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解題『両性具有神の恋』③:試し読み(2) 第一章冒頭部分(続き)

2026年4月下旬発売の長編小説、『両性具有神の恋』の試し読みです。2回に分けた掲載の2回目です。

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 私たちが初めて会ったのは学生時代、日本アメリカ文学会の大会でのことだ。彼女は修士課程、私は博士課程のそれぞれ一年目だった。大学院は別だが、前後して同じ大学に就職した。長い付き合いだから、互いに遠慮会釈がない。樋口さんの丸い頬と少しばかり上を向いた鼻、小さいがよく光る目は、機知に富み、はつらつとした若い女性だった頃の雰囲気を残している。もともとふくよかだったところに貫禄がついて、昨年教授になった頃からはある種の風格すら漂わせるようになっていた。今年度は英語科目の責任者でもある。
 樋口さんは両手を机に重ね、真剣な話をする姿勢になった。
「今学期の朝永さんの英語、ホーソーンを読むんでしょう。シラバスで見たわ」
「うん、三コマのうち一つだけね。あとの二つは、市販の教科書を使う授業だよ」
「でも、その二つは初級の授業よね。編集してない文学作品は読めないからでしょう」
 私は先回りした。
「中級の学生たちは十分、知的刺激のあるものを読む力があるよ。ホーソーンの短編小説が難しすぎることはないし、第一、読書体験としても価値があるじゃないか」
「あのね、朝永さん。会議では、語学教育アンケートの結果が出てきたのよ。外国語カリキュラムの更新時期に、いつも全学の教員を対象にやるでしょう。その自由記述のところにあった意見なんだけど、文学作品を読ませるのは役に立たないから、やめてほしいって」
「どこの学部の先生?」
「工学部。自分が学生の時も必修授業がそれで、関心を持てずに辛かった、って」
「そんなことだろうと思った」
 ため息が出た。工学部。外国語教育の方針に批判が出る時は必ずといっていいほど、工学部が急先鋒に立っている。
「もう、必修で文学を読ませるのはぼくだけだろう。一つ残らずつぶさないと気が済まないのか? 語学の授業を、会話と外部試験の練習で埋め尽くせとでもいうのか」
 私が協力的でなさそうなのを察して、樋口さんは眉を寄せた。
「この先生だけの意見じゃないのよ。同じような批判は前からあるし、学生からも聞こえてきてるのよ」
「知ってるよ。だけど、一年生の必修授業で文学を読ませなかったらどうなる? 文学を専攻する学生以外は、大学で文学を学ぶ機会がなくなるんだ。TOEIC対策の授業も、役には立つだろうさ。でもそれは、大学教育と呼べるものじゃない。少なくとも、高等教育の名にふさわしいものじゃないね」
「外部試験の点数が上がる方が、『上』の人たちからの評価は高くなるのよ。わかってるでしょう? ただでさえ、日本人の英語教員は全部ネイティヴ・スピーカーに取り替えるべきだと言われてるし、専任の身分がなければとっくにそうされてたでしょうね。自分の研究関心を優先して授業をしてたら、ますます立場が悪くなるわ」
「樋口さん」
 私は懐柔に回った。
「あなただって、評価を上げるために授業をしてるわけじゃないだろう。学生のためにやっているはずだ。樋口さんの書いたエミリー・ディキンスンについての論考、三年ほど前だったと思うけど、あれは素晴らしい英文だったよ。言葉の使い方に詩的な響きがある。ああいうものこそ、学部生に読ませれば、きっと大学院への進学者も増えて――」
「話題を逸らさないで。朝永さん、都合が悪くなるとすぐそうやってはぐらかす。その手はとっくの昔にばれてるんだから、わたしには通用しないわよ。次年度早々には、新カリキュラムに向けて動き出さないといけないの。もっと標準的な教材を用意してもらわないと、わたしの方で選んで、これでやってってお願いすることになるかもしれないから、文学以外の可能性も考えてほしいのよ」
「何度も考えたさ。その上で、文学にまさるものはないと結論を出したんだ」
 樋口さんは苛立ち半分、呆れ半分といった目つきで私の顔を眺めた。彼女は否定しないだろうと私は確信していた。彼女が立場上言えないことを、代わって言ってやりたい気持ちもあったのだ。次に繰り出されるどんな議論にも反駁するつもりで身構えていたが、深い嘆息のあと、彼女は視線を横に外した。
らちがあきやしない。今日はもう、いいわ」
 勢いをくじかれた私に、樋口さんは低く続けた。
「でも、いつまでも現状を見ないふりはできないのよ。朝永さんだって、それは理解しているでしょう」
 こんなに早く引き下がられるとは思わず、私は馬鹿のようにそこに座っていた。話が再開しないのを確認してから、のろのろと立ち上がった。
 ドアを開きかけて、言い訳がましく付け加えた。
「さっきの話、はぐらかすのに出したわけじゃない。あの論考は、いずれ本の一章にするって言ってただろう。その後どうしたのか、気になっていたんだよ」
 樋口さんがこちらを向いた。億劫そうに椅子から立ち、そばに来る。パーマのほつれた髪の束を肩から後ろに押しやると、いくぶん和らいだ口調で言った。
「気にしてくれてありがとう。取り組む時間があればとは思ってるけど、残念ながら、そういう身分じゃなくなったわ。朝永さんこそ、最近は何か書いてるの?」
「ぼくはもう、いいんだ」
 樋口さんの目に浮かんだ表情を、憐憫とは思いたくなかった。片手で別れを告げて廊下に出た私を、待って、と彼女の声が引き留めた。足を止めると、彼女は気分を変えようと促す笑顔で言った。
「一つ、忘れてたわ。さっき言ってたホーソーンの授業だけど、TAを付けられることになったのよ。朝永さん、申請していたでしょう?」
「ああ。でも、応募が足りなかったと聞いたけど」
「それがね、一人、追加で採用できたの。本人からメール連絡が来るはずよ。朝永さんの天敵の工学系だけど、珍しく語学の好きな学生みたいだから、仲良くやってね」
 礼を言って樋口さんと別れた。
 軽口は、彼女流の気遣いだっただろうか。歩きながら、そんな彼女に対し、先ほど自分の取った態度を悔やんだ。業務上の求めに正面から応じず、文学畑の語学教師の、仲間内の愚痴でしかない理屈で抵抗するなんて、職業人としての自覚に欠けると言われても仕方がない。気安さに甘え、子どもじみた真似をしてしまった。
 樋口さんの主張が正当なのはわかっているのだ。大学で英語を学ぶ意味は、昔とは様変わりしている。英米文化を学ぶ教養教育の一環だったのが、今は就職に役立つスキルとしての面が重視されている。彼女はその変化に合わせ、真面目に自分の仕事をしようとしているだけなのだ。けれども私は、彼女のように現実に向き合って、どんな形であれ、以前からの習慣を捨ててそれに取り組んでいこうという気概を、己の内に呼び起こすことができなかった。
 樋口さんと私も、年齢を経て変わった、という苦い実感もあった。かつての私たちは、自分の興味の追求にも、他の魂に寄り添うことにも、もっと情熱を持っていた。だが今や、彼女は研究関心よりも中間管理職としての職責を優先させ、私は彼女の要望がまっとうなものだと知りながら、かたくなに自分の領分を守ろうとしている。研究と教育の同じ理想を共有しているはずなのに、守るものの多さと意地が間に立ちはだかり、歩み寄れないのだった。
 研究室に戻ると、不在の間に教科書出版会社の営業が来たらしく、ドアと枠の隙間に新刊案内のパンフレットが挟み込まれていた。引き抜いてドアを開け、ソファ前のローテーブルにほうる。整理していない紙類の山がまた高くなったのを無視し、パソコンの前に座った。
 TA(ティーチング・アシスタント、授業補助)に採用された大学院生は、学期開始前に担当授業の教員に連絡して、仕事内容の指示を受けるきまりだ。メーラーを開くと、確かに「TA担当について」という件名のメールが届いている。本文を開き、差出人の所属と名前を確認した。
 工学研究科電子工学専攻、修士課程一年、如月燎。
 見覚えのある名前だった。新入生の頃に必修の英語授業で担当した学生だろうが、顔は思い出せない。しかし、姓名の漢字の組み合わせが印象的なので、記憶に残っていたのだろう。
 如月、旧暦の二月――「きさらぎ」という読みは「衣更着」に由来するともいわれ、衣を重ねて着る寒い季節を指す。一方、如月という漢字は、冬が去り、万物が春に向けて動き出す季節を意味する。いわば一つの言葉の中に、二つの季節が同居しているのだった。
 燎という名も、読みはありきたりだが、漢字は珍しい。明るく燃える火、かがり火や松明たいまつを意味する字だ。
 冬枯れの大地に燃える火か――それとも、春のきざしを照らす火か。
 今日、この後の時間、もしくは明日の午後に打ち合わせをしたい由の返信を送ると、五分と経たないうちに研究室の電話が鳴った。
「如月です。これからうかがってもいいですか」
 くっきりと明るい声だった。反応の早さに驚きながら答える。
「いいですよ。何時頃に着きますか」
「今、先生の建物の近くにいるんで、すぐ行けますよ」
「ああ、……それじゃ、十分くらい後に来てください。その間に、説明の用意をしておきますから」
「わかりました。十分したら行きます」
 快活な返事とともに、電話は切れた。
 TAへの指示を列挙した文書をパソコン内から探し出し、プリンタで打ち出す。ローテーブルに積み上がった書類や本を仕事机に移動させると、久々に見る木目模様が下から現れた。テーブル表面のほこりを払い、指示文書と授業のテキストを並べて、彼を待った。

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試し読みはここまでです!

次回のトピック:大学キャンパスの構造に、二人の距離感を重ねて

シリーズ第10回までの目次は以下にあります。2026年5月1日まで、週1回、金曜日の20:30に順次公開します。
https://note.com/eiko_mt/n/n40f2d6418db1

******(以下各回共通)*****

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