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【お遍路】「同行二人」とは、本当に弘法大師と一緒に歩くことなのか?

四国八十八ヶ所を巡る「お遍路」。

お遍路について調べていると、よく目にする言葉がある。

「同行二人」

読み方は、

どうぎょうににん

一人でお遍路をしていても、弘法大師と二人で歩いているという意味らしい。

四国八十八ヶ所霊場会の説明では、お遍路の最中は常に弘法大師と共にいるとされ、金剛杖はその象徴とされている。

また、複数人で巡っている場合でも、

「一人ひとりの遍路者と弘法大師」

という関係で、それぞれが同行二人になるという。

ただ、僕はここで疑問に思った。

弘法大師は一人の人間だったよね?

弘法大師とは、真言宗の宗祖である空海のこと。

空海は774年に生まれ、835年に高野山で入定した歴史上の人物である。

つまり、もともとは僕たちと同じ一人の人間だった。

そこで「弘法大師と一緒に歩く」と聞くと、どうしても現実的な疑問が浮かんでしまう。

全国に何人ものお遍路さんがいた場合、弘法大師はどうやって全員と同時に歩くのだろうか?

僕は車でお寺を巡っている。

弘法大師も車に乗るのだろうか?

座席は必要なのか?

シートベルトはどうするのか?

高速道路を使った場合、料金は払わなくてよいのか?

そもそも物理法則はどうなっているのか?

……などと考えてしまう(笑)。

もちろん、弘法大師やお遍路の文化をバカにしたいわけではない。

ただ、僕としては、

「つじつまの合う説明がほしい」

と思っただけである。


真言宗では「今も生きている」と考えられている

歴史的には、空海は835年にその生涯を終えた人物として扱われる。

一方、真言宗の信仰では、弘法大師は単に亡くなったのではなく、高野山奥之院で現在も永遠の瞑想に入っていると考えられている。

これが、

「入定信仰」

と呼ばれるもの。

高野山では現在も弘法大師に食事を届ける「生身供」が続けられており、弘法大師は今も人々を見守り、救済しているという信仰が受け継がれている。

その信仰を前提とすれば、

「弘法大師は今も遍路者と共にいる」

という同行二人の考え方につながる。

つまり、伝統的な説明としては、

「実際にはいない人物を想像するだけ」

というより、

「弘法大師は今も存在し、一人ひとりを見守り、共に歩いている」

という信仰になる。

ここは、信仰を持つ人の考え方として尊重したい。

ただし、弘法大師が現在も存在していることや、複数の人と同時に移動していることを、科学的・物理的に確認できるわけではない。

信仰上の真実と、科学的に確認できる事実は、同じものではないからだ。


「同行二人」を文字どおり受け取ると疑問が残る

僕は最初、

「弘法大師が隣を歩いている」

という言葉を、そのまま物理的な意味で捉えていた。

だから、

「一人しかいないのに、どうやって全国のお遍路さんと歩くの?」

「車の場合はどうするの?」

「高齢だったり、病気だったりした場合、一緒に歩くのは大変では?」

「もう十分に人々のために尽くしたのだから、ゆっくり休ませてあげた方がよいのでは?」

と考えてしまった。

仮に亡くなった人がこの世を見守っているという話であれば、まだイメージしやすい。

僕の場合は、弘法大師よりも、自分の父親やご先祖様が見守ってくれていると考えた方が自然に感じる。

ただし、

「見守る」

「一緒に歩く」

では、かなり印象が違う。

見守るのであれば、どこか別の場所からこちらを見ていると考えられる。

一緒に歩くのであれば、移動しなければならない。

こちらが車なら、追いつく必要もある。


そう考えると、やはり物理的な説明としては無理が出てくる。


『葬送のフリーレン』で考えると、しっくりきた

そんな話をしているうちに、僕の中で一番しっくりくる考え方が見つかった。

それが『葬送のフリーレン』に登場する、

「勇者ヒンメルならそうした」

という考え方。

ヒンメル本人は、その場に物理的に存在しているわけではない。

それでもフリーレンたちは、

「ヒンメルなら、どう考えただろう?」

「ヒンメルなら、どう行動しただろう?」

と考える。

その人が亡くなった後も、その人の言葉や生き方が、残された人の判断に影響を与えている。

これなら僕にも理解できる。

同行二人についても、

「弘法大師本人が物理的に隣を歩く」

という意味ではなく、

「弘法大師の教えや生き方と共に歩く」

と考えればよいのではないか。

道中で困っている人がいたとき、

「弘法大師ならどうするだろう?」

人から親切にしてもらったとき、

「弘法大師なら、きちんと感謝するだろう」

長い道のりで心が折れそうになったとき、

「弘法大師も厳しい修行を続けたのだから、もう少し頑張ってみよう」

と考える。

本人が物理的に隣にいなくても、その人の考え方や教えが、自分の中に存在している。

そういう意味で、

一人であっても、一人ではない。

これが僕なりの「同行二人」の理解である。


これは正式な教義そのものではなく、僕なりの受け止め方

ここは誤解のないように書いておきたい。

真言宗や四国遍路における正式な信仰では、弘法大師は今も人々と共にあり、一人ひとりを導いていると考えられている。

高野山真言宗も、同行二人について、

一人で巡拝していても、弘法大師と共に心身を磨き、常に弘法大師と共にある精神

として説明している。

そのため、

「同行二人とは、単に弘法大師の考え方を思い出すだけである」

と断定するのは正確ではない。

あくまでも僕は、信仰上の説明をそのまま受け入れるのではなく、

自分が納得しやすい形に置き換えて理解した

ということになる。

信仰として弘法大師の存在を感じる人がいてもよい。

弘法大師の教えを心の支えにする人がいてもよい。

自分の父親やご先祖様に見守ってもらっていると考える人がいてもよい。

また、特別な霊的存在を信じず、自分自身と向き合う旅として歩く人がいてもよい。

お遍路をする目的は、人によって違う。


大切なのは「誰と歩くか」より「どう歩くか」

同行二人という言葉を、文字どおり受け取ると、僕のように疑問を感じる人もいると思う。

弘法大師は一人なのに、どうして何人もの人と同時に歩けるのか。

車やバス、飛行機で移動する場合はどうなるのか。

物理法則はどうなっているのか。

そうした疑問を持つことは、信仰をバカにすることではない。

分からないものを、分かる形に整理したいだけである。

僕の場合は、

「ヒンメルならそうした」

と同じように、

「弘法大師なら、どうしただろう?」

と考えながら行動することだと捉えた。

それなら、弘法大師が何人にも分身する必要はない。

車に乗る必要もない。

高速料金を払う必要もない(笑)。

弘法大師の教えや生き方が、自分の中に残っていればよい。

本人が物理的に隣にいなくても、判断や行動に影響を与えているのであれば、広い意味では一緒に歩いていると言えるのかもしれない。

そして僕自身は、弘法大師だけでなく、

父親やご先祖様、これまで自分に影響を与えてくれた人たちの考えも一緒に連れて、お遍路をしていけばよいと思っている。

誰かの言葉や生き方を思い出しながら歩く。

その結果、普段より少しだけ人に優しくなったり、自分自身を見つめ直したりできる。

それが僕にとっての、

「同行二人」

なのだと思う。

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