第10回 理解できない他者と共にいるための翻訳
前回、「わたしたち」が立ち上がる条件について考えた。
情報が共有されるだけでは足りない。その人が見ていた景色—どんな状況のなかで判断していたのか、何が重要に見えていたのか—が届かなければ、「わたしたち」はなかなか立ち上がらない、と。
今回は、その景色についてもう少し考えてみたい。
ちょっと長くなってしまったので、先に全体像を図にすると、こんなイメージになる。このイメージとともに、読み進めてもらいたい。

1. 景色と文脈
ここで、政治哲学者ハンナ・アーレントの議論を少し借りたい。
アーレントは、人間は同じ世界(world)を生きながらも、それぞれ異なるperspectiveから世界を見ていると論じた。
perspectiveという言葉には、「視点」だけでなく「遠近法」という意味もある。
日本語ではしばしば「視点」と訳される。しかし私には、この訳だけでは少し平面的な印象がある。
「視点」という言葉から私が連想するのは、一つの点から対象を眺める構図だ。まるで小さな穴から向こう側を覗いているようなイメージである。
しかしperspectiveには、どこから見ているかだけではなく、そこから何が見え、何が見えないのか、何が近く感じられ、何が遠く感じられるのかまで含まれているように思う。
そこで本稿では、アーレントのperspectiveをひとまず「景色」と読み替えながら考えてみたい。
私がこれまで「景色」と呼んできたものも、このperspectiveと重なる。何が見えていたのか、何が重要だったのか、何を問題だと思っていたのか。
そうしたものを含んだ、その人なりの世界の見え方である。しかし、景色だけを見ても、私たちは必ずしも相手を理解できるわけではない。同じ言葉を聞いても、「なぜそう考えるのか分からない」と感じることがある。
景色は見えているが、その景色がどのような経験や条件のなかで立ち上がっているのかは見えていない。しかし、話を聞いているうちに、「ああ、この人にはそう見える理由があったのか」と思うことがある。逆に言えば、その理由が見えないとき、私たちは景色だけを見て相手を判断してしまう。
ただし、その理由は最初から本人に明確に意識されているとは限らない。むしろ対話のなかで、「ああ、自分はそう感じていたのか」と少しずつ見えてくることもある。
私が前回「状況イメージ」と呼んだのは、そのような文脈だった。どのような経験をしてきたのか、どのような制約のなかにいるのか、何を大切にしているのか、なぜその人にその景色が見えているのか、などそうした文脈である。
アーレントにとって、perspectiveが異なること自体は問題ではなかった。むしろそれが共同性の前提だった。
問題は、他者のperspectiveが想像できなくなることだった。もちろん、私たちは他者の景色をそのまま共有することはできない。しかし、「自分には見えていない景色が相手には見えているかもしれない」と想像することはできる。
あるいは、その景色の背後には、自分の知らない文脈があるのかもしれないと考えることはできる。
本稿では、そのような状態を「想像可能性」と呼んで論を進めてみたい。
2. 翻訳は何を運ぶのか
では、その想像可能性はどのように生まれるのだろうか。
私は最近、その問いを「翻訳」という言葉で考えている。
翻訳とは、translateの語源である「向こう側へ運ぶ(translatus)」から来ている。
それは単なる言葉の置き換えではない。
本を読むとき、私たちはその人が見ていた景色に少し触れることができる。インタビューもそうだ。話を聞いて理解したつもりになり、図にしてみる。すると「少し違う」と言われる。また話を聞く。そうした往復のなかで初めて、その人が何を見ていたのかが少しずつ見えてくる。
翻訳とは、すでにある意味を運ぶことだけではない。
まだ輪郭を持たない経験を外化し、他者へ渡せる形にしていく営みでもある。
もちろん、他者の景色をそのまま共有することはできない。しかし翻訳によって、その景色を支えている文脈に触れることはできる。
「そういう事情があったから、あなたにはそう見えていたのか」そう思えたとしても、私は同じ判断をしないかもしれない。それでも、その人にはそう見える理由があるのだと想像することはできる。
翻訳によって、私たちは他者を理解できるようになるわけではない。むしろ、自分がまだ理解していないことに気づかされる。
翻訳がつくり出しているのは、理解ではなく想像可能性なのかもしれない。
つまり翻訳とは、異なる景色のあいだに想像可能性をつくり続ける営みなのである。
3. 理解が想像可能性を閉じるとき
しかし、翻訳によって生まれた想像可能性は、とても壊れやすい。
人は相手を理解しようとする。しかし理解したと思った瞬間から、相手を固定化し始める。
私たちは限られた時間のなかで世界を把握している。けれども、「分かった」と思った瞬間に、想像可能性は閉じ始める。
親になった人が、「母親」という役割だけで語られることがある。病気を経験した人が、「患者」という言葉のなかに閉じ込められることもある。
しかし実際には、人はもっと複雑だ。
本来、人は複数の側面を持っているにもかかわらず、私たちはしばしば一つの属性や役割を通して他者を理解した気になる。固定化とは、その人について理解したと思い込むことなのかもしれない。
その瞬間、私たちはその人にまだ別の景色があるかもしれないという想像可能性を失う。
翻訳が生み出していたのは、理解そのものではなかった。他者にはまだ自分の知らない理由や事情があるかもしれない、という感覚だったのである。
4. 翻訳を支える人々
そして、その想像可能性は自然には生まれない。
異なる景色のあいだを行き来する人々がいる。インタビューする人、記録する人、調整する人、ケアする人。
そして私は最近、文化芸術の現場における制作者もまた、その一人なのではないかと思うようになった。
制作の仕事はしばしば進行管理や調整として語られる。
しかし実際には、創作者、技術スタッフ、劇場、観客など、それぞれ異なる景色を持つ人々のあいだを行き来している。
制作とは、翻訳の仕事でもあるのではないだろうか。
しかし、その仕事は見えにくい。翻訳がうまく機能しているとき、人は翻訳が存在していたことに気づかない。
だから翻訳者もまた見えにくい。
それは、この連載で繰り返し扱ってきた「見えない労働」とよく似ている。問題が起きなかったときほど、それを支えていた人は見えなくなる。
翻訳もまた、そのような仕事の一つなのだと思う。
5. 翻訳が支えていたもの
ここでようやく、この連載で繰り返し扱ってきたテーマ「創造を支えるもの」へ戻りたい。
見えない労働、継承されない実践、関係性が続く条件、「わたしたち」が立ち上がる瞬間。
私は長い間、それぞれ別の問題だと思っていた。しかし振り返ると、そこで失われていたものは案外似ている。
問題になっていたのは、情報不足ではなく、翻訳だった。
実践知が継承されないとき、失われるのは手順だけではない。なぜその判断をしたのか、何を大切にしていたのか、どのような状況のなかで実践が生まれたのか、そうした文脈が失われる。すると後から来た人は、その実践を想像することが難しくなる。だからアーカイブやインタビュー、記録が必要になる。
振り返ると、アーカイブも、インタビューも、ケアも、制作も、すべて翻訳だった。
6. 他者を理解できないまま共にいる
私は長い間、共同性とは理解し合うことだと思っていた。
しかし最近は少し違う考え方をするようになった。
私たちは他者を完全に理解することはできない。その人が見ている景色を、そのまま見ることはできない。その人が生きてきた人生を、そのまま経験することもできない。
だから共同性とは、同じ景色を見ることではない。では、何なのだろうか。
私は、想像可能性を失わないことなのではないかと思っている。「この人はこういう人だ」と結論づけないこと。「まだ自分の知らない景色があるかもしれない」と思い続けること。理解しきれない他者を、それでも単純化しないこと。
考えてみれば、ケアもそうだった。ケアとは相手を理解することではない。理解しきれない他者に対して、それでも関心を持ち続けることだった。
制作もまたそうだ。異なる景色を持つ人々のあいだに立ち、関係が続く条件を支えている。アーカイブも、インタビューも同じである。
それらは他者を理解し尽くすための技術ではない。理解しきれない他者への想像可能性を支える技術なのだと思う。
そのために翻訳が必要になる。翻訳は他者を理解させるためのものではない。理解しきれない他者への想像可能性を支えるためのものだ。
翻訳によって、私たちは他者を理解できるわけではない。むしろ、自分がまだ理解していないことに気づかされる。しかし、その気づきがあるからこそ、相手を一つの属性や役割へ閉じ込めずに済む。
共にいることは、理解し合うことではない。理解しきれない他者に対して、それでも想像し続けることなのかもしれない。
そして、その想像可能性を支えているものを、私は翻訳と呼びたい。
おわりに
翻訳というと、私たちはつい外国語を思い浮かべる。しかし今回考えてきた翻訳は、言葉の置き換えではなかった。
それは、自分には見えていない景色があるかもしれないと想像し続けるための営みだった。
もちろん、それで他者を理解できるわけではない。理解できないまま終わることもある。それでも、その人にはそう見える理由があるのかもしれないと思い続けることはできる。
私は最近、文化芸術が担っているものも、そのような営みなのではないかと思うようになった。物語は誰かの人生を運び、アーカイブは誰かの実践を運び、インタビューは誰かの経験を運ぶ。
それらは情報を伝えるだけではない。誰かが見ていた景色や、その背後にあった文脈を、別の誰かへ手渡そうとしている。
翻訳とは、他者を理解するための技術ではなく、他者を無かったことにしないための技術なのかもしれない。
理解できない他者と共にいること。そのための翻訳について、これからも考えていきたい。
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