風のように生きた男── 平賀源内の軌跡②
前回は、源内さんの評判がじわじわ広がって、まるで何かが始まる前の追い風のようだった……そんな話だったね。
評判が立てば道が開ける、そう思いたいところだけど……
ときにその道は、望んだ未来じゃなく、思いがけない場所へと続いていたりするのさ。
──宝暦九年(1759年)
評判を耳にした藩主・松平頼恭からふたたび召し抱えの声がかかったんだ。
けれども源内さんにとっちゃ、自由であることが何よりの宝。
自由に研究することができず、命じられたものばかり扱わねばならぬ日々に、次第に息苦しさを覚えたんだろうねぇ。
わずか二年──明和元年(1761年)には再び辞職してしまう。
その結果が、「奉公構」
奉公構…藩の意に背いたり、体制に合わなかった者が、他の藩や主家でも雇ってもらえなくなる処置。
もうどこの藩からも雇われなくなる、いわば浪人として生きるしかなくなったというわけさ。
それでも源内さんは〝学問と志〟このふたつだけは決して手放さず、
三十四の年に、浪人の身でふたたび江戸へ舞い戻ったのさ。
江戸に戻った源内さんは、浪人の身でありながら、学問への情熱をさらに燃やしていった。
宝暦十二年(1762年)、第五回となる薬品会を開催。
このときは、引札まで用意して、全国の本草学者たちに呼びかけたのさ。

全国に配布した引札には、出品物の送料は会側が負担し、会期後は速やかに返送すること、西国からでも約二週間で届くことなど、参加者への配慮が細かく記されている。
全国二十五か所に設けた「取次所」に出品物を預ければ、会場に足を運ばずとも参加できる仕組みで、遠方からの出品も可能にした。無名の品も歓迎し、薬品に限らず幅広い出品を呼びかけるなど、博覧会としての姿を先取りした構想が光る。漢文と和文を織り交ぜた引札からは、格式と実務性を両立させた源内の工夫と意気込みが感じられる。

…まことに熱い、心の底からの呼びかけさ。
その働きが実を結んで、第五回の薬品会はそりゃあ見事な賑わいだったのさ。
第一回が百八十種だったのに対して、今回はなんと千三百点を超える品々が集まったんだから、源内さんの人脈と働きぶりが、どれほどのもんだったかがわかるってもんさ。
そしてね、薬品会をきっかけに、あの杉田玄白とも縁が生まれるんだよ。
源内さんを「天性の才人」と称えた玄白は、のちに『蘭学事始』の中でも、その名をしっかりと書き残している。
互いの才を認め合い、親しく語り合う──
まさに心許せる友として、ここから先も、縁を重ねていくことになるんだよ。
さらに、源内さんの弟子・小田野直武は、あの『解体新書』の扉絵や挿絵を手がけることになる。

挿絵を描いた小田野直武は、源内の弟子であり、西洋画法を源内から学んだ人物。翻訳を進めていた玄白と源内が親交深く結ばれていたことで、直武が絵師として抜擢されたとされる。巻末に記された文章では、直武が「この仕事は自分の手に余るが、断れば友に迷惑がかかる」と述べており、その謙虚な思いと重責を引き受けた覚悟がにじむ。なお、この文章は現存する唯一の直武の筆によるものとされているが、源内による代筆だったという説もある。
つまり、玄白や前野良沢たちが、医学の新しい地平を切り開いていくそのかたわらで、
源内さんのつないだ縁が、しっかり生きていたってわけさ。
思えば、この宝暦のころこそが、源内さんがいちばん筋道を立てて学問に向き合っていた時期だったんじゃないかと思うよ。
そして、あの方が信じていた「国益」
国のため、という志。
その集大成ともいえるのが「物類品隲」さ。
各地の物産を精査し、学問と産業の礎を築こうとした、後の世にも残るような働きだったのさ。

宝暦13年(1763)
平賀源内が著した物産解説書で、宝暦七年以降に開かれた薬品会(物産会)への出品物から360種を選び、漢名・和名・形状・性質・産地などを記録したもの。特に珍しい32種には写生図を添え、巻之六では朝鮮人参の栽培法や砂糖の製法も図入りで紹介されている。先に①章で紹介した、ドドネウスの『草木誌』などの西洋植物図鑑も参考にされたと考えられ、日本での国産化や資源活用の視点が随所に見られる。
この頃にはもう、主催者である源内さんの名は、江戸の町で広く知られるようになっていた。
けれど、学問は金にならない。
薬草を探すにも、鉱山を調べるにも、金も人手もかかる。
それでも源内さんは、歩みを止めなかった。
織物、陶器、鉱山──産業の最前線にまで手を伸ばし、この国の富が海外に流れていくのを、なんとしてでも止めたかったんだねぇ。
だからこそ、輸入品に頼らず、日本でつくる道を目指した。
その信念のもと、西洋の技術や道具を「模倣」じゃなく「国産化」することで、国の未来を切り拓こうとしたのさ。
陶器に目を向けたときは、かつて学んだ陶法の記憶を頼りに、日本の風土に合う土を探し、焼き方を工夫し、ついには「源内焼」と呼ばれる磁器を焼き上げた。

毛織物だってそうさ。
当時は羅紗(羊毛の毛織物)は全て輸入で高価だったのさ。それに対抗するには、まずは羊が要るってんで、長崎から四頭の羊を連れて帰り、郷里の讃岐で飼育まで始めた。
そこから自らの本名を冠して「国倫織」という国産羅紗を生み出したんだよ。
まったく、気の遠くなるような話でねぇ。
人手も、時間も、金もかかる。
生み出したはいいが、商いとしては──どうにも成り立たなかったのさ。
さらに、熱や薬に強いアスベストを使って「燃えない布」まで作り、それを将軍に献上したって話もある。

明和元年(1764)源内は秩父・両神山で石綿(アスベスト)を発見し、これを織って「火浣布」と名付けた。火にくべても燃えず、油や墨の汚れも焼き落とせる不燃布として注目を集めた。源内は“世界初”と自負したが、後にオランダ人からより大きなものを見せられたと、弟子・森島中良が記している。略説は火流布の製作に成功した源内が、その紹介をした書。
そして、鉱山。
すでに金も銀も採れにくくなっていたけど、「まだこの国には、埋もれた宝がある」と信じてどんな分野にも飛び込んでいったのさ。
科学と産業を結びつけるという、源内さんの発想は、百年先をたった一人で歩いていたようなもんさ。
あの人は、本草学者にして地質学者。
蘭学者でありながら、俳人にもなれば、浄瑠璃の作者でもあった。
筆を取れば、蘭画も描いたし、「福内鬼外」という号で、吉原細見『細見呼御江戸』の序文も書いている。
そして「風来山人」の号では戯作者としても筆をふるい、
『根南志具佐』や『風流志道軒伝』といった談義本で江戸っ子たちを笑わせたもんさ。
まったく、源内さんの才の現れ方ときたら、どこに飛び出すかわからない神出鬼没ぶりで、こっちが舌を巻くほどだったよ。
けれどもね、あの頃はまだ「作家」なんて職業がちゃんと成り立ってた時代じゃなくてねぇ。
それでも、学問を続け、国を思う志を手放さないためには、金をつくらにゃならなかったのさ。
滑稽を装った物語の中に、ときおり覗く「平賀ばり」の風刺。それはただの笑い話じゃなかった。
悪態とも罵倒ともとれるような〝生〟の毒──
あれには、思うようにならない世の中や、自分の人生へのやり場のない想いをぶつけていたのかもしれないね。
ある晩のことを、今でも思い出すよ。
源内さんが長屋の縁側で、しずかに月を見上げていた。
あたしは縁の下からそっと出て、隣にちょこんと腰を下ろしたんだ。
「お前さんは、オレよりずっと自由だろうな」
ぽつりとつぶやいたその声には、どこか寂しさが混じっていたような気がしたのさ。
ふと長屋の中を見れば、「エレキテル」と呼ばれていた箱がいくつも転がっていたよ。

当初は「電気ショックで病を治す」と宣伝されたが、効果は乏しく、見世物として人々の興味を集めました。とはいえ日本における電気技術のはじまりを象徴する発明です。
あれは、きっと、夢の続きが詰まった箱だったんだろうねぇ。
けれども、
夢の数々は、どれも商いとしてはうまくいかなかったのさ。
その知は、あまりにも時代の先を行きすぎていたんだよ。
ここから先は、あたしにも少し胸がつまる話になるよ。
……空気がね、すこしずつ変わってきた気がしてたのさ。
風はまだ静かだけれど、どこか肌寒くて、落ち着かない──
続きを話すのは、またすぐにしようかねぇ。
ちょいと待っててね。
