試訳 Cezanne: A Life by Alex Danchev, Pantheon , 2012
序章 よく見える眼
後世におよぼす影響の大きさでは群を抜く展覧会が一九〇七年一〇月一日、パリで開幕した。サロン・ドトンヌ展の一環をなす「セザンヌ回顧展」は、没後一年を経て初めて開かれた回顧展である。シャンゼリゼー大通りに面するグラン・パレの二部屋が、作品五六点の展示に充てられた。セザンヌの作品がこれほどの数まとまって人々の眼に触れるのは、それまでにないことだった。
だれもが会場に足を運んだ。ひとびとは観るため見られるため、感歎しに茶化しに、議論し、画布をつぶさに検め、話に聞くばかりであった事柄について自分なりの判断を固めるために、セザンヌが何に取り組んできたのかを探り、どのような手段を用いたかを見抜こうとして、できることならそれを利用する心づもりで会場を訪れた。なかには毎日出かけた者もある。
一九〇七年の時点で、サロン・ドトンヌ展は伝統を誇るには至らない。一九〇三年に発足した催しの主たる目的は現役作家の新作、一言でいうならモダンアートを世間にお披露目すること。創設された経緯自体が既存のサロン(官展)、フランス芸術家協会の主宰する官展をへこましてやろうという不遜な反抗心に発する計算づくの行動だった。フランス芸術家協会が反動的な組織であることはいうまでもなく、セザンヌは事大主義を絵に描いたようなこの団体を、ウィリアム・ブーグロー会長の名にちなみサロン・ド・ブーグローと呼んだ。ブーグローは女性の官能美を讃える絵を量産した。天使のような乙女に寓意をふくむポーズをとらせ、臀部をふくよかに描いて、大家は天文学的な画料を請求した。ブーグローはこの方針を貫いてひとの望みうるすべてを手に入れた。長年にわたり上品な古典主義絵画の第一人者、アカデミーの象徴として君臨し、絵の技巧と世俗の栄誉を極めたとされ、本人もそれを自認した。自惚れもまた、このような地位に見合い桁外れに肥大した。ひとの噂によると、ブーグロー本人の勘定では、絵筆を休めて用を足すたびに、懐に入るはずの五フランが失われたという。
世紀の変わり目が近づく頃には、ブーグローの権威はいたるところで綻びはじめたけれども、だれもそのことを注進しようとはしない。画家たちの間では、ブーグローの画風、人格のいずれも嘲りの的となった。ドガとその友人たちは、チョコレートの包装箱にこそ相応しい俗っぽく甘ったるい絵を十把一絡げに、「ブーグロー化された」絵と呼ぶようになる。税関吏ルソーはリュクサンブール美術館でブーグローの作品に見入っているところを、うら若いフェルナン・レジェとアヴァンギャルド仲間に見とがめられ、さんざんからかわれた。ところが税関吏は描く絵ほど初ではない。「指の爪のハイライトを見てごらん」とルソーは若者たちに勧める。爪は見事に「ブーグロー化」されていた。こうした表現効果を拝借した画家は少なくない。一方その間も公的援助の行方は旧態依然のままだった。サロン・ド・ブーグローがへりくだってポール・セザンヌを受け入れる気配は、どこにも見当たらない。
現役の画家にとって表玄関の構えも厳めしいグラン・パレの会場に絵を展示できるチャンスは、お粗末な売り絵ばかりのサロン絵画をどう思うかはべつにして、願ってもない環境変化にはちがいない。ところが世間の烏合の集にとって、「新しい作品」は「新奇な流行り物」にすぎず、「現役画家」は形容矛盾としか思われなかった。モダンアートは馴染みが薄く、公共の場にもちだすのは破廉恥とされた。現役画家の作品がルーヴル美術館に展示されることはあり得ない。美術館は、元来が死者のためにある。そこに展示される作品はある種の基準にしたがうものでなければならない。技術的に優れ、人物は素性の見分けがつき、物語は読み取りやすく、空は青、木々は緑と決まっていた。絵に見入れば心楽しくなるか懐が温かくなるか、あるいはその両方でなければいけない。こうした基準に照らすと、モダンアートはどうしても不細工な判じ物に見えてしまう。結論はあきらかだった。とうしても描きたいというのなら、物の分かった大人が人目に立たない場所に集まって行うべきである。とりわけ物分かりのよい者でさえ、理解に苦しむこともしばしばで、ときにはどうしても受け入れがたく感じた。ピカソのアトリエで後に《アヴィニヨンの娘たち》になる絵を見たアンドレ・ドランは、「このような絵は行き止まりにほかならず、どん詰まりには自殺のみが待ち構えている。いつか晴れた日に、わたしたちはこの巨大なカンヴァスの裏側で首を吊るピカソを見いだすだろう」と辛辣な言葉を口にした。
セザンヌの絵に眼を慣らすのは並大抵のことではなかった。絵そのものがまず大いに神経を逆撫でする。初対面であれば、訳がわからないならよいほうで、耐えがたいと思うひともいるだろう。そのうえ、中途で放り出してあり、仕上げはどうにも難しいように見受けられる。セザンヌは伝統的な礼儀作法の許す範囲を踏み外す。本人は多くの面で文明人の手本に違わなかったものの、文明に伴う作法やしきたりにはうんざりだった。この気分はつきあう相手の心にも、そっくりそのまま植えつけられる。生涯を通じて、セザンヌは野蛮人とみなされた。セザンヌは世間から受け入れられず、路傍に生きた。作家ジュール・ルナールは一九〇四年にサロン・ドトンヌを訪れ、カリエール、セザンヌ、トゥールーズ=ロートレック、そしてルノアールの作品と出会う。「カリエールはよろしいが、些か飾りすぎか。ロートレックは達者な技に悪徳を忍ばせる。セザンヌは野蛮人。絵具を操るこの大工を好きになるには、よほどの屑まで愛好せねばならないだろう。ルノアールはおそらくこの中で最も才能に恵まれ、素晴らしい!」(1)
野蛮人の描いた絵にはありとあらゆる不備と歪曲があった。支持者、誹謗者の別なくただ一点、セザンヌは変わっているという見方で一致した。セザンヌの物の見方はほかのひととは違い、傾いている。本人は「傾向的画家」を自称した。意味は曖昧で、いかにもセザンヌの口にしそうな、解釈しづらい表現である。セザンヌの絵では、垂直の交わりを潔しとしない。ジョアキム・ガスケの夫人は、夫がじつにしばしば傾斜地にイーゼルを立てて絵を描くセザンヌの姿をみかけたと語っている。絵の中のものが傾いている理由に、これで説明がつくのだろうか。「大差ないな」がセザンヌの口癖だった(2)。イーゼルの角度がどうなっていようと、セザンヌにはどうでもよかった。
しくじりを見つけるのはいともたやすい。効果のほどを測るのは至難の技。大理石と縞瑪瑙で飾ったポール・ロザンベールの画廊を訪ね、セザンヌの風景画の前で呆然と立ちつくす客にまつわる次のような話が伝わっている。こんな絵は今まで見たことがないと言う客に、ポール・ロザンベールがその誤解を正した。「いえ、そうではございません」。画廊主はもったいぶって口を挟む。「その絵は風景画ではありません。大聖堂を描いたものでございます」(3)。この類の話は枚挙に暇がない。アポリネールはこれをテーマに、サロン・ドトンヌのフランツ・ジュールダン会長が回顧展の出品作を選ぶ姿を諷刺する一文を残した。示唆に富むこの空想譚では、ジュールダンがセザンヌの絵を観ようとグラン・パレを飛び出してベルネム=ジューム画廊に駆けつける。後には審査委員会のメンバー三名が、ひとりは会長の好物のキャンデーの箱、もうひとりは痰壺、残りのひとりはハンカチーフを手に随行する。
画廊に到着するや会長はセザンヌの見事な作品めがけて殺到する。その絵が赤い、セザンヌ夫人の肖像であることは断るまでもない・・・つづいて会長は風景画に目を向けた。会長は一目散に、狂人のように走ったけれども、セザンヌの風景はカンヴァスではなく、風景「そのもの」だった。フランツ・ジュールダンはその中に飛び込み、水平線の彼方へ姿を消した。なぜなら、地球は丸いからである。スポーツの好きな画廊の若い店員が歓声を挙げた。「あの方、きっと地球を一周するでしょうね!」
幸い、そうした事態は免れた。その場に集まった面々は、フランツ・ジュールダンが顔を真っ赤にして、息もたえだえ再び姿を現すのを目にした。初めのうち、会長は風景の中でたいへんに小さく見えたが、こちらに近づくにつれてその姿は大きくなった。
画廊に帰り着いた会長は、いささか照れくさそうに、額の汗を拭った。そして「まったく手に負えん、セザンヌって奴は」と呟いた。「手に負えん」
「ご一同」と会長は声をあげた。「この絵が立派でないとは誰にも言わせませんぞ」
「わたしに言わせれば」とルオーが言葉を返す。「あの手は切り株ですな」
フランツ・ジュールダンはしばし口を噤んだ。かれの鎧(主張)にはたしかに裂け目(綻び)があったからである。会長にとって絵は突き詰めるとただ一点、次の問いに懸かった。手は切り株か、あるいは否か。何を言おうと、何をしようと、この切り株だけは避けて通れない。しかし二〇年も称賛しつづけた挙げ句に、セザンヌをよいと思う訳が自分でもわからないと認められるはずもなかった(4)。
一章 拙く描き、拙く記す
中学生のポール・セザンヌ少年は感じやすく、気性が荒かった。一三歳で身の丈はすでに大人に近い。エクス・アン・ブロヴァンス市ブルボン中学の通学生になったのは一八五二年。通学生は自宅--セザンヌの場合には市街の中心部、学校からは徒歩一五分の距離にあるブルジョア式邸宅--で寝泊まりし、目覚めている時間の大半、つまり朝の七時(夏には六時)から夕方七時までを学校で過ごす。エクス市中の家庭の大半と同様、セザンヌ家はこうした時間の割り振りを活かし、公教育と家庭の躾けをほどよくとりあわせた。学校案内も言葉巧みに、食事とおやつ代込み年額わずか三〇〇フランでそれが可能と謳った。入学以降四年間の学校生活はこうして過ぎる。卒業までの二年間、食事は家に帰ってとった。その頃までに学校の集団生活によく馴染んだか否かについて、確かなことは判らない。
頭が良く元気なのにどこか内向的な少年は、同級生となんとかうまくやっていける程度には賢く、またしぶとかった。百編のラテン語の詩をすらすら翻訳し、二フラン稼いだのが自慢の種。「わたしは商売人だったのさ、たいしたものだろう!」セザンヌが商才を発揮したのは、この日限りとなる。心に期するものがあったにしても、うまく言葉に表すのに難儀した。仲間うちでは、冒険好きとみなされた。冒険とは少年のだれもが胸を焦がす類の、健全な営みに詩の趣を少々添えたもの。娘たちには手がとどかない。憧れるのは構わないが、誘いの声をかけるのはもってのほか。求愛とはお目当ての少女に遠くから恋唄を囁くことにほかならず、利かん坊も高嶺の花の前で手をこまねくばかり。心の中ではロマンティックな恋情と肉欲の衝動が、因習的な抑圧とせめぎあう。セザンヌには何につけ自信がもてないけれども、エクスは慣れ親しんだ土地である。ここなら、土地の流儀もわきまえている。方言、または御国訛りもお手の物。セザンヌが話すのは土地言葉だった。
一年下に小柄なエミール・ゾラ少年がいた。こちらは寄宿生である(2)。エミールは同級生とうまく馴染めない。自伝そのものとも読める処女作『クロードの告白』(一八六五年)の主人公は、「学生時代を泣き暮らした」と言う。「わたしの自尊心は親愛の情に溢れていた。けれどもわたしはよそ者で、自分から打ち解けようとせず、仲良くしてもらえなかった」(3)。エミールには土地言葉が話せない。どもりのうえに、パリ風のアクセントがあった。名前も耳に馴染みが薄く、しかも父が無い(父親はエミールが六歳の年に胸膜炎を患い他界した)。母親と祖母が毎日面会にやってきた。そのために休憩室が用意されていた。檻に入れられた熊のような寄宿生の間で、エミールは弱虫とみなされる。どうみてもプロヴァンス地方の出とは思えない。エミールは気に懸けなかった。侮辱されれば、激しくやりかえした。同級生はエミールを「フランス野郎」と蔑む。エクスのブルジョアに混じると、エミールの毛色の違いが目立った。仲間はぽっちゃりしているのに、エミールは痩せぎす。しかも悪いことに、貧乏だった。ゾラの初期作品にはろくでなしのブルジョアに対する侮蔑が脈打っている。小説の結びの言葉は、しばしば作者の真意をうかがわせる。『巴里の胃袋』(一八七三年)の最後の一行にはセザンヌを思わせる人物の捨て台詞--セザンヌが実際に好んで口にした言葉--、甘い汁を吸って肥えた輩を呪う「堅気な方々くらい厭な奴はないな」が記されている。
ゾラは名声と体面を渇望した。ブルボン中学では、どちらにも恵まれない。ゾラは奨学金を貰う「給費生」であり、施しにすがって暮らしていた。「おもらい」と同級生から詰られた。「寄生虫」と嘲る者もある。殴られることもあった。まったく口をきいてもらえないこともあった。「何かにつけて仲間外れにされていた」とセザンヌは当時を回想する。「わたしたちの友情の根っこはそこにあるのさ。法度など気にかけず、平気で無視したから、校庭では大小とりどり誰からも拳固を食らわされた。それでも話しかけないわけにはいかなかった。立派な奴だもの。翌日、エミールは大きな籠にリンゴをたくさん入れてもってきてくれた」
およそ四十年の後、友人アンリ・ガスケの息子ジョアキム・ガスケ青年にこの思い出話を語りながら、セザンヌは目配せをひとつ、こう言い添えた。「セザンヌのりんごだよ、わかるかい、あれには長い経緯があるのさ」(4)。りんごはセザンヌの中心テーマであるばかりでなく、すっかり(D.H.カーンワイラーはいみじくも all roundと形容した)知り尽くすことのできた主題でもある。セザンヌのりんごには意味と複雑な感情がこもっている(5)。
2013年1月21日作成
※『セザンヌ』はみすず書房から二見史郎他訳で今年2015年に刊行された。
