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風のように生きた男── 平賀源内の軌跡③完




…………あの夜から、空気がすこしずつ変わっていた気がするのさ。

あの晩、月を見上げていた源内さんの顔は、
言葉にできぬ想いを、じっと呑みこんでいるように見えたよ。

さて、あたしの胸に残ってる、あの方のことを、もう少しだけ話させておくれ。


思えば、二度目の長崎から戻った頃には、
物産図譜ぶっさんずふの刊行なんて大きな夢も、まだ心の奥にしまっていたのかもしれないねぇ。

平賀源内 「火浣布略説」奥付
実現することのなかった日本物産図譜の
刊行予告が記されている。



けれど、浪人の身でその夢を実らせるには、まず手元に金が要ったのさ。

思うようにいかぬ暮らしのまま、綱渡りのような毎日を歩いていたんだよ。


秩父の山では金を掘り、鉄を吹こうと挑んだけれど、うまくはいかず。

秋田の鉱山でも、技術の指導にあたったものの、思ったほどの成果は得られなかった。


どうにも思うようにはいかず、気がつきゃ、
心もふところも、ずいぶんとすり減ってたのさ。


そりゃ源内さんは、転んだって、土払ってまた歩き出すような方だよ、

けれどね、どれほどの才があっても、
一人じゃどうにもならないこともあるだろう?

資金も、人手も……
次々と浮かぶ新しい発想に、腰を落ち着ける暇も……

どれも──いつも少しだけ、足りなかったのさ。


出資を頼もうにも、信用は薄れていくばかりで、助けの手もなかなか差しのべてもらえなかった。


でもね、それだけじゃない。


尽きることのない探究心で、ひとつに留まれずに、“次はこれだ”って、心があっちこっち動いていっちまうのさ。

自分でも、それが危ういことは、きっとわかっていたはずなんだよ。


まわりが慎重になる理由も、現実を見れば当然だってことも、頭ではちゃんと理解していただろうさ。


でも、そうしているうちに、いつしか学問の道に腰据えて歩くことが、どんどん遠のいていってね。



とにかく暮らしを立てるために、持ってる知恵の隅々まで使って、なんとか飯の種にしてたのさ。

神田大和町の源内さんの小間物工房じゃ「源内櫛げんないぐし」や「自惚鏡うぬぼれかがみ」、それに「金唐革きんからかわ」の細工物を売り出しててね。

「自惚鏡」…硝子板の裏面に水銀を塗った安価な鏡を製造し、商品名を付け売り出した。
「金唐革」…オランダで大量生産された高価な皮の加工品。源内は価格の安い代用品狙いで、皮ではなく和紙で金唐革紙を作り煙草入れや財布を作ったが極端に湿度に弱く途中で断念してしまう。
「源内櫛」…伽羅を材料に背を銀で飾った櫛を考案し作った。吉原の遊女にまず贈り、そのクチコミで世間の噂になるように仕掛けた。


風来山人ふうらいさんじんとして談義本や滑稽本で筆をはしらせ、
口上書きを頼まれれば、江戸っ子の気質にぴったりな粋な口上を、ぽんと生み出してみせたんだ。


持ち前の才と洒落っ気で、どうにか食いつないでいたんだよ。



でもね、それだけじゃ──到底、追いつかなかった。


借金はふくらむ一方で、自分のことを「貧家銭内ひんかぜにない」なんて、冗談交じりに名乗るようになっちまってねぇ。


我を通して、自由に生きようとした人で、
悲劇をそのままでは捉えないような気風もあった。

立ち止まるより前に、次の一歩を探すような、そんな方だったんだけどね。


そうしているうちに──
じわじわと、内から崩れていったのかもしれないよ。


いつの頃からか、平気な顔の裏で、みじめさや悔しさ、焦りも抱えてたんじゃないかって思うのさ。

けれどそれを、誰にも言えなかったんだろうねぇ。






新しすぎる技術、時代が追いつかない発想。


もう少しだけ、まわりと歩調を合わせていたら、時の流れに乗って、うまくいってたのかもしれない。

でも源内さんは、いつだって何歩か先を歩いてたからさ。
まわりがその足音に気づくまでに、時間がかかっちまったんだろうねぇ。


そんな源内さんにとって、この時代はあまりにも冷たかったんだよ。


源内さんは晩年、戯作のなかで、自分の五十年をふり返るような一節を残しているんだ。


わかってもらえなかったことへの苛立ちや、報われない悔しさを、そこにぶつけているのさ。
あの、自信たっぷりだった源内さんが、だよ。

抑えきれなかった気持ちが筆に乗って、まるであたし達に問いかけてるみたいでね。

どうか、目をとめてみてほしいのさ。

風来山人(平賀源内)安永六年(1777)
亡くなる約二年前に刊行された「放屁論後編」
その末尾につく「追加」の一節を意訳してみました。

源内は自ら「大山師」と名乗りつつも、
他人から山師と言われることには強く憤り、
仕事に託した自分の真意が矮小化され、誤解されているという心情が、色濃く出ている。



あれだけの才に恵まれてたのに、いたずらに浪費するばかりで、結局、どれも続かなくなっちまったのさ。


そして、そのまま。
源内さんの晩年は、決して華やかなものにはならなかったのさ。


むしろ、あの風来坊にとっちゃあ、苦しくて、重たくて──




それでもね、
夢ばっかりが詰まった、あの「エレキテル」の箱に、最後の最後まで未来を託していたのかもしれないねぇ。



けれど、発明品を売り出しても「奇天烈なもの」と話題にはなるが、すぐに飽きられる始末でさ。


世間からは、「山師やまし(ペテン師/詐欺師)」なんて、冷たい目で見られるようになっちまってねぇ。


元々、世の中の流れにも、草木や石っころの姿にも、きちんと目を向ける人だっただろう?
だからこそ、自分に向けられる誤解や噂にも、鈍感ではいられなかったんだろうねぇ。


「功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ」
そんな自嘲の句まで残すほどに失意の中にいて、だんだんと言動もおかしくなっていったんだよ。



次第に江戸の町でも、
「変人」「道楽者」「危ない人」……
そんな声が、聞こえるようになっていったのさ。




──そして、安永八年(1779年)のこと。

十一月二十日の深夜から翌未明、凶宅と呼ばれていた神田橋本町の源内宅でいさかいごとが起きてしまったようでね。

源内さんは乱心と怒りに任せて斬りつけ、一人の男が手傷を負って命を落としてしまったのさ。

この事件は、後代の精神病理学者によって「わが国で、天才・狂気・犯罪が手を結んであらわれたことが明瞭な最初の例」と呼ばれる。

小田晋「日本の狂気誌」思索社 昭和五十五年


その日のうちに、伝馬町の獄に入れられたようでね。

薄暗くて、寒くて、汚れた牢の中──
あまりにも、苦しい場所だったろうねぇ。





それから一ヶ月も経たない、
安永八年十二月十八日──
冬の底冷えが染みる夜だったよ。

平賀源内、五十二歳。
その命の灯は、獄中で、ひっそりと消えたのさ。


亡骸は、従弟であり妹婿の平賀権太夫に引き渡され、
千賀道隆せんがどうりゅう道有どうゆう父子、友人の平秩東作へづつとうさくや使用人要助らの手で、浅草総泉寺に葬られたそうだよ。


杉田玄白は、八十五の生涯の終わりまで
源内さんのことを、忘れることなく懐かしみ、共感をもって、その志を理解していたらしい。

獄死の報せを受けたときも、
誰よりも、その胸のうちを察することができたぶん──
深く、悲しんだというよ。

罪人とされたことで、亡骸はすぐには引き取れず、遺品だけが葬られたそうな。


それでも玄白は、自らの私財を投じて墓碑を建てようとし、源内さんの生涯をしるし、こんな言葉を刻んだのさ──


嗟 非常ノ人 非常ノ事ヲ好ミ 
行ヒ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ


──ああ。
並外れた人は、並外れたことを好み、
その生き方もまた、人と同じではない。

だとすれば、その最期まで──
並外れていたとしても、不思議はないのか



あれだけ多くの人が知恵を求めて訪ねてきたのに、最期は、誰の肩にも寄りかかることなく、
ひとりきりで、その生涯を閉じたんだ。

あたしは今も、そのことを思い出すたび、
胸の奥が、ちくりと痛むよ。


「奇才」「奇抜」「風変わり」──
そんな言葉じゃ、とてもとても、あの方の全部を包みきれないのさ。


だけどね。
あの方はきっと、今もどこかで、
己の好奇心のままに生きる誰かを、
そっと見守ってくれている気がするのさ。


風のように現れて、ふっと消えていった源内さん。

でもその風は──誰かの胸の奥に、まだ息をひそめているのかもしれないねぇ。

ふとしたとき、不意に背中をポンと押されるような、
まるで、あの方らしい、勢いまかせの風まかせってやつさ。

そして、こう言うのさ。
「そんな顔してないで、とりあえずやってみなって」──そんな風にね。


いまの世の中だって、源内さんみたいな生き方は、決して生きやすいもんじゃないだろう?


だからさ、もしもそんな風を感じたら──
そばにいる誰か、
新しいことに一歩踏み出そうとしてる誰かの背中を、軽く押してやりなよ、
源内さんの不思議な力を、ちょっとだけ借りてさ。


なんだかこうして思い出してたら
「こんな生き方しかできなかっただけさ。でも、それがいちばん合ってたのさ」なんて、
ヘヘッと笑ってるような気がするよ。




ずいぶん長い話になっちまったねぇ。
ここまで耳を傾けてくれて、うれしいよ。


……さて、今日はちゃぶ台の下にでも引っ込んで、〝べらぼう〟でも見るとしようかねぇ。




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