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京都探訪 嵐山・西山付近(下)

最終日には桂離宮を訪れる(事前申し込み必要)。型通りの手続きを終え、ガイドに続く。中に一歩入ると、庭を巡るまでもなくその気配に一驚する。それは作庭の粋というより、手入れの深さだろう。植物や建物は言うまでもなく、踏み石の一つ一つにまで気配りが感じられるのだ。
 庭は複雑な形状の池を風景の中心とした回遊式で、中島や築山で自然を模し、数寄屋風の書院と茶室、灯篭や手水鉢を配し、その周囲には盆栽のように手入れされた樹木や苔が置かれている。回遊中に展開する景色は、寺社仏閣や大名屋敷の庭園とは違う、どこか雅を感じさせるものだ。
 元はと言えば、後陽成天皇の弟・八条宮(智仁親王)が設けた別荘だ。後に加賀前田家の援助を受け整備が進み17世紀半ばに完成した。八条宮は明治時代に絶えたため、宮内省所管となり今日に至る。皇族の贅沢や遊興のための施設には違いないが、近世の日本文化を体現していることも確かだ。
 駅への道中で下桂御霊神社に出あう。市内の御霊神社は怨霊の早良親王を祀るが、ここは橘逸勢(はやなり)を祀るらしい。逸勢は三筆の一人ながら承和の変で失脚し、伊豆に流される道中で客死した。死後に名誉回復されたことから推察して逸勢は冤罪で、その怨霊を鎮めるための神社なのだろう。
 承和の変とは承和9年(842年)に起きた政変だ。当時の皇位は嵯峨(52代)、淳和(嵯峨の弟)、仁明(にんみょう:嵯峨の子)の順で、皇太子(次期天皇)は恒貞親王(淳和の子)だった。ここで恒貞親王側の貴族に謀反の嫌疑がかかり、皇太子は道康親王(藤原良房の妹と仁明の間の子、後の文徳天皇)に替えられた。
 橘逸勢は主犯格とされ、伴健岑(隠岐へ配流)など数十名も連座し、名門の橘氏と伴氏はこれを機に衰えた。一方、良房は史上初の摂政に就任、外戚(文徳の岳父、清和の祖父)となり、藤原氏栄華の途を拓いた。特異なのは、逸勢の同族でいとこにも当たる橘嘉智子(嵯峨の皇后、仁明の母)が良房側についたことだ。
 ここで先日参拝した梅宮大社に嵯峨、橘嘉智子、仁明が祀られていたことに思い至る。確かに仁明が天皇になったことは母・嘉智子の喜びであり橘氏の繁栄にもつながる。しかし、同族の逸勢は憂き目に遭い、結果的に橘氏は衰退したのだ。梅宮大社で感じた物悲しさは、この無念の歴史が理由だったのだろうか。(了)

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