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【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日2



CASE 01-1   とまどいの木曜日



おそるおそる目を開くと、まず目に入ってきたのはクリーム色の壁だった。
ところどころ壁紙に滲んでいるシミには見覚えがある。
あたりを見渡すと、今朝と変わらず雑然と物が散らばっていて、見慣れた風景が広がっていた。椅子にかけたままになっている洗濯物。
デスクの上には、絡まった充電用のコード。買ったままで満足していた先月号のタウン情報誌が伏せられている。

間違えようもない自分の部屋だ。慎重に手足を動かしてみたものの、どこにも痛みはなく、大事には至らなかったらしい。倒れる瞬間に感じた耳鳴りも今は止んでいる。
そして、なぜかスーツではなく、Tシャツとハーフパンツを着ている。
付き合い始めの頃、美里からハワイ土産にもらった褪せたブルーのTシャツ。“ALOHA”とプリントされている。生地がくったりしてきたけれどそれも含めて気に入っている。

──あれから、どうしたんだっけ?

記憶をたどってみたものの、居酒屋で倒れかけたところまでしか蘇らない。

「居酒屋の……ビール、美里からのLINE……」

そうだ、スマホ。確かあのとき美里からLINEが届いていたはずだ。
急いでそばにあったスマホを確認したものの、母以外のLINEは届いていなかった。
美里とのやりとりは、2か月ほど前、最後に家に来たときの日時で、
『これからいくね』とスヌーピーのスタンプが表示されたままだった。

「おかしい」

どういうことだ? 
ベッドから立ち上がり、ほとんど使っていないキッチンへ向かう。冷蔵庫の中からペットボトルのお茶を取り出した。喉の奥を冷たさが流れていく。
けれど、胸のざわめきだけは静まらなかった。
手にしていたスマホを覗き込む。やはり美里からLINEは届いていないようだ。
全部夢だったのだろうか。ふと、画面の違和感に気づいた。

『8月21日(木)5:25』

スマホの画面にはくっきりと表示されている。今日は金曜日で22日のはずだ。電源をオフにすると、黒い画面が表示された。しばらくして、もう一度電源を入れる。

『8月21日(木)5:25』

変わらない。

「いやいやいや……」

思わず声が漏れた。
落とした衝撃で壊れたのか。そうだ、きっとそうだ。日付表示だけおかしくなったに違いない。

──でも、そんな壊れ方するか?

急に胸の奥がざわついた。修理に出すとかそういう問題ではない。
時計代わりにテレビをつけて時刻を確認した。画面右上には、5時26分と表示されている。どうやら時刻はずれてはいないようだ。

「それでは中継を繋ぎます。ヤマナカさん、お願いいたします」

映し出されたお天気キャスターのヤマナカさんは、黄色のトップスに白い膝下スカートという爽やかな組み合わせの服装をしていた。
まだ早いけれど、目も覚めてしまったし、どうしようか。そんなことを考えていると、ヤマナカさんの言葉が飛び込んでくる。

「東京では18日連続猛暑日となる見込みです」

18日? 昨日も、まったく同じ言葉を聞いた──はずだった。
思わず画面を食い入るように見つめたものの、画面のヤマナカさんには確かめようもない。
画面右上には「8/21(木)」と表示されている。

そんな馬鹿な。

昨日は午後から商談で、その帰りに居酒屋へ入った。冷やしトマトも枝豆も頼んだ。あの冷たいビールまで、はっきり覚えている。何かの間違いに違いない。試しにネットでニュース検索してみると、やはり日付は21日となっている。

胃の奥が冷えて、喉が凍りついて声が出なかった。何かの冗談だ。同僚の渡辺あたりに笑い飛ばしてもらおう。疲れてるんだなって肩を叩かれて終わるはずだ。身支度を整え、いつもの電車に飛び込んだ。


◼️


乗り慣れた電車に揺られながら、違和感を確かめるように周囲を見渡す。昨日までと変わらない。
眠っている人、本を読む人、スマホを触る人。昨日はどうしていただろう?
肩が触れ合うほどの距離で人々を眺めていると、急に揺れが大きくなり、右側に重力が傾いた。  

「急停止信号が押されたので、しばらく停車いたします」  

アナウンスに息を呑む。──昨日も、同じ駅で急停止したはずだ。まさか連日?  
窓の外を凝視しているうちに電車は再び動き出し、遅延のせいで次の駅から人がなだれ込む。
背中に圧力を感じながら必死に耐えていると、新聞を広げるサラリーマンの紙面が目に入った。  

8月21日(木)。  

昨日も木曜日だったはずだ。幻覚か、それとも本当に……。  
凝視する俺に気づいたサラリーマンが咳払いし、慌てて視線を逸らす。胸の奥で不安が膨らんでいった。

「次は大手町、大手町──」

アナウンスとともに、再び圧力がググっと加わる。鞄を抱え直して人の流れに一歩踏み入れ、そのままホームに出た。
さっきまで自分を取り巻いていた圧力から解放されて大きく息を吐く。そのまま人の流れに逆らわず会社へと、流れるように向かった。
長い地下鉄のエスカレーターを抜けると、ビルのエントランスが見えてきた。鞄からIDカードを取り出しながら歩いていると、背後から声が飛んできた。

「亮介」

足が止まる。背後から呼ばれた声が鼓膜の奥をじわりと震わせた。振り返らなくてもわかる。
覚悟を決めて振り返ると、そこに美里がいた。
ネイビーのパンツスーツに、髪を後ろでまとめている。感情が読み取れない。けれど、瞳の奥には熱が潜んでいた。
頭を回転させたが、口から出たのは情けないほど平凡な言葉だった。

「……美里。久しぶりだね」

怒っているはずだ。「話そう」と言われるたび、仕事を盾にして避け続けてきた。

「ずっと連絡が取れないままだったから勝手に会社まで来たこと、まず、それはごめん」

美里の第一声は、驚くほどいつもの口調だった。呆気に取られて、いや、そんなことない、こちらこそごめん、と言いながら首を横に振る。

「時間ないだろうし、単刀直入にするね。どうしたらいいのか考えてた。亮介はどう思ってるの?」

理知的な口調。けれど抑え込んだ熱が、声の奥に混じっていた。

「美里はどう思ってる?」

「……またそれ?」

眉間に皺が寄り、瞳が揺れる。

「はぐらかすの、もうやめて。私だってずっと考えてたんだよ」

唇を強く結び、視線を外した。

「亮介が何も言わないから、私はずっと宙ぶらりん。待ってる間に、どんどん惨めになっていく気がして……」

かすかに声が震えた。いつからだろう、美里の笑顔ではなく、険しい顔ばかり見るようになったのは。
美里は唇を強く結んで、言葉の代わりに視線を床に落とした。パンプスの先で床を小さく打つ音が、彼女の苛立ちを代弁していた。
前に会った時より少し痩せている。胸の奥がきゅっと音を立てる。

「……このままじゃ、私はずっと“保留”のまま。そんなの耐えられない」

その瞬間、すぐ横を人が通り過ぎ、こちらに気づいたのか、割って入るような声が飛んできた。

「おはよう。彼女? 朝から仲良しだなぁ」

同期の渡辺だった。ノータイのシャツにワックスで整えた髪。
朝の湿気に頓着せず、やけに明るい笑顔を振りまいている。美里は俺から目を逸らし、軽くお辞儀を返した。

「そういえば部長が昨日なんか探してたぞ。早く行った方がいいかも。それだけ伝えとく。俺、先に行くな。彼女さん、またね」

ひらひらと手を振って、渡辺はエントランスの奥へ消えていった。美里はそちらを見たまま、表情を動かさなかった。人の流れに押し流されるように、俺たちの間に隙間ができる。

「美里、時間が取れなくてごめん。今日、仕事が終わったら家に来て欲しい。今度こそ、ちゃんと話そう。美里の気持ちも聞きたい」

「──わかった。それまでに整理をしておきます」

その返答に、胸が軽くなったと思った直後、同じ場所がひりついた。

「あ、それと一つ。今日って何曜日? ……それと、昨日LINE送ってくれた?」

ずっと気になっていた疑問を一気にぶつける。

「LINE? してないよ。それと今日は木曜日だけど、それが何か?」
怪訝そうな顔。
「木曜日? 本当に? 金曜じゃなくて?」
「木曜日!」

その言葉だけを残して、美里は駅の方へ走り去っていった。

──木曜日。
昨日も木曜日だった。人は昨日と少し違う。
日付だけが戻っている。

……これは、本当に「同じ日」なのか。

小さくなっていく美里の背中を見送り、それでも職場へと足を向けた。



▶︎三話

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