解題『両性具有神の恋』⑤:「ジェンダー・フルイド」「バイジェンダー」「バイセクシュアル」―語り手が探す「自分を容れる言葉の器」
2026年4月下旬発売の長編小説、『両性具有神の恋』を解説するエッセイシリーズです。
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実は、「ジェンダー・フルイド」という言葉は、『両性具有神の恋』の中には出てきません。筆者がこの言葉を初めて知ったのは、付記やあとがきも含め、原稿をすべて入稿した後でした。
にもかかわらず、この言葉を冒頭に持ってきたのは、本作の主人公であり語り手である朝永惇也のジェンダー・アイデンティティを表現するのに、ふさわしい言葉だと思ったからです。
惇也は、現在ほどジェンダー・アイデンティティや性的志向を表す語彙が日本語になかった時代に育ち、「自分を容れる言葉の器」を探し続けてきました。学生時代に「バイセクシュアル」という言葉を知り、取りあえずそれを自己理解のよすがとしますが、収まりの悪い感覚を抱いたまま、長く社会人生活を送っています。
惇也の中には、彼が〈女〉と呼ぶ女性性が潜んでいます。通常は精神の深淵に沈む不穏な存在とのみ認識されるその女性性は、日本近代文学の研究者・アーネストによって呼び覚まされるまで、惇也自身もはっきりとは認識していないものでした。
こうした主人公のありようについて、初稿のチェックをしてくれた米国人の校閲・校正者は、「バイジェンダー」という言葉を教えてくれました。彼女は自身がバイセクシュアルで、しかも日本の文化・文学やポップカルチャーに強い興味を持っているという、出会えた幸運が信じられないほど、この作品にぴったりの人でした。
「バイセクシュアル」は性愛・恋愛の対象が二つの性(従来は男性・女性の両方を指したが、近年はこれらに限定されない)という意味ですが、「バイジェンダー」はジェンダー・アイデンティティが二種類あるという意味で、両者は互いに独立の概念です。惇也はこれらを併せ持った存在というのが彼女の指摘でした。
ただし、彼女によれば、アメリカでバイジェンダーという概念が広く知られるようになったのは2020年代に入ってからだそうです。小説の最後のシーンは2017年の3月で、その時点で惇也がこの概念を知っているとは考えにくいため、小説本文の後に「付記」という形で「バイジェンダー」「バイセクシュアル」について解説を加えました。
「ジェンダー・フルイド」(gender-fluid)は、ウィキペディア日本語版では、「時間の経過や状況に応じて変化する固定されていない性同一性」と説明されています。英語のfluidとは「流動的な」「液体状の」という意味なので、ジェンダー・フルイドは「流動するジェンダー・アイデンティティ」という意味になります。
惇也はアーネストの前でのみ、隠された女性性を解放するという、まさに「状況に応じて」変化するジェンダー・アイデンティティを持っています。普段は男性として、周囲の期待や予測の範囲に収まる生き方をしている惇也は、〈女〉の面をアーネスト以外に見せることはありません。
アーネストと別れた後はもはや浮上することはないと思われた惇也の〈女〉は、しかし完全に消え去ることはなく、彼の奥底に息を潜めて生き続けています。
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次回のトピック:ヘルマプロディートス(両性具有神)像と砂時計
シリーズ第10回までの目次は以下にあります。2026年5月1日まで、週1回、金曜日の20:30に順次公開します。
https://note.com/eiko_mt/n/n40f2d6418db1
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