラジルで最も重要なレコード会社の1つであるオデオンの音響技術者でもありました。ハウル・セイシャスのファースト・アルバムだけでなく、セルジオ・サンパイオやエディ・スター、ミリアン・バツカーダらとも一緒に仕事をしました。そう、彼らグラン・オルデン・カヴェルニスタ(Grã-Ordem Kavernista)のアルバムに内緒で携わって、オデオンを去らざるを得なくなってしまったんですよね。
その後、音楽教師としてシコをはじめ数多くのミュージシャンを指導しました。そして、多くのブラジル音楽を楽譜にしたルミアール社のアルミール・シェヂアッキ(Almir Chediak)がハーモニーをコードにするシステムを作り上げる際にはそのサポートもしていました。ミナスジェライスに来てからのイアンは、トニーニョ・オルタやミルトン・ナシメントなど、これまで楽譜にされていなかった楽曲を書き残すことに貢献しました。
そして、彼は世代を超える多くのミュージシャンの先生でした。イアンが書いたハーモニーとアレンジの本はブラジル音楽を学ぶものにとって欠かせない本です。また、非常に活動的な方で、82歳で亡くなるまで強い情熱をもって教え続けたとても献身的な方でした。彼がブラジルにおける音楽教育理論をフォーマットしたと言っても過言ではありません。
――イアン・ゲスチはハンガリーでコダーイのメソッドを学んだという事ですが、コダーイはバルトークと共にハンガリーの民謡を採集して、それを作曲に取り入れました。ということはイアンは民族的な音楽をクラシックの現代的な作曲方法に活かすような手法や考え方をブラジルに持ち込んだのでしょうか?
彼がよく使っていたコダーイのメソッドは移動ド唱法ですね。それぞれの音階の主音になる音を「ド」と歌い始める方法です。
ただ面白い事に、民俗的な音楽の部分についてはあまり触れていませんでした。これは本当に興味深い質問で、今いろいろ思い返してみたのですが、イアンは民族音楽的なものを引用していませんでしたが、口承文化によって伝わるものを非常に重要視していたのを覚えています。彼は「作曲をする時、曲が完成する前に楽譜に書いてはならない。書くのは曲が完成してから」といつも言っていたのです。楽譜は記憶、記録するためにあるだけだと考えていました。もしかしたら、これは民謡的な部分が関係しているのかもしれないと思いました。
――それはめちゃくちゃ興味深いですね。では、次はあなたが特に研究した作曲家がいたら教えてください
もしブラジルのポピュラー音楽で何人か名前を挙げるなら、最も研究したのはアントニオ・カルロス・ジョビンです。彼の作品は楽譜になっていますから、そのおかげもあってほぼ全ての作品を弾いた事があります。もちろん全てのアルバムを聴きました。
2番目はエグベルト・ジスモンチ。私が幼少の頃から聴いていますし、最も参考にしているアーティストの一人です。彼とは共演する機会にも恵まれました。今でも彼の作品は研究しています。
エルメート・パスコアルも沢山聴いて研究しました。最近で言うと、レチエレス・レイチの作品もよく聴き、本人とも直接連絡をとっていました。
マリア・シュナイダーの作品もよく聴いて楽譜の分析もしました。大学ではストラヴィンスキーやリゲティ、この2人を主に勉強しましたね。
そして私の同世代の仲間たちからも同じくらい多くのことを学び、今でも学んでいます。クリストフ・シルヴァ、アレシャンドリ・アンドレス、ジョアナ・ケイロス、アントニオ・ロウレイロ、ジェニフェル・ソウザなど。器楽奏者として、作曲家として彼らから学ぶことは沢山あります。
◉アントニオ・カルロス・ジョビンのこと
――あなたは「Tempo do Mar」「Meditação」などジョビンの曲を何度もカヴァーしていますから、あなたにとってジョビンが特別な存在なのは明らかだと思います。あなたはジョビンの音楽のどんな部分に魅力を感じていましたか?
一言でお話しするのは難しいですね笑。私は全体的なものだと考えています。なぜならジョビンはブラジル音楽を深く、繊細にすることができた人物だと感じるからです。彼はジョアン・ジルベルトと共に、ハーモニー、リズム、表現、歌詞、全ての部分で微妙なニュアンスをつけることで、それまでのブラジル音楽のようなドラマチックになり過ぎないものを生み出しました。その流れはのちにトロピカリズモやクルビ・ダ・エスキーナの作品を生み出すことになります。私も若いころ、トロピカリズモやクルビ・ダ・エスキーナ、ムタンチスなどロック的な要素が強いものから聴き始め、MPBを聴くようになりました。そうしてジョビンに辿り着いたんです。ジョビンの音楽にはそれらの起源があると私は思いますし、音楽を通してブラジルを表現した人物だと思います。そして世界を視野に入れ活動し、世界で最も成功したブラジル音楽を作り出しました。
ジョビンは時代によって異なる特徴をもつ作品を書いています。ボサノヴァ、そして私が最も好きな時代である『Urubu』『Matita Perê』『Stone Flower』などのオーケストラ作品、晩年のバンダ・ノヴァなど、それぞれが異なっていますが、私はどの時代も大好きですし、それぞれの魅力があると思います。繰り返しますが、ブラジルという国を非常によく描いていますね。
――ジョビンのオーケストレーションのどんなところが好きですか?
『Matita Perê』が特に好きで、そのオーケストレーションがまるでブラジルの森林の中にいるように感じられるところです。
◉エグベルト・ジスモンチのこと
――では、あなたにとってのもうひとりの重要な影響源のエグベルト・ジスモンチと共演することになった経緯を教えてください。
これは話が長くなっちゃうなぁ笑 要約して話しますね。本当に興味深いきっかけだったんです。2014年にベロオリゾンチで音楽フェスティバルが開催される際、国内の有名アーティストを招待し、彼らと地元のアーティストを共演させる機会がありました。例えば、トン・ゼーに対してプロデューサーはジュリアナ・ぺルヂガォン(Juliana Perdigão)とグラヴィオーラ(Graveola)の作品を聴かせたら、トン・ゼーはジュリアナを選びました。同じように、エグベルトにはアレシャンドリ・アンドレスと私の作品が候補に挙がりました。エグベルトは、私とアレシャンドリの作品を聴いて「ハファエルの作品は私の作風に非常によく似ているね。だからアレシャンドリと共演することにするよ」と答えました。でも、私はアレシャンドリのグループのメンバーでもあったので、エグベルトと共演できることになったんです。結果的に、アレシャンドリのグループが共演するエグベルト作品の選曲は私がすることになりました。エグベルトと2日間に渡ってリハーサルをして、ショーは本当に素晴らしいものになりました。
3年後の2017年、彼は別のプロジェクトでベロオリゾンチに来ることになり、その時に私のことを思い出してくれたんです。プロデューサーが私を知っていたこともあり声をかけてくれて、私の長年の相棒でもあるチェロ奏者のフェリペ・ジョゼ(Felipe José)と共に参加することになりました。私とフェリペはエグベルトのほとんどの作品を演奏できたので、彼はその様子をみて、一緒にショーをすることを提案しました。こうして歌手のグラジイ・ヴィルチ(Grazie Wirtti)を含めたカルテットでショーをすることになったんです。実はこの頃、私はアコーディオンをそこまで本格的には弾いていなかったんです。でもエグベルトはピアニストだし、(彼と被らないように)リハーサルにはアコーディオンを持っていったのです。彼がそのアイデアを気に入ってくれたのがきっかけで、この日以降、本格的にアコーディオンを弾くようになりました。なので、彼のおかげでアコーディオンを弾く機会に恵まれたのです。
――エグベルト・ジスモンチはあなたにとって大きな存在だと思いますし、彼の音楽をかなり研究したのではないかと思います。彼の作曲家としての特徴について聞かせてください。
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