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自己資金9万円で始めた会社が、借金2.4億円になった。だが、ここまでは全部、助走だった。

自己資金9万円で会社を始めた。20年経った今、借金は2.4億円ある。笑われるかもしれない。でもこれは、転落の話じゃない。まだ終わっていない人間の話だ。


9万円で始めるしかなかった

正直に言う。9万円での創業は、そうせざるを得なかったからだ。

当時は本当にお金がなかった。

独立前、パートナーが働いて支えてくれるという話があった。ただ、「計画」と呼べるほどのものでもなかった。淡い期待、くらいのものだ。

その彼女が、重度のうつ病を患っていることが分かった。今思えば、そのトリガーを引いてしまったのは自分だったかもしれない。当時はうつ病というものがまだ一般的ではなく、どう向き合えばいいのか、まったく分からなかった。

ただ、状況は動かなかった。「これはもう、自分一人でやるしかない」と覚悟を決めた。


最初に勤めた木工所は技術力が高いところだった。だが給与体系が特殊だった。入社時は日給5,000円。これに1時間800円という謎の残業代がつく。最初は、どんなに頑張っても月収20万円に届かなかった。
(補足:当時は個人事業主で法人では無かった)

腕を上げるごとに日給は上がっていったが、半年で8,000円。そこで頭打ちだった。毎日夜11時まで残業して、ようやく月30万円。それでも「このまま待っていては時間がかかりすぎる」と思った。

「それならば、もう自分で始めてしまおう。」

工場を辞めて、独立宣言をした。


その直前、先輩からちょっとした仕事が入った。広告業界にいた頃の先輩からの依頼で、撮影用の立体物、積み木のようなものだった。

報酬は18万円ほど。道具代と材料代に9万円使った。手元に残るというより、9万円が18万円の実績に化けた。

そんな感覚でスタートした。


宣言と、先輩たちの恩

独立してまず考えたのは、ちゃんと「宣言」をすることだった。

グラフィックデザイナーだった経験を活かし、まず自分の屋号とロゴマークを徹底的に考えた。そしてかつてお世話になった会社の社長や先輩方を訪ね歩き、「こういう仕事を始めます」と伝えて回った。

するとご祝儀相場というのか、みなさん応援の気持ちを込めて仕事をくれた。それぞれのオフィスで使う家具を、数百万円分もオーダーしてくれたのだ。

あの時の社長たちや先輩たちには、今でも感謝しかない。


モヤモヤが消えた日

最初は以前いた会社の親方に外注で作ってもらっていた。なんとなく形にはなっていたが、自分の中に引っかかりがあった。

せっかく「作ること」をやってきたのに、自分は全く作っていない。当時の自分にとって「作る」とは、工(作)の字の通り、まず手を動かすことだった。とにかく自分の手で形にしたかった。工場に任せきりにするのは、そもそも成り立ちとして違うんじゃないか。そのモヤモヤがずっとあった。

空間を造り、価値を創り、繋がりをつくる、そんな広い意味での「つくる」に気づくのは、もっと後のことだ。

もう一つは、お金が全く残らなかったこと。

そんな時、親方の友人の職人さんが工場を引っ越したという話が入ってきた。持て余すほど広い工場で、「空いているスペースがあるから安い家賃で間借りしないか」という話が持ち込まれた。

迷わず入らせてもらうことにした。運が巡ってきた、と感じた。

工場を持ってから、「工場がある」「自分が作れる環境がある」ときちんと伝えられるようになった。それだけで信頼感が生まれた。受注量はみるみる増えていった。


ほぼ徹夜の3ヶ月

そんな中、以前勤めていた会社の先輩の友人を紹介していただいた。インテリアデザインや内装デザインをやっている方だった。

その方が、急成長中のアパレル会社の社長と仲が良かった。次々と小さなアパレルショップを出店していく計画があり、そのすべての木工をやってくれという依頼だった。

1日17時間働いた。日中に製作して、夜中に現場へ行って取り付けをして、また戻って日中に作る。ほぼ徹夜状態の3ヶ月だった。

3ヶ月で約700万円の仕事を、一人でこなした。

その結果、350万円の貯金ができた。それを「見せ金」として日本政策金融公庫の創業支援融資を受けることができた。初回の面談はわずか10分。「あなたの熱意が伝わりました」という言葉とともに、即日750万円が振り込まれた。

生まれて初めて、口座残高が1,000万円を超えた。

9万円から始まった話が、ここまで来た。


あの時、AIがあったら

あれから20年。今、思うことがある。

たら、れば、の話をしても仕方ないが、
あの頃、AIがあったら劇的に違っていただろうな。

当時の自分は、通帳の記帳内容だけを見て、ざっくりとしたお金の動きをなんとなく掴んでいるだけだった。何にどれだけ使われているかも分からない。今日どれだけプラスになったのか、マイナスになったのかすら、なんとなくでしか理解できていなかった。

ただ一つだけ、絶対に守ると決めていたことがあった。

給料、材料屋さん、協力業者さんへの支払いだけは、絶対に遅らせない。

その意識だけが働いていた。だから足りなくなる。足りないから借りる。それを繰り返していた。

お金の全体像を把握するだけで、借金の増え方は全然違っていたはずだ。給与計算もそうだ。でも当時の自分には、そんな概念すらなかった。

去年、「Second Brain」という本を読んだ。自分の思考をデジタルで再構築するという考え方だ。ObsidianというツールにClaudeというAIを連携させた時、何かが変わった。

ものづくり会社のCEOが、経営の数字もAIの使い方も、全部リアルタイムで語る。自分の知る限り、そんな人間はいない。

もしあなたが、昔の自分と同じように「通帳の残高だけ見て、なんとなく」経営しているなら。
この記録は、たぶん役に立つ。

だったら、自分がやればいい。


それでも、借金2.4億円

借金が2億円を超えた瞬間というのは、あまり覚えていない。

蓋を開けてみたら「もう2億円もいっているんだな」と、ぼんやり思った。

正直、当時は全く怖くなかった。たかが2億だと思っていた。ろくに書類も通さず、銀行員と話すだけで2億円も借りられたもんだと、むしろ誇らしくすらあった。

そんな自分がどれだけバカだったかは、後で知ることになる。


現実は甘くはなかった。

銀行からは「これ以上貸すことはできない」と言われた。借金の返済は金利を含めて月に240万円になっていた。当然、キャッシュが回らない。

リスケをするのにも相当な苦労をした。そして今現在、いまだに銀行からは新たな借り入れをすることができない。

これが一番苦しい。

成長フェーズに入ったのに、資金調達ができない。

これが経営の現実だ。


だから、全部話すことにした

このnoteに、きれいごとは書かない。数字を隠さない。失敗を隠さない。迷いも書く。

「あの時AIがあったら」「あの時セカンドブレインという概念があったら」
そんな視点で、過去の自分と今の自分を対比しながら書いていく。

細かいエピソードはいくらでもある。これから少しずつ話していく。

会社からの役員報酬に頼らず生きていける、そんな経済的自由を手に入れるまでの過程を、ここに全部残す。

きれいごとは一切無し。
社会への忖度も一切無し。
書き続ける。

助走は終わった。
ここからは、楽しんで駆け上がってゆく。

9万円から始まった話の続きを。

DW

→ その続きの1本目:資金繰りに詰まって、5,000万円の仕事を無理やり取った。粗利は、ほとんど残らなかった

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