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【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日1



””大人だってループしたい。
終わらせられる恋愛って、そんなに悪くない。
静かなタイムループで綴る恋と受容の物語””

8月21日、木曜日。
29歳の杉田亮介は、恋人との関係を曖昧に抱えたまま、ある日突然、“同じ木曜日”を繰り返すループに囚われる。

すこしずつズレの生じる反復の中で、
彼が見つけたのは「変えられる未来」ではなく、
これまで目を逸らしてきた想いの輪郭だった。
センチメンタルな木曜日のループが映し出す、感情の輪郭と、その先に続く静かな選択。

これは、“さよなら”をめぐる木曜日の物語。

プロローグ たそがれの木曜日



今年18日連続の猛暑日です、とお天気キャスターは場違いなくらい涼しげな顔でそう告げていた。もう「観測史上初」という言葉にも、誰も驚かなくなった8月の木曜日だ。

商談を終えて中目黒駅へと向かう。工事中の看板を抜けると、アスファルトは油を吸いこんだように黒く、マーカーペンの匂いが鼻に残る。陽炎の向こうでは作業車が排気を吐き、熱気がひりひりと肌を刺した。
ほんの数分歩いただけなのに、汗が額からしたたり落ちて、足は自分のものではないほど重い。ふと下を見ると靴紐が解けかかっていた。歩道の端にしゃがみ込んで靴紐を結び直す。
つま先のワックスが剥げ、つややかな漆黒がところどころ墨色に沈んでいることに気がついた。
──今度の休みに手入れをしよう。
そう思いながら立ち上がると、目の前で

『ハッピーアワー
18時30分まで ビール一杯400円』

と手書きの張り紙が揺れているのが目に入った。
張り紙は夕暮れの日差しを受けて、オレンジ色に染まっていた。時間を確認する。定時までは、あと10分。

張り紙に誘われるように扉を押すと、店内は冷凍庫のように冷えきっていた。
熱気に焼かれた身体には、ここがオアシスのように思える。ネクタイを緩めて息を吐くと店員が声をかけてきた。

「一名様ですか?カウンターでもよろしいでしょうか?」

うっすら額に汗をかいた若い男性店員に案内され、カウンターへ腰を下ろす。タブレット端末を操作して生ビールを注文した。
ほどなくして、きゅうりと蛸の酢の物のお通しと、ジョッキになみなみと注がれたビールが目の前に運ばれてくる。
泡が静かに昇っていくのを見ているだけで、体の芯がほどけていく。

──そうそう、これこれ。
週の終わりが見えてきた木曜日、あと一日を乗り切るためにも、いざっ。

勢いよくビールを流し込むと、喉がごくごくと鳴った。近くでは、新卒らしいサラリーマンたちが、時折大きな笑い声をあげている。

「あいつさぁ、もう令和なのにハラスメントって概念ないのかよ」

酔った誰かの声が届く。
数年前のことなのに随分昔に思える。あの時間に戻れたら、とふと思う。けれど、戻れたところで、今の自分が選び直せるとも思えない。
同じ木曜日のはずなのに、俺だけ時間の流れが少し違う気がした。空になったジョッキの泡を眺め、タブレットに手を伸ばした。

「とりあえず生に、冷やしトマト、冷奴、あとはー」

つい、冷たくて早く出てくるものばかりを選んでしまう。そのとき、スマホが震えた。会社支給の方だ。

『東日本成和製薬株式会社
ライフ&ヘルスケア第三事業部
営業部 杉田亮介すぎたりょうすけ様』


これが今の立ち位置だ。業界では中堅どころの製薬会社に入社して七年目。希望していた部署には行けなかったが、生活に困ることはない。全てがそこそこで悪くない、そんな言葉がしっくりくる。

ざっとメールを確認したが、急ぎの内容ではないことに安堵しながら画面を閉じて、ビールに口をつける。
冷たさが喉を落ちたその瞬間、今度は個人スマホが震えた。母と美里。画面には、美里の犬のアイコンが表示されている。

母からは、「いつ帰省するの?」。返事は後でいい。問題は美里の方だった。タップしかけて指をしまう。

田辺美里たなべみさとは大学の同級生で同じゼミだった。彼女とは社会人になってから付き合い始めた。交際期間は5年。二十代をほとんど一緒に過ごしてきた相手だ。

2か月前、結婚をめぐってぶつかり、そのまま距離を置いた。彼女は結婚を望み、俺はその気になれなかった。
何度か連絡は来たが、忙しさにかまけて返さず、時間だけが過ぎていった。
別れる理由が見つからなかった──いや、正直に言えば、独りで眠る金曜が当たり前になることや、「そういう関係」が続く相手を手放す勇気がなかったかもしれない。

家庭も子どももすぐに欲しいとは思えない。そう告げたとき、美里は震える声で「亮介はわかってない」と言い捨てて出て行った。
廊下に響いたヒールの音。一瞬音が止む。少し間を置いて、カツカツと遠ざかっていく。
追いかけられず、音が消えるのを聞いていた。その静けさだけが今も胸の奥に残っている。靴の中に入り込んだ小石が転がるのを無視しているような、2ヶ月だった。

彼女と最後に会ったときの光景がふっと浮かぶ。頭を振り、ビールを一気に流し込む。
気のせいか、さっきより苦みが舌に長く残った。

美里からのLINEは気になる。けれど、白黒つけるのが怖かった。彼女を納得させる言葉も出てこない。
……それに、気がつくと、最近は山崎やまざきかおりのことが視界に入る。

山崎かおりは二十三歳くらいの派遣社員だ。
いつだったか、会議の書類をお願いしたことがある。指示をする前に、データだけではなく予備の紙資料を数部、用意してくれていた。急ぎの依頼にも嫌な顔を見せずに対応してくれる。
かおりちゃんは、巻き髪にワンピースの女性らしい柔らかい雰囲気の子だ。会議のあとに少しずつ話すようになって、先週、彼女から飲みに誘われた。美人に誘われて断る理由はなかった。

「彼女さん、いるんですか?」と訊かれ、少し迷ったあと、いないと答えた。
──今も美里と付き合っているのか、わからなかったから。ただ、それだけだ。

「お待たせしました、冷やしトマトと冷奴、刺身三点盛りです。今日の魚は豊洲から仕入れたマグロとカンパチ、それとカジキです」

ゴトンという音とともに、冷たい皿がテーブルに触れ、意識が現在に引き戻される。
手にしていたスマホをそっと伏せ、目の前の料理に口を運んだ。
トマトの酸味が舌先を刺激し、刺身三点盛りには醤油が濃く染み込み、少し塩辛く感じた。周りの音が、一瞬だけ遠のいた。カウンターの奥の棚に並んでいる日本酒の瓶が歪んで見える。
その静けさの中で、自分の呼吸だけが浮き上がる。

──あれ?

視界がぐらりと揺れる。酔いじゃない。酒はまだ一杯目だ。
胸の奥に、不穏な影が広がる。今度は耳の奥で、ジージーと耳鳴りがした。蝉の声に似ている。いや、違う。もっと機械的な──。思わず自分のシャツの胸元を掴む。

「お客様?どうかされました?」

「いや、なんでもないです。でも、お水貰えますか?」

いつの間にかこちらをのぞき込んでいた店員にそう告げた。
椅子に腰かけている足元の感覚が無くなっていく。

もう一度スマホに手を伸ばした。震える指先が画面に触れた瞬間、スマホがつるりと指の間を滑り落ちた。

「あっ……!」

落ちるスマホを追って反射的に身を屈める。
その瞬間だった。足元の感覚が完全に消えた。
自分が倒れているのか、それとも身体の感覚が失われているのか判別がつかない。視界は水底へ沈むようにゆっくりと滲み、耳鳴りだけが甲高く響く。

「あいつさぁ、もうれいわなのに」

さっきまで聞こえていた笑い声が、壊れたレコードのように同じ一節だけを繰り返していた。

──何だ、これ。

「お客様!」

遠くで店員の声が聞こえた。その声も次第に遠ざかっていく。俺はゆっくりと目を閉じた。




 ▶二話


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